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移行期的乱世の思考
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経済・金融
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第一話 行き詰まった民主主義

『移行期的乱世の思考』
[著]平川克美 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間25分
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  震災で露呈した民主主義の「行き詰まり」

 
――平川さんはこれまで、いくつかの著書の中で、人口減少などの文明史的な視点から、日本や世界の過去・現在・未来を語って来られました。そして今回は、「移行期的混乱期が始まった今、これからの時代をどう生きるか」をお話しいただけると伺っています。まず、その視点をどこに置けばよいのかを教えてください。

 

 まずは、今回の災害とそれに続いた原子力発電所の事故、そしてそれらに対する人々の反応と政府の対応について、これをどう見るかというところから考えてみたいと思います。

 歴史のスパンを長くとれば、日本の太平洋側の沿岸部では津波の被害は何度も繰り返されてきたわけです。地震と津波という視点だけで見れば、今回の震災は、すでに経験済みのことであったということです。もちろん、それは悲劇的なことであり、その規模が非常に大きかったことが、復興を難しくしている要因の一つですが、それにしても、人々はその都度、災難に耐え、復興してきたわけです。あるいは、百年に一度というような自然災害に対しては、この地に暮らす者の宿命として受け入れていたのかもしれない。しかし、今回は過去のものとはまったく違う要因が加わってしまった。「原発事故」という、非常に人為的な要素ですね。

 これは誰もが同様に言っていることですが、「天災と人災が同時に起きた」と。しかも、それは想定外のことだったと原発を推進した関係者は言っていた。一つは、人知をもってしては計り得ないような天災であり、もう一つは日本的な馴れ合いによって運営されてきたシステムの欠陥が露わになったのだと。

 どちらも、その通りだと思うのですが、僕は「日本で今、起こっていること」は、もう少し射程の長い問題が顕在化してきていると捉えるべきではないかと思っています。文明史的な問題として考えたいと思っているのです。

 震災後の混乱ぶりや露呈した原子力村の問題は、終戦から始まったデモクラシー、それに随伴して進められてきた資本主義、とくに消費資本主義が歴史的な転換地点に立っているということを考慮しないと、この災厄とそれに対する日本人の対応の本質的なところは見えてこないのではないかと思うからです。

 原発は、ご承知のごとく五〇年代に導入が検討され、六〇年代に東海村で最初に発電され、オイルショックで日本経済が打撃を受けた七〇年代あたりから、積極的に推進されてきました。当初は懸念を抱いていた多くの人々も、このオイルショックによる経済の落ち込みから原発を容認する方向へ向かったように思います。積極的な容認ではないにせよ、既成事実に対して、(こと)あげするということをしなくなっていった。

 もちろん、様々な意見がありましたが、それらが煮詰められることはなく、全体としては経済成長優先といった風潮が形成されてきたように思います。それは、ある意味では民意だったのではないか。民意としての個人の生活優先、経済優先の陰に、公共や国家の問題をどんどん先送りしていったのではないかということは、否めないと思います。

 もう少し細かく見てみますと、七〇年代以降、つまりは高度経済成長が終わり、相対安定期に入ると、一億総中流といったいわば民主主義の理想が実現しました。以後、個人というものが自由な消費活動に目覚めていくわけです。つまり、権威主義的な家族といったものが崩壊し、家計における可処分所得が増加する中で、一人ひとりが自由な生き方を求めてきたわけですが、同時にそれまで個人を監視したり庇護したりしてきた家族や会社といった共同体的なよりどころが消滅あるいは変質して、頼るべき共同体が見失われ、代わってお金だけが頼りといった、金銭至上主義的な風潮が生まれてきたわけです。

 民主主義の歴史から見れば、労働の時間が短縮され、週休二日制が実施され、労働者派遣法の改正などによって自由な働き方ができるようになり、自己責任、自己決定で生きていけるようになるのは、進歩だと言ってもよいと思います。

 前著の『移行期的混乱』(筑摩書房)でも書きましたが、その結果として女性の地位が向上し、結婚年齢が上がり、少子化の時代が到来したのだと僕は思っています。

 民主主義は、選択の自由、快適な生活、利己的な欲望の肯定といった方向へ進んできたわけですが、そのこととトレードオフの関係で、他者に対する配慮や、痛みの分かち合い、伝統的な価値観への敬意といったものを希薄化させる方向へ向かいました。

 そのことが、さらにお金の万能性信憑(しんぴよう)昂進(こうしん)させる結果になったんですね。

 僕は七〇年代、八〇年代の一億総中流あたりが、民主主義が社会全体にとってプラスに作用した最終の段階だったのではないかと思っています。

 荒っぽい言い方をすれば、民主主義が進展し、個々が自己責任で生きるようになり、そこにグローバル競争なんていうものが加われば、弱肉強食のような経済競争に入らざるを得ない。

