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(2021/11/26 追記)

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生き方・教養
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はじめに

『不幸論』
[著]中島義道 [発行]PHP研究所


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― どんな人生も不幸である ―

幸福に対する反感


 これまで三度ほど「幸福の樹」を買ったが、なぜかみんな枯れてしまった。ウィーンで買った「幸福の樹(der Baum des Glcks)」もたちまち枯れはてた。なぜか「幸福」は私に似合わないようだ。そして、それでいいと思っている。

 いや、「それでいい」という簡単な言葉で片づけてはならない。私のうちには(奥深くには)いっさいの世で言うところの幸福に対するいらだちが、反感が不発弾のようなかたちで潜んでいる。自分は幸福になってはいけないという気持ちがどこかにあり、自分があるときふと幸福を感ずるとたちまち罪悪感を覚える。

 これは何なのだろうか。ずっと考えつづけてきた。

 幸福な者への(ひが)みか。そういう側面もあるだろう。自分がずっと不幸であった(と自覚してきた)ことからくる居直りか。そういう側面もあろう。自分でもよくわからないのだ。

 ただ、私は「幸福になってね」とか「幸せになろうね」とか「私はほんとうに幸せ者です」というような世の中を飛びかう幸福語を聞いたとたんに寒けがするのだ。鳥肌が立つのである。

 私にとって――小学生のころから――大人たちも仲間たちも、みんな幸福であるふりを必死に演じて飽きることがない者ばかりだった。幸福になることが至上命令であって、みんな全身全霊でこの課題に取り組んでいる。

 少しでもこうした演技に水を差すような事態が生ずると、例えば失恋したり、受験に失敗したり、出世競争に負けたりすると、当事者に向かって、こうした失敗もやはりよかったんだ、こういう災いに遇ったあなたもほんとうは幸福なんだ、と思い込ませようとする。本人も必死に思い込もうとする。

 私はこういう人々を「幸福でありたい症候群」と名づけることにする。

 だが、私は世に言う幸福のほとんどが相対的なもの、人間関係という網の目の中ではじめて生ずるもの、それがなくてもじつはほとんど困らないものだと思っている。いや、それはかなりの害を及ぼすものであるとすら思っている。

 ジョン・スチュアート・ミルの次の言葉は、若いころの私のこころに染み入った。


 自分自身の幸福ではない何かほかの目的に精神を集中させる者のみが幸福なのだ、と私は考えた。例えば、他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、それを手段としてではなくそれ自体を理想の目的として取りあげるのだ。このように何かほかのものを目標としているうちに、副産物的に幸福が得られるのだ。
(『ミル自伝』朱牟田夏雄訳。以下、本書中の引用文は、翻訳文にかぎり多少表記や表現を変えたところもある)


 ミルは青年の私に、幸福になりたかったら(そのころ、まだ私は自分が幸福になれると信じていた)、幸福を直接求めてはならないことを教えてくれた。ほかのことに熱中しているときに、フッと感ずる満足感、それが幸福なのである。

 しかし、歳をとるにつれて、精神を集中させる目的はまず見つからないことがわかり、たとえそれが見つかっても、それは私を幸福にしないことがわかった。

 幸福とは求めれば求めるほど遠ざかるもの、そういう構造をもっていると思うようになった。といって、求めなければ自然に与えられるものでもない。どうころんでも、与えられないものなのだ。そう思うようになった。

 セネカの『幸福なる生活について』の書き出しは次のものである。


 兄上ガルリオーよ。だれしもみな幸福に生きたいと願わない者はいない。にもかかわらず、幸福な生活を実現せしめるのは、いったい何であるかという点を見きわめるには盲目である。幸福な生活を達成することは、なかなか容易なわざではないことは、だれにかぎらず、幸福な生活を目当てに急げば急ぐほど、道を誤れば、いよいよこれより遠ざかるという結果に陥るほどである。
(樋口勝彦訳)


 幸福を過度に追求すると、たえず「自分は幸福ではない」と不平を言いたくなるし、「ああ幸福だ」と実感したとたん、わずかでも不幸に傾斜することが恐ろしいし、自分より幸福な人を嫉妬するし、自分より不幸な人に無関心な素振りはできない。

 すなわち、私が幸福を求めれば求めるほど、かならず多大な害悪を及ぼすことがわかった。私は真実を隠蔽(いんぺい)してでも幸福になることを求め、しかもそれを妨げる人を憎み恨み、そしてその人の不幸を望むという貧しい閉塞状態に陥るのである。

極限的不幸


 不幸論を開始するにあたって、二つの確認をしておこう。

 まず第一に、本書で私はひとの欲望の内容を日常的習慣的意味で了解している。他人から愛されたい、他人を愛したい、裏切られたくない、憎まれたくない、快適な生活をしたい、家族に囲まれたい、知的に高まりたい、有能な者と認められたい、健康な身体をもちたい、美しくなりたい、魅力的になりたい、社会的地位を高めたい、趣味を開発し生きがいを感じたい、財力をもち豊かな生活をしたい、他人を支配する力をもちたい、他人から尊敬されたい……というように、ほとんどの人が日々の生活において漠然と望んでいることを内容とする。

 そして、第二に、私は本書では、殺されそうになったとか、家族が殺されたとか、失明したとか、身体が損傷したとか、不安のあまりいつも自殺したくなるとか……の極限的不幸には触れない。

 春日武彦は『不幸になりたがる人たち』(文春新書)において、どうしても自分が幸福であることに耐えられず、自傷行為を繰り返す者、自虐的にならないと安心できない者、破滅願望のある者などを紹介しているが、こうした病的ふるまいにも触れない。

