読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/9/29 UP)

犬耳書店は、姉妹店のRenta!(レンタ)へ統合いたします。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-2
kiji
0
0
1263665
0
流行の言説・不易の思想 ベストセラー書評社会学
2
0
0
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第一部 経済大国・日本をめぐる喧喧囂囂

『流行の言説・不易の思想 ベストセラー書評社会学』
[著]井尻千男 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間12分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


・第一章・
日本の攻勢に動揺した世界



素直に喜べぬ「日本特集号」の複雑さ

模索する大国 日本』

(タイムライフブックス編集部訳、タイムライフブックス)


複雑な喜び

称讃はされながら愛されず。技術を芸術に、商業を宗教に変えてしまったこの国民は、どんな人たちなのだろうか」──『模索する大国 日本』のリード(前文)の一節である。十分に真実であるかどうかは疑問だが、レトリック(修辞)としては秀逸である。


 この本は、タイム誌の「日本特集号」(一九八三年八月一日号)の全訳であり、練達の記者たちが、この「称讃はされながら愛されない」国を総合的に丸ごととらえようと政治、経済、ビジネス、芸術、生活文化等々の今日只今の状況をレポートしながら、「日本とは、日本人とは何か」という、おそらく世界中の人々が多かれ少なかれ抱いている疑問に答えようと健筆を振るっている。一九一カ国で三〇〇〇万人に読まれたという。そして、その翻訳本はわが国でも広く読まれ、八重洲ブックセンターのベストセラーのトップになった。


 ちなみにいうと、タイム誌が全号あげて一つのテーマを大特集したことは過去六回しかなく、一九七〇年の「アメリカの黒人」、七二年の「アメリカの女性」、七四年の「ニクソン大統領辞任」、七六年の「アメリカ南部」、八〇年の「ソ連」、そして八三年の「日本」なのである。ここでちょっと注意を喚起しておきたいことは、「ソ連」と「日本」以外はすべてアメリカの国内問題だった、ということである。


 何事につけ楽観的、楽天的にものごとを見がちな日本人の多くは、ことによると今度の場合も、「いやあ、日本もすごい国になったものだ。なにしろ世界一といわれるタイム誌に大特集を組ませたのだから。あらためて日本的力強さを再認識させられるね。乾杯といこうか」という気分になったかもしれない。しかし、本当にそう解釈してもいいものかどうか。


 私は自分も含めて、今日の日本人は、ことによると、地球上の主要な民族のなかで、最も楽天的にものごとを考えている民族ではないかと思っている。たまさか訪れた幸福の時間を精いっぱい楽しんでいる光景は、決して悪いものではない。しかし、喜びようにも、はしゃぎようにも、他人さまの視線というものがある限り、多少はそれを配慮したマナーがあってしかるべきだとは思っている。こういう国の知識人の振舞い方は本当に難しいのである。


 タイム誌の大特集が、アメリカの国内問題を別にすると、「ソ連」と「日本」になったことは、たんなる偶然なのだろうか。隠された意味があるのかないのか。少なくとも、この本にそのことは一行たりとも書かれてはいない。


例外者の罪


 いま私とあなたがともに、タイムの編集者になったと仮定しよう。そうすると、何故に日本特集を組むかについて、徹底的に議論せねばならない。不思議なことは解かねばならない。これがジャーナリズムの大原則だとすれば、近々二十年ぐらいの日本は、十分にその資格をもっている。「ゴー(進め)!」である。


 そして特集を完成させたお祝いに、あなたと私は、同僚たちと一杯やりに行く。そこで私たちは書き残したことについて、取材の途中で出会った面白い日本人の思い出などをひとくさり語り合う。「しかし、それにしても、われわれの特集が、たまさか“ソ連”と“日本”になったことを、どう解釈したらいいのだろうか」と、若い記者がいった。


 あなただったら、どう答えるか。私だったら、こんなふうな会話を想像せずにはいられないのである。

世界中の知識人やジャーナリズムが、“アメリカの世紀”は(しゆう)(えん)したという。そうかもしれない。その第一の原因が、アメリカ自体のなかにあることは認めなければならないが、もし、その遠因を世界のなかに求めるとするならば、ソ連と日本を挙げなければならないだろう。つまり、パックス・アメリカーナはこの二つの国によって突き崩されつつある。ソ連はその軍事的脅威によって、日本はその経済的脅威によって」

そういえば、ソ連は鉄のカーテンでとざされ、日本は竹のカーテン、いや、あれはスダレないしはミスというのですが、それによってとざされている。ともに未知な、得体の知れないところが似ているね」

