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なぜローマ法王は世界を動かせるのか インテリジェンス大国バチカンの政治力
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政治・社会
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第6章 日本とバチカンの深い関係

『なぜローマ法王は世界を動かせるのか インテリジェンス大国バチカンの政治力』
[著]徳安茂 [発行]PHP研究所


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太平洋戦争終結に日本はバチカンに仲介を依頼した!?



 日本におけるキリスト教徒は、カトリックが約45万人、プロテスタントが約55万人といわれている。カトリックがイエズス会のフランシスコ・ザビエルとともに16世紀に入ってきたのに対し、プロテスタントの日本での布教は明治維新以降になる。


 日本のカトリック信者は総人口比約0・3%にとどまり、カトリック人口は極端に少ない。しかし教育界をはじめとして、政治、文化、芸能、スポーツ、実業界と、さまざまな分野で活躍する著名人は少なくない。


 日本がバチカンと正式な外交関係を樹立したのは、太平洋戦争さなかの1942年だった。当時、ムッソリーニのファシズムが吹き荒れるイタリアにおいて権威が失墜していたバチカンだったが、日本がバチカンと国交を結ぶ意義を見出したのはなぜか。米国をはじめとする連合軍との戦闘行為ですべて片づくわけがなく、いずれやってくる講和交渉のテーブルに着くため、バチカンの影響力と仲介外交を期待したからだ。


 終戦直前、日本の指導部は終戦工作にあたり、中立条約を結んでいたソ連(当時)にも仲介の労をとってもらうべく働きかけた。その後のソ連による対日侵攻を考えれば、恥ずかしくなるほどの外交感覚だが、それと比べると実現可能性はともかくとして、バチカンにその可能性を探ろうとした方向感覚は決して悪くなかった。


 実際、1945(昭和20)年5月、バチカンのヴァニョッチという司教を通じて「一米国人」より、和平を仲介する用意があるので日本側と接触したいとの申し出があったという。しかし日本側としては、素性、目的ともに明確ではない一米国人の申し入れは受けられないと回答した。日本史上、もっとも混乱を極めた時代背景を考えると無理もない対応だったかもしれない。しかしここで重要なのは、日本がバチカンに大使館を開いていればこそ、このよう動きもあったということだ。


日本とバチカンの出合い



 日本人とカトリックの出合いは、イエズス会のサンフランシスコ・ザビエルが日本の土を踏んだ1549年のことだった。戦国時代のまっただなかだ。


 第5章でも触れたバチカン図書館には、1615年、ある戦国武将がローマ法王宛に送った手紙が残されている。手紙の送り主は伊達政宗(1567~1636)だ。私は、いまから400年以上前に、奥州仙台藩主の伊達政宗が当時のローマ法王パウロ5世に宛てた書簡を見せてもらった。


 政宗自筆の署名入りの手紙は、慶長遣欧使節団で知られる(はせ)(くら)(つね)(なが)(1571~1622)に政宗が託したものだ。ラテン語で書かれているが、伊達家の()(おう)と政宗の署名は真正のものとされている。


 その手紙には、英語と日本語の訳文が添えられていた。古い文体で書かれているので読みづらくはあったが、大意はほとんど理解できる。政宗のローマ法王に対する驚くほどへりくだった様子が読み取れた。いわく、「私は仙台藩がキリスト教の栄光に包まれることを熱望しており、そのためにはローマ法王の忠実な(しも)()として犬馬の労をとることも厭わない。よってわが藩にカトリックの宣教師を(すみ)やかに派遣してもらいたい。この希望を教皇聖下に請うべく、私はその足下にひれ伏し、そのおみ足に口づけする」という趣旨のことが書かれてあった。


 戦国時代を生き抜いた伊達政宗は、実父を見殺しにし、実弟まで自害させている。(きよう)(ゆう)といわれるほど油断のならない武将だった。当時、徳川家による天下統一がほぼ固まりつつあった時世においても、伊達家による天下制覇の野望を捨てきれなかった彼は、欧州諸国や、ニュースペインと呼ばれたメキシコとの交易を通じて仙台藩を富ませ、その富力を背景に徳川家に対抗することまで考えていたとされている。


 こうした貿易を仙台藩が独占するためには、ローマ法王の権威づけがぜひとも必要だったので、嘘も方便、武士の嘘は武略とばかりに割り切り、このような書簡をローマ法王パウロ5世に宛てたものと推察できる。この書簡を目の当たりにした私は、伊達政宗の(こう)(かつ)な一面を垣間見ると同時に、その生臭い息を一瞬()いでしまったような、奇妙な感覚に襲われた。


 しかし、歴史は伊達政宗の思ったようには微笑まなかった。支倉常長がローマでパウロ5世法王に謁見を許され、その書簡を手渡した同じ年、日本では大坂夏の陣が終わり、徳川家の天下統一が確定した。幕府によるキリスト教禁令の徹底化が始まったのはこのころだ。


 政宗は支倉使節一行の帰国を待つことなく、手のひらを返したように仙台藩領でキリスト教徒の弾圧を始めている。常長は1620年に帰国しているが、ローマでクリスチャンに改宗した彼を待ち受けていたのは栄光ではなく、過酷な運命だった。時代の波に(ほん)(ろう)された彼の生涯は、遠藤周作の小説『侍』に見事に描かれている。


 とはいえ、キリスト教に接近した武将がすべて伊達政宗のように打算づくだったわけではない。


 2016年1月22日付の国内各紙には、戦国時代の高名なキリシタン大名である高山()(こん)(1552~1615)が、バチカンから「(ふく)(しや)」に認定されるという記事が掲載された。2017年2月に大阪で高山右近の列福式が開催されることになったという。「福者」とは「聖人」になる前の段階を指す。2016年9月、聖人に認定されたマザー・テレサも、それまでは福者だった。

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