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「弱者」とはだれか
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政治・社会
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第2章 「弱者」聖化のからくり

『「弱者」とはだれか』
[著]小浜逸郎 [発行]PHP研究所


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1 建て前平等主義

子どもは競争していない


 前章で取り上げた『五体不満足』と、その受け止め方にあらわれたある種のうさん臭さは、「平等」や「個性」を金科玉条とする戦後社会のイデオロギーに通じている。この章では、まずこの二つの概念の絡み具合を検討するところから入ってみたい。
「平等」と「個性」とは、詳しく解説するまでもなく、本来矛盾する概念である。だがどうして、戦後の人権民主主義的なイデオロギーは、この二つを自分の武器とすることができたのか。その手品のからくりはどうなっているのか。

 戦後教育の世界では、子どもを過酷な競争に巻き込むことはかわいそうだからという大人の独り善がりな心情を満足させるために、長い間、競争否定の平等主義の考え方が、表面上まかり通ってきた。この建て前を実際に通そうとすると、しばしば病理の域に達する。

 たとえば、よく指摘されるが、徒競走に順位をつけてはならないとか、学級委員や学芸会の出演者に特定の人間を選抜してはならないとか、入試制度を廃止しろとかの声がそれである。成績の格差を明瞭化する塾教育や偏差値を一方的に敵視するなどもそのたぐいだ。

 ちなみに現在の平均的な教育市場には過熱した受験競争などは存在していない。子どもの数も減り、推薦入学の割合も増加し、みんなが適当にどこかの高校や大学・短大・専門学校などに入ることができる。しかもまた子どもたち自身が、それらの進路にかつてほどの格別の執着や夢を抱いてはいないからだ。

 都立高校などでは、単位制高校を創設して私立高校に対する失地回復を図り、競争原理を新たに導入しようとしているほどだ。しかし、過熱した受験競争で子どもが苦しんでいるのが子どもをめぐる諸悪の根源だからそれを何とかしろという、時代遅れの認識は現在も衰えることなく続いている。

「平等も個性も」の虫のよさ


 一方で人権民主主義者たちは、教育の「画一主義」を批判し、「子どもの自由」を尊重して「個性」を育てろと声高に主張してきた。その内実たるや、何も教師が介入せずに、子どものやりたい放題にさせるのがいいことだといったものだ。最近では、保育園や幼稚園の段階から、一斉にお絵描きや散歩をさせることさえ忌避して、それぞれの子どもに勝手なことをさせているところが多いらしい。これでは、学校に入った子どもが、先生の言うことにどうして従わなくてはならないのかと感じて、授業など聞かなくなる習慣を身につけてしまうのは当然である。

 未発達な段階にある早期の子どもに、一人前の「個性」の存在を前提すること自体がおかしい。「個性」などというものは、もともと、社会の壁に突き当たる過程をくぐり抜けることを通して、そこから次第に頭角をあらわす形でしか実現していかないものである。そして、壁である社会は、一定程度画一的であることを免れない。欲望と規範とのせめぎ合い、個人と共同性との相克、個人どうしの切磋琢磨、伝統の吸収と消化とその組直しといった厳しく長い闘いのプロセスのなかから初めて開花してくるのが「個性」である。

 人権民主主義者たちは、「平等」も「個性」も手放したくない。その響きの口当たりのいい部分だけをもらって、自分たちの得手勝手な心情を満足させようとしているだけだから、両者を突き詰めたら矛盾するという当然の事実に気づかない自己分裂に陥っている。

 競争を否定した「平等」を要求し、同時に「個性」を求めるという虫のよさは、現実逃避の一つの典型である。人間の生得的な優劣の差異や、環境的諸条件の格差は、どんな社会にも厳然とあるという現実をまずいさぎよく認めずに、その事実から目を背けようとする。それによって、理念や建て前の上だけでタテの差異を否定できた気になり、差異はすべてヨコ並びの「個性」の差であると自他を言いくるめてごまかすのだ。

 不美人やハゲを「個性的な容貌をしている」と表現すれば、せいぜい冗談になるだけだが、教育の世界では、「能力の差などはなく、個性の差があるだけだ」などという言い分が大まじめで通るのだから、始末に悪い。

 つまり、「平等」と「個性」を二つながら理念に掲げることは、外から見れば明らかに自己分裂しているのに、その主観的・心情的な意図においてはうまく重なるのである。かくして人権民主主義的「手品」は行われる。

「子どもの人権」論者の錯誤


 つまらぬ例だが、数年前ある県下の進学校(高校)で、一斉模擬テストの成績上位者五〇名(一学年生徒数二百数十名だったと記憶する)の名前を校内に貼り出した。以前からやっていたことである。するとその地域のある大学教授が音頭をとっている人権グループが、これは生徒に対するプライバシー侵害であり、成績で人を序列化することは許せないと教育委員会に申し立てた。その論理の一つが振るっていて、名前を出されなかった生徒の人権はどうなるのだというのである。幸い教育委員会は申し立てを却下したそうだが、私はこの話を聞いて、この大学教授らの狭苦しい小児病的な神経過敏にあきれ返った。