日本の勤勉な労働者たちには、ちょっと気の毒な言い方になるかもしれないが、日本経済が例外的に強いということが問題なのだ。そして、その強さを発揮できる土俵をつくったのは誰で、それを保守維持しているのが誰かということを、はっきり認識していない。自由貿易体制という秩序の側に立っていえば、日本とソ連はまったく意図は違うが、秩序攪乱者という意味では似てしまう。ヨーロッパ諸国から見てもそうだろう。ライフ・スタイルの変更に用心深い彼らは、いろいろの意味で日本製品の進出に警戒的になっている。グローバルな秩序と生き方の秩序感覚の双方から、日本は“攪乱者”呼ばわりされることになってしまった」


 この種の議論はまだまだ可能だ。しかしこの議論は「競争原理」を前提にしている秩序であってみれば、建前上、表立っていい募るわけにはいかない微妙な心理劇を含むのである。だからこそ記者諸君も酒席をよいことにやっと本音をはく。

建前と本音は、日本の専売のように見られがちだが、この構造は万国共通です。嫉妬と羨望の罪は、最も犯しやすい罪ですからね」

それはそうだが、振り返ってみて、われわれの日本特集は、かろうじてその罪を犯さずにすんだと思うが、どうだろうか。ただし、読者がその罪を犯さずにすむかどうかは、まったく保証できない」


 私は、そうした架空の会話を楽しみながら、この本を読んだ。そして、タイムの記者諸君の能力に感心した。分析能力は、日本の記者諸君よりも深く、個性的である。日本の記者は、データはたくさん集めるが、その解読分析において勇気に欠ける。類型のなかに隠れてしまうか、「事実の時代」というイデオロギーに遁走する。


 もちろん、この特集にも()(きん)はある。しかし、異文化間の交流において瑕瑾を否定することは、恋愛において幻想を否定するのに似てばかげたことである。たとえば、「読書」の章で、「太宰治は日本のアルベール・カミュであった」という文章に出合ったとき、こういう読み筋があったのかと、二人の作家を思い出しながら半日以上楽しんだ。

言葉」の章では、「日本語はあいまいだ」と信じられがちだが、「自分がどんな立場にいるかを表現するには、並はずれて正確な言語だ」という説(コロンビア大学のポール・アンダラー氏)を紹介している。「日本語あいまい説」から一歩出たところが面白い。私などは、ついでに「日本語非論理説」にまで歩を進めてほしかった、と思ったが、そこまで外人記者に求めてはいけないと反省した。ここでもまた半日は楽しめる。

経済とビジネス」の章からも一、二拾ってみよう。「産業政策が日本経済を支える原動力」という、欧米に流布された誤解については、「いまをときめく日本の二大産業、自動車とエレクトロニクス産業は、政府から、なんら特別の恩恵を受けなかった」(エール大学のヒュー・パトリック氏)こと、「日本経済は輸出依存度が高い」という誤解については、英二〇・五%、西独二六・七%などに比べて、日本は一三%と決して高くないこと等々、誤った通念を正している。


 こうしたタイム記者たちのフェアプレーの精神には、心から敬意を表したいと思う。そして日本の読者には、ゆめゆめ夜郎自大に陥らないことを願っておきたい。

(一九八四・二)


日米関係の心理劇を読む

ジャパニーズ・マインド』

(ロバート・C・クリストファー著、講談社)


三幕目にさしかかった日米関係


 クリストファー中尉は、一九四五年九月、連合国軍の兵士として東京に進駐したそのときの東京は、「一面の焼け野原で、瓦礫の山以外には何一つ残っていなかった。車でいくら走っても、目に入るものは瓦礫ばかりだった」。二十一歳の中尉が見た日本は、東京といわず全国いたるところ瓦礫の山だったはずである。エドウィン・O・ライシャワー氏に日本語を学んだ中尉は、進駐軍兵士のなかでも数少ない日本語の使い手だった。


 南太平洋のジャングルで二、三年にわたる激戦をくぐり抜けてきたある少将は、この若い中尉に言う。「おれには日本人のやつらに同情する理由など何一つないはずだが、こうして戦勝国の一員となってやって来て、この荒れはてた街を走っていると、どうしようもなく日本人たちが哀れになってくるときがある」と。


