『禅と脳 大脳生理学と宇宙物理学から「さとり」を科学する』
[著]中山正和
[発行]PHP研究所
コトバは「自在」を乱す
人間の脳の「言語系」も進化の一過程として現われてきたものですから、コトバがあること自体は何も悪いわけではないはずです。ただ、「間違った使い方」をするといろいろ困ったことが起こります。お釈さまが「正語」と教えたのはそのことだろうと思います。
たとえば、パロールだけしかもっていない子供でも「オバケ」というようなコトバによって、【イメージ記憶】の中にオバケのイメージを想像します。そんなものは実際にはありはしないのですから「真実のデータ」ではありません。しかし、この想像によるイメージを子供が繰り返し思い出しているうちにイメージはどんどん強化されて、ついにはあたかもそれはこの目で見、この手で触れた真実のデータであるかのように【イメージ記憶】の中に固定されてしまいます。【イメージ記憶】は【いのち】と直結していますから、子供がオバケを怖がるということは、そのイメージから送り出される信号が【いのち】にとっては有害であるということです。子供はあまりオバケのイメージを強化しすぎると本当に病気になってしまいます。
また、病気にならないまでも、オバケのイメージが強ければ暗いところへ行くことができない。お父さんに夜「ちょいと角のタバコ屋さんへいっておくれ」といわれても「いやだ」といいます。「何でいやなんだ?」「暗いもん」「暗ければどうなんだ?」「オバケが出るよ」「ナニッ、この弱虫めッ」と、ポカリとやられかねません。つまり、この坊やは「判断」を誤ったのです。【イメージ記憶】は動物系ですからこの判断は直観による判断です。
イヌだったらこんなことはありません。訓練されたシェパードなんか、暗いことぐらい平気です。彼の記憶の中にはオバケはいません。【イメージ記憶】は「自在」にありますから直観的判断に誤りがないのです。
子供ならこの程度で済みますが大人になると大変です。【計算】がはたらきますから、コトバによる「ホントかウソか分からない」ような情報で「あれこれ」考えます。ちょっとしたことで夫婦喧嘩をするなんてことは誰にでもあることでしょうが、そのあとが問題です。「どうして近ごろあいつは何事にもいちいち逆らうのだろうか」→「どうも付き合っている友達がよくないようだ」→「そういえばあの仲間には変なのがいるゾ」→「大体あいつは……」と、それからそれと考え出すときりがありません。これらのことは「そういえば」というとおり、コトバによって引き出されるイメージです。一回二回ならいいが、何回も繰り返してこんなことを考えていますと、そのイメージはだんだん強化されてついにはさっきの子供のようにオバケを作ってしまいます。イメージですから「いのち」に直接影響して健康を害したりするだけならいいが、判断を間違えて離婚騒ぎにまで発展したりします。【イメージ記憶】の自在性はメチャメチャに壊されてしまうのです。
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コトバがあること自体がわるいわけではない、といいましたが、こういう使い方をしてはいけないのです。しかし、どうしてわれわれは「つい」こうなってしまうのでしょうか?
コトバは「道具」であると考えてみましょう。道具というものはその機能が優れていればいるほど、使いこなすためには練習を積まなくてはなりません。この練習期間には何回かの失敗が必要なのです。よく切れるナイフは何回か指を切ったあとではじめて自由自在に使うことができるようになる。それと同じことで、コトバも、それを上手に使うためにはケガをしてみなければならないのでしょう。ケガをするというのは、コトバによって結局は悩み、争い、病気までしてしまうことをいいます。そうして生き甲斐のない生活をしながら、まだコトバの使い方をマスターしないでいることを「迷い」というのです。
「仏性」に気づくことが大切
禅は仏教から出てきたものであることは事実でしょう。しかし、仏教がだんだん宗教としての仏教になって派閥を作り出したのに対し、禅は釈の説いた「真理の発見」のプロセスにじかに(直に)接近しようとするものですから、少なくとも宗教という立場での仏教ではないと思います。お釈
さまは、人生の悩みごとを解決するにはどうしたらいいか、という、つまりは「問題解決学」を教えられたので、これが後日「仏教」という教えになったのでしょう。
あるときの説法で、みんなが集まって今にも話がはじまるだろうと期待していたのに、お釈さまは、その日にかぎって口を開かない。みんなが見詰めていると、やがてお釈
さまは手にもっていた花を差し出してちょっと捻ってみせました。みんなが黙っている中に一人
葉尊者だけがニコッと笑ったといいます。するとお釈
さまがこれを見て、
我に正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相 微妙の法門あり、不立文字 直示人心 教外別伝、摩訶葉に付嘱す