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講談・英語の歴史
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第二章 中英語の時代

『講談・英語の歴史』
[著]渡部昇一 [発行]PHP研究所


読了目安時間:57分
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1 基本英国史


ノーマン・コンクエスト


 イギリスの歴史で最大の事件といわれるのが一〇六六年のノーマン・コンクエストである。ノーマン・コンクエストとは何であったかというと、ゲルマン民族の大移動の最後の移動だった。

 四世紀後半から北ヨーロッパにいたゲルマン民族が移動を始め、その後、至るところに広がっていった。バルト海周辺にいたヴァンダル人はスペインに行き(スペイン南部の地方名であるアンダルシアはヴァンダルから来ている)、さらにアフリカまで行ったし、アルプスを越えたロンゴバルド人は北イタリアまで行った(イタリア北部の地方名であるロンバルディーはロンゴバルドから来ている)。ブリテン島にヴァイキングが襲来したことは前章で記したが、九世紀頃からヴァイキングが船で各地を動き回ったのはゲルマン民族の大移動の末期と見ていい。その最後に位置づけられるのがノーマン・コンクエストである。

 九世紀から十世紀にかけてヴァイキングがブリテン島を荒らし回っていた頃、フランスでも同様の事態が起こっていた。彼らはセーヌ川をってフランス王などを苦しめたが、これもイギリスと同じく、フランス(ローマ人がガリアといっていた地域)に住みついていたゲルマン人の一派であるフランク人と平和的共存をするようになる。そして、ヴァイキングの首領は公爵に叙せられ、セーヌ川下流の南岸の土地を与えられた。これがノルマンディー公国である。

 ノルマンディーという地名はノースメン、つまり「北の人」の領土という意味である。ヴァイキングが住み着いたノルマンディー地方は、この後、フランスのなかでももっともローマ的な文化が発達して、フランス的な地域になっていく。

 一〇三五年、ノルマンディー公爵のロベルトが正嫡をもうけないで亡くなった。ロベルトにはウィリアムという妾腹の子があった。まだ六歳の少年だったウィリアムは忠義の家来のおかげで何度も危険を切り抜け、二十歳の時にフランス王の力を借りて反抗する部下の貴族たちを制圧、自らの実力でノルマンディー公爵の座を確保した。

ノルマンディー公ウィリアム


 一方、当時のイギリスにはアルフレッド大王の子孫にあたるエドワード王がいた。敬虔(けいけん)であったことから「ザ・コンフェッサー」(証聖王)と称されるが、ウエストミンスター寺院を建てた以外は大した功績のない政治的には凡庸な王だった。そのエドワード王が子供を残さずに亡くなると、王の遺言によるとして、エドワード王の下で総理大臣のような役を務めていたゴドウィンの子供ハロルドが貴族たちによって王に選ばれた。これに対して、ノルマンディー公ウィリアムは異議を唱え、自分に継承権があると主張した。その理由は大きく三つある。

 第一に、ハロルドやゴドウィンが国外追放されていた時期、イギリスを訪ねたウィリアムに、子供のいないエドワードが王位を譲ると約束したというのである。ちなみに、ウィリアムはエドワードのいとこの息子にあたる。

 第二に、アルフレッド大王とのつながりがあるという点である。ウィリアムはフランダース伯のボールドウィン五世の娘マティルダと結婚したが、彼女の母親の系統はアルフレッド大王に連なっている。全然関係のないハロルドよりは血のつながりが少しはあるというわけだ。

 第三に、ハロルドがドーヴァー海峡で難破した時、地元の貴族につかまってウィリアムに引き渡されたことがあり、その時にハロルドはウィリアムの家来になることを誓ったということである。これが一番決定的な理由らしいが、いずれにしても、これらの理由を挙げてノルマンディー公ウィリアムはイギリス王の継承権があることを主張したのである。

 ウィリアムは実力ではい上がった人だけに、おそらく根回しをしたのだろう。神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ四世は好意的中立の立場に立ち、ローマ教皇アレキサンドル二世にいたっては認可を与えた。後顧(こうこ)の憂いなくウィリアムはイギリス征服に乗り出す。

 一〇六六年の秋、ウィリアムの軍はブリテン島南部のドーヴァー海峡に面したサセックス東部に上陸した。この時、ハロルドはノルウェー王が加担して起こった北方の反乱を制圧したばかりのところだった。ウィリアムの軍を迎え撃つために南下したハロルドとウィリアムの決戦はヘイスティングスという港の近くで行なわれた。ハロルドはよく戦ったけれども、矢にあたって戦死、ウィリアムの勝利に終わる。

 しかし、ハロルドの戦死後もイギリス土着の貴族たちはウィリアムと戦い続けた。ウィリアムがロンドンを陥落させてウエストミンスター寺院で戴冠式をあげたのはこの年のクリスマスだった。そして、イングランドを完全に平定したのはヘイスティングスの戦いから五年経った一〇七一年のことだ。五年間も討伐戦が続いたのである。

社会的二重言語の国


 ここで重要なことは武力征服という形で新しい王朝が誕生したことである。中世の国家は現在のような国民国家(ネーション・ステイト)ではなく、王位を他国の親類に譲る事例はしばしば見られる。もし、ウィリアムへのイギリス王位継承が相続という形でスムースに行なわれたならば、王様だけがフランス人に代わっただけで、それまでいたイギリスの貴族はそのまま続いたはずである。

