『禅と脳 大脳生理学と宇宙物理学から「さとり」を科学する』
[著]中山正和
[発行]PHP研究所
問題解決の方法は、その問題がどんな性質のものであれ、原理的には次のような手順を踏まなくてはなりません。
一、理詰めに考えること。【計算】と【コトバ記憶】優先の思考です。左脳思考といっても結構です。知識がものをいいますが、ただし、その知識は「真実のデータ」であることが条件になります。
二、類比的に考えること。「たとえば~」というふうに過去の経験になぞらえてみること。
【イメージ記憶】のデータを活用することです。右脳思考にあたります。
この二つは、「いまは理詰め、いまは類比」というように意識的に分けられる場合もありますし、両方が混じり合って、つまり、左右の脳が交互にはたらき合うこともあります。
三、この思考法が成功するための前提条件は、一切の固定観念がないことです。これを「自在」といいました。
四、こうしておくと、「あるとき」アイデアがピカリと閃きます。【計算】が直接【イメージ記憶】の中から有効な情報を探し出してくれるのです。これは「向こうからやって来る」ので、意志的のものではありません。
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坐禅することの意味はこの三、四を効果的に行なうことだと思います。ですから、当然それには二段階の訓練手順があるはずなのです。一般に行なわれているいまの禅では、この手順的な区別はしていませんし、また、敢えて区別する必要もありませんが、少なくとも、禅に「理入」しようというのなら、このことは考えておかなくてはならないでしょう。
イメージで感じる努力
『法華経』の序品、冒頭にあるように、お釈さまの最後の講義を聞くための「資格」は、その人がすでに「心得自在」であるということでした。そうでないと、なまじ「方便」を教えられてそれを振り回されたら大怪我をする虞れがあるのです。固定観念があって、その色眼鏡でお釈
さまの説くところを解釈されては困るのです。現に、この講義の途中でも、五〇〇〇人の修行者が座を起って帰ってしまうという事件が起きたということが方便品に書いてあります。この人たちは固定観念が強く、増上慢を生じて未だ得ざるを得たりと思い、未だ証せざるを証せりと思ったので、彼等が起ち上がって帰るのをお釈
さまは黙然として制止されなかったといいます。「五千起去」という有名な件りです。
爾時世尊 告舎利弗 汝已慇懃三 豈得不説 汝今諦聴 善思念之 吾当為汝 分別解説。説此語時 会中有比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷 五千人等 即従座起 礼仏而退。所以者何 此輩罪根深重 及増上慢 未得謂得 未証謂証 有如此失 是以不住。世尊黙然 而不制止。
コトバを操る人間にとって、アタマを「自在」におくということが如何に難しいかということです。長谷川町子さんの『サザエさん』にはよく固定観念がテーマになっていて面白いのですが、ご主人が家に帰ってくると、お隣の奥さんが「サザエさん、さっきお出掛けになりましたよ」という。ご主人は仕方ないから玄関の前の石段に腰掛けて待っています。つぎつぎ帰って来た家族みんな右へ倣えで、石段に腰掛けているところへサザエさんが帰って来て「アラ、鍵かけていかなかったのに!」。
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前に「莫妄想」といいました。自在を得るためには行住座臥、「考えても仕方がないことは考えない」ように務めなくてはならない、これはアタマの無駄使いをしないということでもあるのです。俗ないい方をすれば「クヨクヨしない」ことで、じっとしていると気になることでもカラダを動かしていれば紛れますから、働いたりスポーツをしたりすることも修行の一つになります。禅でも、一作務、二坐禅、三看経というそうで、作務は労働です。が、いくらカラダを動かして気を紛らしても、一番妄想が現われるのはじっとしているときです。じっと坐るとどっと妄想が出て来るのではどうしようもありませんから、やはり坐禅して妄想を切ることを練習するのが大事だということになります。
道元禅師の「只管打坐」、只坐る、というのがこれです。ただ坐っていると雑念が浮いて来ますからその雑念を切る、また浮いて来たらそれも切る、切って切って切りまくるのです。徹底的にそうしているとやがて切るべき雑念も種切れになる。そのときに自分の「いのち」が見えるようになります。「もう一人の我」に気付く、「我が本来の性が見える」ので、このことを「見性」といいます。「いのち」は無意識ですから、これは意識して見るのではありません。【いのち】→【イメージ記憶】ですからイメージとして意識されるより他仕方ないのです。ただ黙って坐っていればやがて無明が明るく照らされるというので、こういう坐禅を「黙照禅」といいます。道元禅師が始めた「曹洞禅」がそれです。
ところが、そうはいうものの、雑念を切るのはそう簡単にはいきません。そのうちに「ただボサッと坐っているだけで悟りが開けるか」という反対意見も出てきます。そこで、ひとつ問題意識をもって坐るということがいい出されました。ボサッと坐っているから雑念がつぎつぎ出て来るので、適当な問題を与えておいて、それに集中させるのです。「適当な」というのは、具体的な問題(知識によって解けるような問題)ではすぐ解が出てしまいますから、「いのち」の方から見なくては解けないような問題を与えます。これを「公案」といいます。たとえば、「無を見て来い」というようなものです。
坐っていて雑念が起きて来たら「これが無ではないか?」というふうに何事も「無」「無」と結び付けていけば、結局雑念はどこかにいってしまうはず、つまり、莫妄想の目的を達するにはこの方が早いというわけです。これを「看話禅」といい、話は「聞く」ものですが、それを「看る」のです。コトバで理解するのでなくイメージで感じて来いということでしょう。「臨済禅」というのがこの代表です。
曹洞禅と臨済禅
達磨大師の遺志を継ぐならば、禅の方法はただ一つであるべきです。しかし、後世の人がこれに改良を加えることは当然あっていいことです。改良案を出した人は「この方がやりやすい」と考えたに違いありませんが、そのときにその人の「好み」というものが入って来るのは仕方ないでしょう。ですから、われわれは黙照でも看話でもかまわないが、要するに禅の本義を知って、その上で自分の好きな方を選べばいいのです。好きな方法がないときには自分の方法を作ればいいことになります。
日本の「禅宗」は大きく曹洞禅と臨済禅に分かれていますが、この両派の「禅風」(考え方の特徴)を、高橋浩さんはこんなふうに比較されています(高橋浩『禅の知恵ものしり辞典』大和出版)。
曹洞禅 臨済禅
あだ名は「百姓」 あだ名は「将軍」
作物を育てる風 馬上から指揮の風
黙照禅 看話禅
公案不使用(只管打坐) 公案使用
見性は論じない 見性を重視する
経行は、一呼吸に半歩の遅さで歩く 競歩程度の速さ(肩で風を切って歩く)
坐蒲の形は円 坐蒲の形は四角
祖師は道元 中興の祖は白隠
臨済禅は元気がいいのです。なお、経行というのは坐禅の途中で堂の中を歩くことをいいます。
そこで、曹洞禅では公案は使わないといいますが、これは坐禅中に公案を考えさせることはしないという意味であって、学問として公案研究をすることは盛んに行なわれているようです。道元の『正法眼蔵』にも公案はいくつも出てきます。ですから、この公案の使われ方の違いを見ますと両派の好みがよく分かるだろうと思います。ただ、私はいずれの派にも入門したことがないのですから、以下に述べることはあくまでも想像にすぎません。