 中尉は除隊後エール大学に戻り、召集前に専攻していた英文学をすてて東洋学を修めることにした。そして、やがて彼は練達のジャーナリストとなって、日本をふたたび訪れるようになった。こうして三十八年間にわたって日本を観察し研究してきたロバート・C・クリストファー氏が、半生の知見を投入して書き上げたのが『ジャパニーズ・マインド すれちがう善意、すれちがう敵意』(徳山二郎訳)である。


 私は少々エモーショナル(情緒的)な書き出しをしたことになるかもしれない。しかし、思うに、戦争にせよ、経済戦争にせよ、勝者と敗者が歴然としたときから、複雑微妙な心理戦争が新たに開始されるものである。今日の日米関係がちょうど、そういう微妙な心理劇の四幕ものの三幕目ぐらいにさしかかっていると私は見ている。アメリカ経済がくしゃみをすると日本経済がかぜをひいた時期を第一幕とするなら、イコールパートナーシップを確認した七〇年代後半から第二幕が始まっていたといえるだろう。


 しかし、第三幕目は、起承転結でいえば「転」にあたり、最も激しい転調の幕である。その転調を一言でいうならば、「経済」という限定された土俵の上で演じられていた劇に、「防衛」という異質な問題が重ね合わされるようになったことである。この三幕目に入った日本人は、経済についての過度な自信と自惚れをもちながら、安全保障については奇妙な楽観主義とほとんど諦観に近い無力感をいだいている。


 著者クリストファー氏は、「日本人の七不思議」の一つとして、「日本人の脆弱性コンプレックス」を指摘している。その心理は地理的条件、地政学的与件、無資源国(マンパワーは別)等々の環境に起因しているだろうが、戦後的平和主義の下で経済が大きくなればなるほど「脆弱性コンプレックス」は強くなる、という構造になっているはずである。著者は、鋭い直観的洞察力で日本人の本質的なコンプレックスの所在を指摘したが、親日家という自覚の故か、深追いを避けている。そこがちょっとものたりない。


 もう一つ、中尉や少将の情緒的な言辞を最初に紹介した理由がある。焦土のただ中に勝者として乗り込んできた将官の「どうしようもなく日本人たちが哀れになってくる」と語る光景が、われわれに様々なことを想起させるからである。征服者の(おご)りなのか、死力を尽した敵に対する屈折した戦友意識なのか、それとも武士の情けなのか。いずれにしても、あの日々の光景は、連合軍の将兵にとっても、今日のわれわれにとっても、もはや(しん)()(ろう)のようなものである。しかし一方、日米経済戦争で勝った日本の自動車会社の将官たちは、デトロイトの街頭に立って、いったい何を感じただろうか。自動車王国の崩壊と失業者の群れに、どうしようもない哀れを感じたであろうか。


 同じ戦争ということばを使いながら、本当の戦争と経済戦争はどう違うのか。武士の情けの発露は、どういう表現の差異を見せるのか。そういう極めて人間的な側面を想像しながら、私は『ジャパニーズ・マインド』を読み進むことになった。


日本人の自閉症症候群


 この本の背景には、つねに日米関係があり、しかもそれは「善意」と「敵意」という副題が示唆しているように、心理劇のレベルでとらえられている。


 第一部「謎めく日本民族」では、たとえば「日本がアメリカを見かぎる!?」という小さな章が挿入されている。こういう想像上の心理劇をいつも意識しているところに、著者クリストファー氏の才能と人間的奥行きを、私は感ずるのである。「言うまでもなく、私が描いてみせたのは最悪のシナリオである。日本人は対米関係においてまだ爆発するような状態にはない」といい添えて、著者はこの架空の物語を締めくくっている。


 第三部「日本人の社会行動原理」の「対外イメージに悩む日本」の章では、日本人がいつまでたっても「先進国の中で心理的な異邦人にとどまっている」ことを指摘する。なるほどそうかもしれない。「ガイジン」という日本語が「外側の人間」を意味しているかぎり、彼我の距離はなかなか縮まらないだろう。国際化の時代といわれ、たしかにフィジカルな国際化は拡大の一途をたどってきたが、精神的にはかえって「心を閉ざす日本社会」になりつつある。そういうことに著者は鋭敏に反応している。アメリカの将兵たちは、勝ったときから心を開いたように思えるのだが、日本人は経済戦争に勝ったと思った瞬間から心を閉ざしだしたのかもしれない。


 この近年の日本人の退嬰的心理は、いったい何に起因するのか。その深い理由を著者に問いたいところだが、思えばそういう根本的な問題の解答を諸外国の知識人に期待するなどという風潮自体がおかしいのである。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:30481文字/本文:35910文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次