私の小説には、涙のシーンが多く登場します。号泣する場面もあれば、ひとりで涙をこぼしている場面もあります。涙は生きるということから切り離せないものであることを無意識のうちに知っていて、涙に至る心の流れ、そして涙を流した後の心の展開に、人間の微妙な真実のようなものを見出していたからかもしれません。
読者の方々の反応は、「癒された」というのが大半でした。小説を読み、泣いて、心が軽くなったと。私自身が、泣いた後にまた歩き出す元気が出てくるように、多くの人もそのような感覚を持っている。涙にはやはり“浄化の作用”があるのだと、改めて感じました。
私たちは泣きながら生まれてきます。そして、涙に見送られて旅立っていきます。泣きながら旅立つこともあるでしょう。涙で始まった人生は、涙とともに幕を閉じるのです。そんなに関わりの多い涙について、私は深く考えたことがありませんでした。ただ、「涙には浄化の作用があり、涙にはいろいろな意味が込められ、感情とともにある」ということくらいの認識でした。
涙についての考察を深めることは、自分について知っていくことでもあります。自分の涙を横に置いておいては、とても語れない。それだけ涙の体験というのは、ある意味、重いものでもあるのです。自分の涙を分析するのは、勇気のいることです。そこには、見たくない自分の感情が込められているかもしれない。それをオープンにするのには、抵抗があるでしょう。
十年前だったら書けなかったかもしれませんが、今なら自分の涙の意味について深めることができそうです。自分を見つめる勇気も、今の自分にはありそうです。涙について考えるにあたって、私は自分自身にその勇気があるかどうか問いかけたのです。
涙を語るとき、“心が開いている”ことが望ましいのは確かです。それは、さまざまなこと、自分の涙、他人の涙を受け入れる準備があるということですから。でも、語りながら開いていくということもあります。こりこりに固まってしまった心が、涙について考えることによって、柔らかくなっていくということもあると思います。開いていると思えばそれでOK。開いていないと感じても、それを責めることはないのです。今ここにある自分を大切にして、今ここにいる自分と一緒にいればいいのですから。
なぜ悲しいと涙がこぼれるのか。なぜ感激すると涙になるのか。私たちにとって、涙は時に不可解な存在です。たとえば、学校で人間の身体について学んだとき、食べ物がどのように消化されるかというメカニズムは勉強しても、どうして涙がこぼれるのかということについては勉強しなかったように思います。
涙を理解するには、もしかしたら多くの涙の経験が必要だったのかもしれません。そして、タイミングも。私が涙について語るというこのタイミングも、私の人生にとって大切な意味があるかもしれないと思うのです。