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禅と脳 大脳生理学と宇宙物理学から「さとり」を科学する
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生き方・教養
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第三章 坐禅と宇宙意識

『禅と脳 大脳生理学と宇宙物理学から「さとり」を科学する』
[著]中山正和 [発行]PHP研究所


読了目安時間:41分
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 正直いって、私は坐禅について語る資格はありません。只管打坐した経験など全くないので、坐ったというのは真似事にすぎません。真似事ですからちゃんとした師匠についたわけでもなく、お寺などでやっている参禅会というようなものにさえ行ったこともないのです。それが何故「坐禅」について余計なことをいう気になったかといいますと、私には坐禅の心境、「禅定」というのでしょうが、それが分かるように思うからです。まず、その理由から聞いて戴きたいと思います。



 リクツ大いにいうべし


 ここにいう「アイデア」は相当に深刻な問題解決についてのアイデアということで、発明、発見という性質のものです。


 最初の体験は、太平洋戦争の初期、陸軍の化学研究所に勤務していて、ある緊急を要するテーマを与えられたときのことです。考えられることはすべて考え尽くして、もはやどうしようもないところまで追い詰められてしまいました。問題は依然として解けませんし、締め切り期限は刻々と迫ってくる。チームのメンバーはみんな食欲がなくなって痩せてきました。ところが、その頃からみんなが夢をよく見るようになってきたのです。その研究がうまくいった夢なのです。そこであるとき、ワラをも掴むという気持ちになって、みんなの夢を話し合い、その中から何かヒントが得られないかということを考えました。これが成功しました。あとから考えてみますと、こういうときの夢は本当に夢か(うつつ)かという、ほとんど覚醒状態で見ているらしいのです。


 こんな経験を何回もしました。そのうち妙な自信がついてきて、「そろそろ夢に出てくるぞ」と思うとちゃんとそうなるようになりました。それで、調子にのって「催眠」の研究を始め、シュルツの「自己催眠」も練習したり、他者誘導などもやってみました。これはこれなりに役に立ちましたが、あるとき気がついたことは、何もそんなことをしなくても、最初の体験のように、問題を「徹底的に理性で煮詰める」ことをしさえすれば、そのあとしばらくすると、「あるとき」重大なヒントが「イメージ」として「観」える、ということです。


 この体験には自律訓練法(自己催眠法)なども役に立ったと思いますが、しかし、大事なことは、私はその自律訓練法によって問題の解決に成功したことはないということです。アイデアを出そうと意識してこういう方法を使っても成功するとはかぎらない、練習しておくことはいいことだが、アイデアはそこから生まれるのではなくて、別のところから「こちらに歩いてくる」のです。


 坐禅も同じことではないか? 坐禅をして悟るというけれど、悟りというのは要するに人生上のあらゆる「問題」を解いてしまった状態であると考えるならば、まず始めにやるべきことはその問題を徹底的に分析することではないか?


 ところが、坐禅のどの本をよんでも、リクツをいうなと書いてあります。只坐れといいます。ということは、坐禅するのは「アイデアが向こうから歩いてくる」のを誘発させることではないか? その裏には十分な理性のはたらきがなくてはならない。そうでなくてはうっかりするとボケ禅とか立ち枯れ禅になってしまうのではないかと思うのです。現に、道元禅師はいうに及ばず、禅の実践家はみんなちゃんとした理論をお持ちのようです。それが当たり前なので、「只坐れ」は「坐禅のとき」だけのことであって「悟り」についてはリクツ大いにいうべしではないでしょうか?


 自律訓練法とか自己催眠は、精神的な短所を是正することに主眼をおいていますから、リクツなしに「手が暖かーいと思え」というならそう思えばいい。坐禅はそうでない、人間本来の「智慧」の開発を目指すのですから、「禅に利益なし」ぐらいの覚悟は必要でしょう。


   *


 HBCモデルでいいますと(第六図)、問題を理性で煮詰めるということは、【計算】が情報を受け取って【コトバ記憶】のコトバ(【イメージ記憶】につながっている)を出し入れして行動計画を作ることですが、その計画ができないときに、「その問題が解けない」というわけです。いつまでも解けないと、解けないことによって起こるいろいろの「不快イメージ」が【イメージ記憶】に現われてきます。「この問題が解けないと社長にまた小言をいわれる」とか、「学会で仲間が悪口をいうだろう」というようなイメージです。


 この不快イメージが「不快」だというのは、そのイメージから【いのち】に送られている信号が「生きていく」ことに不都合だということで、【いのち】にとっては外部から、たとえば火が近付いたというような刺激信号を受けるのと同じように「不都合」なのです。火なら【いのち】は自動的に行動器官の方に「逃げろ」という信号を送り出せば済みますが、イメージからの信号では「逃げる」わけにはいきません。そこで【いのち】にできることは、【イメージ記憶】の中を探してその過去の経験を役に立てようとすることだけです。

【いのち】がこの作業を自由に行なうためには、【計算】が眠っていなくてはなりません。そうでないと【コトバ記憶】の方から【イメージ記憶】が乱されてしまうのです。ですから、もし、【いのち】が何か役に立つイメージを見付けたとしますと、それは「眠って」いるとき夢の中で「イメージ」として意識されるということになります。


 自律訓練法などのばあいには、【いのち】はこのイメージを自分ですぐ役立てることができます。「人前で赤面する」という問題があれば、「赤面していないイメージ」が強く出てきさえすれば、【いのち】はそれで問題解決をしてしまう。実際に赤面しなくなるのです。


 しかし、問題が【計算】から提出されたばあいは、【イメージ記憶】に現われたイメージはそれだけでは役に立つかどうか分かりません。一度【計算】の評価を受けなくてはなりません。が、さりとて【計算】が目を覚ませばイメージは消えてしまいます。


 ここが難しいところなので、こういうことが実際に起きるのは、先程の私の体験のように、問題意識が非常に高まっていて半覚醒状態にあるときに限るといえるでしょう。つまり、簡単にいうと、「目を開けていて夢を見る」ということができればいいので、坐禅の心境というのは本当はこれではないかと思うのです。



 東方万八千の仏国と右脳


 いままで述べたことを裏付けするような話が『法華経』の序品第一にあります。


 お釈さまが霊鷲山で講義されたときのことです。たくさんの人たちに囲まれて「無量義」と名付ける大乗経を説かれたあと、すぐ(けつ)()()()されて「無量義処三昧」という瞑想に入られて心身ともに微動だにしなくなりましたが、そのとき、天から天華雨と降り、大地は六種に震動しました。人々がこの奇跡に歓喜して一心に仏を見詰めていますと、突然お釈さまの眉間から白光が発射され、東の方、万八千の仏国が照らし出されました。その光は世界中至らぬところはなく、人々はそこで過去から現在に至って起きたことを細大漏らさず見ることができたのです。


(にー)(じー)(せー)(そん) (しー)(しゆう)(いー)(によう) (くー)(よー)(くー)(ぎよー) (そん)(じゆう)(さん)(たん) (いー)(しよー)(ぼー)(さつ) (せつ)(だい)(じよー)(きよう) (みよう)(むー)(りよー)() (きよう)(ぼー)(さつ)(ほう) (ぶつ)(しよー)(ごー)(ねん)

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