 新聞や週刊誌に三流大学合格として氏名を勝手に発表されるのとはわけが違う。校内で成績優秀者を発表することは、当人たちにとって名誉なことだし、選に漏れた生徒にとっても、次に向かっての発奮材料になる。若い頃の小さな刺激、小さな挫折は、人生にプラスの効果をもたらす可能性が大きい。もちろん永久にノミネートされる可能性のない生徒もたくさんいるわけだが、それはそれで断念の必要という大切な修業的意味合いがある。

 生徒たち自身が訴えたのでもないのに、こんな程度のことをおせっかいに人権侵害として騒ぎ立てるのは、それこそ「子どもの人権」を認めていない証拠である。何よりも、この種の連中は、「学力成績だけが人生ではない」などとふだん口では吹聴していながら、学力成績に悲しいまでにこだわっていることを自己暴露している。

 彼らの幼稚な観念の中では、人間どうしの間に何らかの序列や格差や競争が存在すること自体が「許せない」ことなのであって、学力や能力という尺度で人を選別することそのものが「あってはならない差別」なのである。彼らは近代社会の正しい意味での平等原理や「差別」の概念を誤解しているだけではない。自分が生活や表現活動の足場にしている「大学教授」のような社会的地位が、知的格差と競争を前提としてしか獲得できないものであることすら忘れているのだ。

過剰配慮社会


 現代の「弱者」は、社会的に認知されるや否や、現代社会特有の「聖化」の刻印を帯びる。老人、子ども、障害者、被差別部落出身者、在日外国人、女性、まるで、そういう一般化されたカテゴリーに分類するだけで「弱者」問題のすべてが浮き彫りになり、そうした社会的、政治的な言語の枠組みに引っかからない個別の生が抱えた困難な課題は存在しないかのような錯覚に支配される。

 政治は、右から左まで、こうしたカテゴライズされた対象を「福祉」や「社会参加」の課題として吸い上げれば、他には何も問題としなくていいようなほら吹き顔をしている。それはそれで政治の限界とも言えるが、そういう文脈で何でもやり過ごせばよいというものではない。

 現代社会は、一種の「過剰配慮社会」である。それは、日常生活での「無関心の支配」と裏腹の関係にある。一人一人は、互いに無関心な個人、あるいは小さなグループに多様な形でかかわる個人として生活しながら、かえってそのために利害関係の網の目が複雑に絡まり合う結果となる。

 そこで、互いが接触・摩擦を引き起こしたときには、それぞれの立場をかたくなに主張して譲らず、上位から一刀両断で裁断できるような単純な問題解決の原理が成り立ちにくい。ある主張を通そうとすると、必ず、それとは抵触するいくつもの立場の声が反対側から立ち上がる。それならこういう場合はどうするのだ、こういう立場も考えなきゃ駄目じゃないか、といった形で、隘路(あいろ)に入った議論が錯綜し、解決が無限に引き延ばされる。

 また、個別問題に対するマスコミの誇大な取り上げ方が、直接の利害当事者ではないものへの「おびやかし」の不安や、それについて配慮しなくてはならない強迫観念や、無責任な世論などを助長し、問題を一層ややこしくする。訴訟の多発と長引き、中央政治の方針や公共事業や大きな民間事業と住民の利害との対立、医療や教育現場でのトラブル、企業内外や家族内部のいざこざ、世代間のコミュニケーションギャップなど、いたるところにそうした現象が見られる。

「弱者」は作られる


 一言で言うなら、これは、「個の尊重」(「個性の尊重」ではなく)という原理を建て前とする近代の平準化社会が宿命的に支払わなくてはならない大きなコストなのだ。この特色は、おそらく日本に限ったことではなく、どの先進国にも共通していると思われる。アメリカは、個の人権を錦の御旗として強く押し立て、日本は、それに見習いつつ独特の温情主義で甘く味付けするといった、それぞれの民族的な色合いがそこに付着してはいる。しかしいずれにせよ、この問題は、その社会基盤としての必然に根差した普遍性を持つのである。

 近代社会は、身分制度を否定するという建て前のもとに成立した。しかしこれは、その初期においては、あくまで原理上、建て前上であって、たとえば明治から戦後の一時期に至るまでの日本社会では、「万世一系の天皇家」という特別の身分や、「部落」のような被差別的身分が強固に存在し機能してきた。それは原理や建て前と実態との矛盾(タイムラグ)の問題であり、部落解放運動などは、この矛盾(タイムラグ)を乗り越えることそのものに、運動の根拠をおいてきた。

 だが時代は少しずつ進み、現在では、身分や血統に個人のアイデンティティを求める考え方や意識は明らかに衰弱しつつある。近代の原理や建て前は、行きつ戻りつしながらも、市民社会、都市社会の成熟に伴って現実の社会意識のなかにも相当程度浸透したのである。

 それ自体は必然的な流れであり、一定の前進だったと言うしかない。しかしその結果、一方で私たちは、現代人特有の「不安」を共有することになった。
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