『禅と脳 大脳生理学と宇宙物理学から「さとり」を科学する』
[著]中山正和
[発行]PHP研究所
子供向けの雑誌についてくる付録によく「工作もの」があります。薄手のボール紙にすでに奇麗に印刷されていて、切り取り線にはちゃんと切れ目もプレスされています。この部分とこの部分を切り離して○の番号を合わせて挿し込んで下さい、そうすると「出来上がり図」のようなお城ができます、というようなものです。
ところで見ていますと、こういうのをテキパキと手際よく仕上げてしまう子供と、部品を間違えたり失くしたりしてなかなかまとまらない子供とがいます。テキパキやってしまう子の方が仕上がりがいいかというと必ずしもそうとは限りません。早いけど雑だというのもあるし、仕上げのドタン場で「シマッタ!」なんて大間違いに気がつく子もいます。ノロノロ型だって悪いばかりではありません。スロー・アンド・ステディで、時間はかかったけれど、実に奇麗に正確に作る子もいます。
このようなことは何も子供に限ったことではありません。大人の仕事の仕方を見ていても同じ傾向は事ごとに出てきます。手先の器用不器用ということもあるかも知れませんが、それより、要するに「手際よく」仕上げる子供というのは、「出来上がり図」を始めによく見ていて、「結局どういうものが出来上がるのか」ということを呑み込んでから作業にかかるのではないかと思われます。全体のイメージを掴んでいるから、「このあたりにはこんな部品が付くはずだ、ア、これだ」「そうするとこの後ろにはこんなのが続くナ」「じゃ、これは仮止めにしておいた方がいいナ」と考えることもできます。難しくいえばオペレーションズ・リサーチ的に問題追跡をしていることです。
「出来上がり図」をよく呑み込まない子は「作り方」という作業手順書を読みはじめます。「(一)の板のAにノリをつけて(二)の板のAに貼り合わせる」「そのつぎに……」というふうに進めていきます。手順書が間違っていない限りこのやり方は必ず成功します。この「工作付録」を考えた人は自分で一度作って見て、それからこれを「一番楽に作れるように」と繰り返して手順書を作ったのでしょうから、工作する子にとってはそれに従うのが一番間違いない方法であるはずなのです。
禅というものを子供の雑誌の「工作付録」に譬えたら叱られるかも知れませんが、禅には禅の「出来上がり図」があると思うのです。これが大変に複雑怪奇なのでそのイメージを描くことが極めて難しい。作業手順書を作った人もたくさんおられるが、どうも「工作付録」みたいにはいきません。(一)のAと(二)のAと貼りつけると前に貼ったところが剥がれてしまうというような矛盾がおきて仕方がないのです。だから「そこのところはお前が工夫して何とかしろ」というより他いいようがなくなります。
私がこの本でいいたいのは、禅の「出来上がり図」を簡単にして、結局何を目指せばいいかを掴みやすくしたらどうかということです。いままであった「複雑怪奇」の部分を、「科学」というものが発達したのだから、いくらかでも分かりやすくして、みんなが「出来上がり図」のイメージを持ちやすくしてみたい、という試みなのです。