 民主主義には、個人の自由の拡大とともに、「最大多数の最大幸福」といった理想が随伴していたはずですが、それが個人主義の徹底によって貧富の格差の拡大へと突き進むようになってしまったというわけです。

 民主主義が高度化し、ある水準・かたちを成したがゆえに、もうマイナスの方向にしか機能しなくなるポイントがあるとすれば、そのとば口に立っているのが、現在の日本の姿ではないでしょうか。

 例えば、今の日本でもうこれ以上エネルギーを使う必要はないのではないかと考えてもよさそうなものですが、なかなかそういったアイデアに行き着きませんね。
「もっと豊かに、もっと経済成長を」という掛け声に牽引されてしまう。それは、自分の欲望を制御するということが、どこかで民主主義の個人の自由の拡大という理想と背馳(はいち)してしまうからではないでしょうか。

 もちろん、僕は民主主義の擁護者でありたいと思っているので、民主主義自体を否定するつもりはないのですが、この間に起きている様々なことを見ていると、どうも民主主義というものがマイナスに作用していると思わざるを得ないのです。

 例えば、株主資本主義は、民主主義が生み出したシステムですが、近年ではほとんどイデオロギーと化しています。ところが、一般的に言って株主とは自己利益をただひたすら追求するものであり、その意味では公的な責任ということにはほとんど関心を示さない存在です。その株主によって支配される会社もまた、社会的な責任ということに対しては無関心にならざるを得ないわけです。

 オルテガ・イ・ガセットが、「彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていない」(『大衆の反逆』神吉敬三訳、角川書店六二頁)と言っているけれど、その「彼ら」が純化したのが「株主」であり、その株主が社会の中心に野放しにされるような状況が生まれてきた。

 もちろん、これは比喩的な言い方で、具体的な株主を責めているわけではありませんが、このような状況が社会全体を覆うようになれば、デモクラシーがもうマイナスにしか作用しなくなるとはいえるのではないでしょうか。

 そして、その視点なしには多くの問題がうまく説明できなくなっている。

 
――「デモクラシーの行き詰まり」と言えるでしょうか? 具体的にお話しください。

 

 デモクラシーの根幹にあるのは、専制的な意思決定は最悪の事態を招くことがあり、それを避けるためには一人ひとりの意思を尊重する必要があるという思想だと思います。つまり、「個人の意思といったものができるだけ大きく、社会運営などにも反映するシステム」にすれば、意思決定において大きな過ちは犯さないだろうということだったと思います。

 それは当然のことながら、それ以前にあったシステムからの転換によって実現しました。デモクラシー以前は、封建的な、あるいは家父長的な、または権威主義的なある一人の強力なリーダーによって意思決定がなされたわけです。よく言えばパターナリズム(*)ですが、一部のエリートや、既得権益者によって社会は牽引され、その下に無数のものを言わぬ民がいるというような状況があったわけですね。戦後は、その体制から一変して、あらゆる権威を疑うという方向に向かってきたわけです。権威主義とは反対の、核家族的な体制ですね。

  *強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意思に反して行動に介入・干渉することをいう。日本語では家父長主義、父権主義、温情主義などと訳される。

 そしてこの体制は、経済成長を背景にしてどんどん進んでいく。そして、これも典型的なかたちですが、個人主義が非常に強くなっていく。個人主義と利己主義は違うと言いますが、その境界が曖昧(あいまい)になっている。当今の風潮としては、個人の欲望を全面的に肯定するという方向ですね。そのかわり、「自己責任だよ」って。これは、デモクラシーといったものが持っている必然的な流れ、歴史の流れなわけです。

 このかたちがうまく作用するのは、前世紀的なパラダイムが崩れていく時です。そうした転換点では非常に大きなパワーになる。また、多数決の原理によって、大きな過ちは犯さないで済む。例えば、クレージーで悪魔的な一人の個人がリーダーとなり、その強力な権力によって、途方もなく間違った方向に国全体が向かってしまう、そうした事態を回避することができる。その点では、非常にうまく機能したわけです。

 ところが、ある時点から民主主義がうまく機能しなくなる。

 例えば、多数決といった民主的な意思決定システムが、少数者の尊重というよりは、少数者の排除としてしか機能しなくなるという事態が起きてくる。

 もし、少数者を最大限尊重するというやり方を採用した場合に、多数決による意思決定は最終的な決定ではなくて、暫定的な決定であり、そのあとに少数者への理解を求める説得なり、説明が必須となります。そして、もう一度採決する。これを繰り返し辛抱強く行うというのが、民主主義的な手続きだったわけですが、現代のようなせっかちになった社会では意思決定できないシステムに見えてしまうのです。

 そこで、強行採決なんてことが常態になっていきます。

 ある時から人々が何を叫び始めたか。強いリーダーを求め始めたのです。今、その声が急激に大きくなっている。「速い決断ができる、強いリーダー」。今や、民主主義が強いリーダーを求めている。非常に歴史のパラドクスを感じますね。