 私は自分が幸福であると強い罪悪感を覚える人間であり、観念的に彼らのごく近くにいると自覚しているが、とはいえこういう病的行為に及ぶわけではないので、だからこそいいかげんなコメントは避けようと思う。

 シモーヌ・ヴェイユは独特の不幸論を展開している。彼女は若いころの過酷な工場での体験を通して、「不幸」という概念を独特な方向に育てていった。不幸、それは魂が粉々に打ち砕かれ、汚辱(おじよく)と絶望に支配され、奴隷のしるしを刻みつけられることである。だが、本書ではこうした独特の意味における極限的不幸も除外する。

 私が本書の読者として想定しているのは、極限的不幸に陥っている人ではない。身体的にとくに障害をもつわけでもなく、精神的にとくに病んでいるわけでもなく、殺人鬼に追われているわけでもなく、「あと半年」と(がん)の宣告を受けたわけでもない。

 つまり、普通の生活をしており、たかだか失恋したとか、同僚に先を越されたとか、受験に失敗したとか、息子がグレているとか、夫が浮気しているようだとか、鏡に向かって「なんで私はこう不美人なのだろう」と呟いているとか、どこの大学も受からず「なんでおれはこう頭が悪いんだろう」と頭をたたいているとか……等々、色とりどりの「ささいな」不満にあえいでいる人々である。

 こうした普通の人は、死にものぐるいで幸福を求めたがる。みずからをだましにだましても求めたがる。うちひしがれながらも「おれ(私)はほんとうは幸福なんだ」と思い込みたがる。まわりの人々も、彼(女)が無理にでもそう思い込むように、必死の思いで手助けする。紋切り型の甘い言葉を彼(女)の耳に流し込むのである。

 みんな、じつは王様が裸であると知っていても「きれいな着物ですねえ!」と賛美するゲームを歯を食いしばって続けているのである。しばらく前に、私はこのあほらしいゲームから降りてしまった。そして、「王様は裸じゃないか!」と叫ぶ子供に戻ってしまった。つまり、人生を「半分」降りてしまったのである。
「ほんとうの」幸福がどこかにあるわけではない。それは、青い鳥のように、あなたの足元にころがっているわけではない。それは、あなたの考え方を変えることによって、いますぐにでも手に入れられるものではない。だが、みんな、なんとこう言いたがることであろう。

 幸福は、平凡な生活のさりげない側面に隠されている。しかし、あなたはそれに気づいていないのだ。なんと平然とこう言いたがることであろうか。

 しかし、ほんとうの幸福はそんなところにひっそりと隠れているわけではない。

 じつは、ほんとうの幸福などないのだ。あたかも純粋な三角形がこの世になく、この世ではいつもゆがんだ三角形を見ているように、われわれがこの世で出会う幸福はいつもゆがんでいる。

 しかも、それはそれ自体がゆがんでいるのみならず、真実を隠蔽する。ゆがんだ幸福の眼で見ると、われわれは真実が見えなくなるのである。だから、本心から真実を見ようとするなら、幸福であることをあきらめねばならない。幸福を追求することをあきらめねばならない。

 イマヌエル・カントは善(真実)と幸福との合致を「最高善」という理念として掲げた。私が完全に道徳法則のもとにあり、かつ完璧な幸福に輝いていることは一応可能ではあるが、この世では実現できない、ということを彼は知っていたのである。

 この世では、幸福はいつも真実を食い尽くす。真実を呑み込み、胃袋に入れて消化しようとする。幸福な人の眼は真実を見ていない。彼は真実を見ることをあきらめて虚偽を見ている。虚偽を見ながら、「これでいいのだ」と自己催眠をかけている。

気を紛らすこと


 パスカルは次のように言う。


 気を紛らすこと。人間は、死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことを考えないことにした。
(『パンセ』前田陽一訳)


 惨めさ。われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかし、これこそわれわれの惨めさの最大のものである。
(同書、同訳)


 私の不幸論はこれらの言葉のうちに凝縮されている。真実を知ると不幸になるから、われわれは幸福になるために、正確に言いなおせば、幸福であると思い込むようになるために、必死の思いで真実を隠して生き、そして死んでいくことを決心した。

 私はどうにかしてこれを裏返してみたいのだ。人生はどうころんでも不幸なのだから、ごまかすのはやめて、真実をトコトン見すえて不幸に留まってはどうか、「気を紛らす」ことをやめて、徹底的にこの恐ろしく理不尽な人生を直視してはどうか、と提案してみたいのである。

 私が五十年余りの人生から学んだことは、人間はどうあがいても幸福にはなれない、ということである。むしろ、セネカの指摘するように、幸福は求めれば求めるほど手の中からすべり落ちてゆく。そして、幸福に到達したと思ったとたんに、その代償として膨大な自己欺瞞(ぎまん)を背負っている自分に気がつく。

 個人は精神的にも肉体的にも資質や能力は徹底的に不平等であり、しかもこうした不平等な個人に待ち構える運命も恐ろしく不平等である。

 こうして、生きているあいだは偶然に翻弄され、みんな等しく死んでいく。そして、やがて人類も滅亡し、数十万年の人類の記憶は近い将来宇宙から完全に消滅する。

 この背筋の寒くなるような真実の残酷さを知れば、不幸であることは自然なのではないか。とすれば、無理に幸福を装って欺瞞的に生きるより、あっさり不幸を自覚して生きるほうがいいのではないか。そのほうが「よく生きる」ことができるのではないか。

 そう思うのである。
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