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「江戸・東京」歴史人物散歩
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歴史
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第8章 寛永寺派将軍の点鬼簿調べ【上野】【谷中】

『「江戸・東京」歴史人物散歩』
[著]雲村俊慥 [発行]PHP研究所


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●百八歳まで生きた高僧の夢とは

 
東叡山(とうえいざん)、ここは忍岡(しのぶがおか)とて当国の名所(なり)。東国の叡山なれば東叡山というなり。此山にのぼれば、江戸中は残らずめのしたにみゆ」

 上野(うえの)は『江戸名所記』に、このように紹介されている。古くは忍岡とか忍ヶ岡と呼ばれていた。それが下谷(したや)に対して上野になり、そのまま定着した。とにかく地の利には、もともと恵まれていたのである。

 ここに早くから目をつけたのが天海僧正(てんかいそうじょう)諡号(しごう))・慈眼(じげん)大師。当時は川越の古刹・無量寿寺(むりょうじゅじ)で第二十八世の法灯を継いでいた。彼は、「もし将軍のお膝元である江戸の上野に、われわれ天台宗の拠点を築き上げたら、宗教界全体を総括(そうかつ)できるにちがいない」と考えたのである。夢のような話だが、構想だけは()り上げた。

 

 すると、慶長(けいちょう)十六年(一六一一)十一月、徳川家康が川越(かわごえ)に現れ、親しく接見する好機を得た。天海は、「上野は江戸城の(うしとら)(東北)で鬼門(きもん)ですから、立派な寺を建てるべきです」と熱心に持論(じろん)を説いた。家康は上野を奥州(おうしゅう)牽制の出城にするつもりだったので、その意見を真剣に受け止めた。

 やがて家康が没する。そのとき天海は東照大権現(とうしょうだいごんげん)の贈号と日光山への改葬を主導して頭角(とうかく)を現す。二代秀忠が感服し、三代家光が傾倒しだした。天海は、寛永二年(一六二五)、晴れて上野に寺院の建立(こんりゅう)を許されたのだ。ここで西の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)にちなんで山号を東叡山とし、延暦寺同様、寺名に年号を冠することを申しでた。さらには天海亡き後、歴代の皇族を門主に迎え、江戸城の守護寺に、また徳川家の祈祷(きとう)寺にしてほしい、と願いを重ねた。

 家光がそれを許したので、上野の山には東叡山寛永寺を中核にする堂塔(どうとう)伽藍(がらん)が三十棟余、子院三十六坊が立ち並ぶことになった。天海は夢の実現を見届けて、寛永二十年(一六四三)、百八歳で入寂(にゅうじゃく)した。

 
●これが将軍たちの点鬼簿だ

 

 天海大僧正というと、近づきにくい人物像を思い描くが、奥州会津郡高田郷出身で三浦姓を名乗っていたと聞けば、急に親しみが湧いてくる。
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