 そもそも、「強いリーダー、速い決断」とは何でしょうか? これは、民主主義の否定なんです。民主主義は決断が遅いんですよ。手続きですから。それから、強いリーダーがいなくてもやっていけるシステムだったわけですね。民主主義がそれを否定し始めた。

 物事がうまく回らないというのは、いつの時代でもあまり変わらないとは思うのですが、そのことに対しての耐性がなくなってきた。同時に、家族や地縁というものを基底にした価値観の共有、ある種の常識が希薄化してしまった。その結果、数の論理しか権威を担保するものがなくなってしまったわけです。

 多くの人(まさに数としての多数)が「誰かにやってもらいたい」と思い始めた。つまり、どこからか誰かメシアが現れて、「うまくやってもらいたい」というようなメンタリティになっているわけです。

 これは、戦後、僕たちが、「自分たちの考え方で、多数決でやっていくんだ」という姿勢を示し、その方法に則ってやってきたことが、どこかで、反転してしまったということです。そして、その反転の理由もまた、民主主義の中に胚胎していたんだということです。


 

  家族の崩壊、出生率の低下、そして原発は、抱いた「欲望」の結果である

 
――「民主主義が進みすぎた」ことによって、今、何が起こっているのでしょうか?

 

 一つは家族の崩壊ですね。これは実は大きな意味があるのです。家族というのは、まさに共同体の歴史的な規範の中心ですから、それが崩壊すると歴史的な文化や、制度や、作法や、禁忌(きんき)といったものが継続されなくなっていく。その結果として、地縁的な共同体が作っていた価値観や人間関係が希薄になった。要するに、個人がバラバラになっていったんです。そして、なぜだかわからないが、出生率が下がり始めた。出生率がこういうかたちで下がり始めるというのは、そこに家族という共同体、あるいは地縁共同体といったものが機能しなくなっているという背景があると僕は思っています。個人個人がバラバラで、言ってみれば、今の日本社会は一人ひとりが砂粒みたいな状況になっている。しかし、これは個人個人が求めたことなんです。そして、実際にそれが実現した。

 
――個人がバラバラになることは、実は“望んだこと”だと。

 

 ええ。具体的に言えば、子どもが自分の部屋が欲しいと言う。あるいは、自由が欲しいから、親元を離れて自分で暮らしたいと思う。それが実現し、晴れて自由が拡大するわけですが、それとトレードオフで共同体は壊れていく。自然のプロセスなんですね。

 そのプロセスの中で、共同体を破壊する最もインパクトの強い破力となった考え方が、経済重視の思考、特に新自由主義的なものの考え方なんです。それは「個人の欲望を全面的に認める」。そして「自己責任、自己決定、自己実現」といったような世界観をばら撒いたわけです。

 企業はどうかといえば、個人の集合である株主がその所有者であり、その所有者の欲望に忠実であるべきだと考えるようになった。株主圧力は、時価総額を上げることを要求し、利潤を確保するために人件費の安い場所を求めて海外へ展開したほうが有利だという考え方が、まったくパラレルに、というか、相補うように進行しました。この経済重視、効率重視の考え方が、社会の隅々にまで浸透するのに時間はかからなかった。その行き着くところが民営化路線だったわけで、民営化されれば、企業は激しい競争に勝つためにコストをできる限り圧縮する。場合によっては、コストを外部化してしまう。今回の東電のケースも、こういった企業による経済優先の考え方とどこかでつながっている。

 
――東電の振る舞いは、極めて新自由主義的で、欲望の全面肯定的な思考の結果だと? もう少し具体的にお話しください。

 

 この東電の問題をちゃんと解析・解剖できない限り、今回の原発事故の問題は明らかにならないと思います。それは、事故原因を追及して突き止めるということとは、別の文脈の話です。もちろん、直接的実証的な原因究明は大切なことで、しなければなりませんが、同時になぜ東電のような会社が生まれ、原子力村のようなものができ、なぜ人々はそれを見過ごしてきたのか。僕を含めて、そこに何があったのかを解剖する必要があります。要するに、この事故を生んだ土壌をきちんと分析し、問題点を整理し、理解しなければ、同じことを繰り返すことになります。

 東電の体質みたいなものは、ある意味で歴史的な産物です。これを突き詰めて解析していけば、現在の日本の問題の根本にあるものが浮かび上がってくるはずです。僕が言っている移行期的混乱ですね。かつての護送船団方式から民営化が進み、表面的には日本は競争社会へと移行した。その時に、古い体質は解消したように見えたけれど、実は隠然と生き残っていて、もっと別なかたち、時にはもっと隠微なかたちで社会に残存していたし、その理由もまたあったということです。誤解のないように言っておきたいのですが、僕は古い体質が良いとか、悪いとか言いたいわけではないのです。
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