 ところが、王位をめぐって戦争になり、しかも貴族があくまでも反抗し続けたので、反乱の掃討(そうとう)が五年も続いた。この結果、アルフレッド大王以来のアングロ・サクソン系貴族、クヌート大王以来のヴァイキング系貴族など、土着の貴族はほとんどいなくなってしまった。

 代わりにイギリスの貴族になったのはノルマン人、すなわちフランス語を話す人間だった。今でもイギリスでもっとも格の高い貴族はノルマン貴族である。

 貴族が入れ代わると、貴族についてくる騎士も代わるし、商人も代わる。それから、教会関係では田舎の小さい修道院は元のままだったけれども、大修道院はウィリアムがフランスから連れてきた修道院長を置くようになる。こうして、上層階級はフランス語を話す人たちになった。これが一〇六六年のノーマン・コンクエストが大事件であることの最大の意味である。

 上層階級が入れ代わっても、小地主や農民、農奴といった下層階級は従来のままである。つまり、英語を話す人間たちだ。そのため、イギリスは社会的二重言語(SocialBilingualism(ソーシャル・バイリングアリズム))の国になったといわれる。

 この結果、言葉の面で非常におもしろい影響が生じた。わかりやすい例は食肉に関する言葉だろう。

 鹿などの野生動物の肉はvenison(ヴェンサン)といい、野生動物の鹿についてはdeer(デア)という。また、牛肉はbeef(ビーフ)で、生きている牛はox(オックス)、羊肉はmutton(マトン)で、飼っている羊はsheep(シープ)、豚肉はpork(ポーク)で、飼っている豚はswine(スワイン)あるいはpig(ピッグ)というように、同じ動物でも食卓にのった場合と生きている場合で単語が違っている。食卓に関する言葉は上層階級の使うフランス語が残り、農民が使う英語は生きている動物の名前に残ったのである。

 今でもそうだが、イギリスでは「swine(スワイン)あるいはpig(ピッグ)を食べる」とはいわない。「pork(ポーク)を食べる」という。こういう状況は他にはほとんど見られない。同じゲルマン語から出ているドイツ語にも英語のような違いがなく、肉という言葉の前に動物の名前を置く。牛はOchs(オックス)、牛肉はOchsenfleisch(オクセンフライシュ)である。英語に直訳すればoxen-flesh(オクセン・フレッシュ)になるが、なまなましい感じがして、イギリス人は使わない。フランス語も分かれていない。分かれないのが普通で、社会的二重言語を経験した英語が特殊なのである。

 しいて似た例をあげれば日本語である。明治まで食物禁忌(きんき)があって、牛や豚を食卓にのせることはなかった。それで牛肉や豚肉を食べるようになった時、「ウシ(なべ)」といわず「ギュー鍋」、「ブタ・カツ」といわず「トン・カツ」として、なまなましい感じを避けたのである。

ジョン欠地王と一二〇四年の事件


 社会的二重言語の状況が続いていたら、今日のイギリスはベルギーのように一つの国で二つの言語が使われる状況になっただろう。その可能性は十分にあった。征服王と呼ばれるウィリアム一世の後、その子孫が隆盛の道をたどったからだ。

 ウィリアム一世はイギリスを次男のウィリアム二世に譲り、ウィリアム二世のあとは征服王の三男ヘンリー一世がイギリス王とノルマンディー公を兼ねた。そして、その娘がフランスのアンジューの伯爵と結婚して産んだ子供ヘンリー二世がイギリス王を継ぐ。そのヘンリー二世はフランス王妃のアリェノールに見初められ、フランス王ルイ七世と離婚したアリェノールは八歳年下の彼と再婚した。この女性が英語でEleanorofAquitaine(エレオノール・オブ・アキテーヌ)と呼ばれる人である。その時の持参金ならぬ持参領は、リムザーン、ガスコーニュ、ペリゴールを含む広大なるアキテーヌ公爵領に、オーベルニュとトゥールーズ伯爵領に対する宗主権がついていた。

 ヘンリー二世は母からノルマンディーを、父からアンジューとメーヌを得ていたから、妻の領地を合わせるとフランス全土の三分の二を支配することになった。フランス王よりもフランスにおいて強大なイギリス王だったわけである。ただし、在位三十五年のうちでイギリスにいたのは十五年、言葉も趣味もフランスの人だった。

 ヘンリー二世の長男がリチャード一世で、別名をリチャード獅子心王と呼ばれる人物である。第三回十字軍では武勇を輝かせ、彼以来、(たて)に赤い十の字のイギリスの紋章が始まった。このリチャード一世もフランス語しか話さず、イギリスには数カ月しかいたことがないというイギリス王だったが、それでもイギリス人はこの十字軍の英雄を尊敬していた。

 ここまでは問題なくフランス人の王がイギリスを支配してきた。しかし、リチャード一世がフランスで戦死した後、「一二〇四年の事件」と呼ばれる事件が起こった。これが二重言語状況を崩すことになる。事件の主役はリチャード一世の跡を継いでイギリス王に即位した弟のジョンである。
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