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他人と上手くつきあえない人 「きずな喪失症候群」という病
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生き方・教養
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第四章 幸せになる努力を間違えないために

『他人と上手くつきあえない人 「きずな喪失症候群」という病』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間1分
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悩んでいる人の努力の仕方


 努力しない怠け者タイプ


 努力という視点からみると、悩んでいる人には二つのタイプがあることが分かる。

 それは(なま)け者型と努力型である。

 努力しない怠け者タイプは、《きずな喪失症候群》型と言われる人々と、《ピーターパン症候群》型と言われる人々である。

◆《きずな喪失症候群》型の人の場合
《きずな喪失症候群》型は、寝ていてお金が入ってくることを幸せと考えている。次に説明する《ピーターパン症候群》型と同じで、努力はしない。
《きずな喪失症候群》型の人は、親子関係が希薄で、親に愛されて育っていない。愛されていないというよりも、ほとんど無視されて育っている。あるいは(いじ)められて育っている。そして愛情飢餓感(きがかん)から、いつも人が自分に何かをしてくれることを期待している。その何かをしてくれないから人を憎み、悩むのが《きずな喪失症候群》型である。

 いつも人から注目されたい。でも人が自分に関心を示してくれない。そこで人を(うら)む。

 こちらに百円の収入があったので、相手に五十円をあげたとする。すると、この《きずな喪失症候群》型の人は怒る。不満になる。何で五十円をお前が取るのだと不満になる。つまり、こちらに親であることを求めている。こちらが親なら、自分が百円もらったら、百円全部を子供にあげることがあるだろう。

 このギャップは大きい。あげたほうは、あげる必要のない五十円をあげたと思っている。しかし相手は、百円全部をくれなかったことを恨んでいる。感謝されていると思ったら、恨まれている。
《きずな喪失症候群》型の人は、他人と親との区別ができない。他人と親とは違うということが理解できていない。他人に親であることを要求する。だからすぐに他人に不満になるのである。結果として、いつも他人を恨んでいることになる。《きずな喪失症候群》型の人と(かか)わった人は恨まれる。
《きずな喪失症候群》型の人は、一度も味わったことのないその幼児期の無責任でいい世界を味わいたいということである。皆から注目される世界である。皆に関心を示してもらえる時期である。

 そしてそれが味わえないから「(つら)い、辛い」と騒いでいる。皆が自分に注目してくれないので憎しみを持つ。しかしその憎しみを直接相手に言えないから、「辛い、辛い」と騒いでいるのである。直接相手にストレートに言って嫌われたくない。

「私はあの人を好きだ」と思う。ナルシシストでなければ「でも、あの人は私をそう意識してはいない」と分かる。すると、普通は「では、こちらに好意を持たせるには、どうすればいいか」と考える。

 しかし《きずな喪失症候群》型で悩んでいる人は関係が分からないから、自分の感情に従って行動してしまう。そこで相手に気味悪がられたり、嫌われたりする。

 例えば、付き合いのない女性に、いきなり「好き」と言ったりする。「好き」と言っても不自然ではない関係までいってから「好き」と言えば、成功しなくても相手は気味が悪いとは思わない。

 気味が悪いと思われるのは、自分の行動の仕方がおかしいからで、その人自身がおかしいというのではない。人間関係で悩んでいる人は行動を直せばいい。しかし《きずな喪失症候群》型で悩んでいる人は、そこで相手を責めたり、次に説明する《燃え尽き症候群》型で悩んでいる人は、自分を卑下(ひげ)したりする。
《きずな喪失症候群》型の人は、「好き」と言っても気味が悪いと思われないところまで、まず関係をもっていってから、「好き」と言えばいい。「好き」と言っても不自然でないところまでいって「好き」というのが、関係というものが分かっている人である。

 問題は、この人には「好き」と言ってもおかしくはない、ということが理解できるか理解できないかである。《きずな喪失症候群》型で悩んでいる人は、その関係が理解できていない。

 関係とは、初対面か、長年の付き合いか、幼なじみか、親しい人か親しくない人か、上司か部下か同僚か、男か女か、血縁、年齢は? などである。自分が今どこで何をしているのか、場所と時間とを築き上げてきたもの、などである。

 先に例として挙げたような男と女の間のことばかりではない。関係が分からないということは、こんな事をこの人に頼むのはおかしい、と感じることがないということである。だから、頼むのがおかしい人に頼んでしまう。そのことを親や親友に頼むのならばおかしくはないが、知り合ったばかりの人に頼んだらおかしいのに、頼んでしまう。そこで断られる。そして傷つき、人を恨む。

 あるいは“こんな事”をこの人に期待するのは無理だという人に、“こんな事”を期待してしまう。その期待が裏切られて「(ひど)い目にあった」となる。

 悩んでいる人は、そうした時に不公平に扱われたと思っているが、誰でもそんな行動をすれば、そうした扱いを受けるのである。それなのに「自分だけは……」と思い込んでいる。
《きずな喪失症候群》型で悩んでいる人は、「このことを誰に頼むのが適切なのか」が理解できない。親に頼むべき事を、単なる隣人に頼んでしまう。幼なじみに期待することを見知らぬ他人に期待してしまう。こうして、ことごとく依頼や期待が実現しなくて傷ついたり、周囲の人を責めたり、人間不信に(おちい)る。

 関係が理解できないということは、すべての人が同じ他人なのである。だから、そのことを要求するのが適切でない人に、自分の側だけの感情に従って要求してしまう。

 自分が“好き”だと、それだけで相手は“恋人”になってしまう。つまり《相手と自分との関係》というのがない。だから女性恐怖症の男性は、いきなり見知らぬ女性をお茶に誘える。初めて会った女性をホテルに誘える。

 関係が理解できていればできないことを、平気でしてしまう。こうした行為を間違って、“勇気ある行為”と思う人もいるが、単に関係が分かっていないだけのことである。

 カレン・ホルナイが、“神経症的要求”ということを言っている。それは自己中心的とか、非現実的とかいうことがその特徴である。しかしこれも、関係が理解できないから、“神経症的要求”になる。

 知り合ったばかりの人に要求するから、“神経症的要求”と言われるものでも、親に対して要求するなら、“神経症的要求”ではなくなるだろう。“神経症的要求”の特徴である自己中心性なども、自分とは親しくない人に要求するから自己中心性になるので、親友に要求するなら自己中心性ではない。
「自分が病気になったらお見舞いに来るべきである」という要求が、自己中心性であるか自己中心性でないかは、その要求する相手とその人との関係で決まる。
《きずな喪失症候群》型の人は、相手との心の距離感がない。この人との心の距離感は近い、あの人との心の距離感は遠い、というようなことがない。そのような心の距離感がない。誰に対しても、同じ心の距離感なのである。だから、誰にでも同じことを期待してしまう。
《きずな喪失症候群》型の人には、心の距離感の基準になる親子関係がないからである。親に対して近い心の距離感があれば、親以外の人と自分との距離が遠いということが分かる。親しい友人ができてくれば、親しくない単なる知り合いの人との距離感も分かる。

 誰かが招待を断る。病気になっても助けてくれない。すると、《きずな喪失症候群》型で悩んでいる人は、不公平と感じる。自分の子供が病気になれば、親は子供のところに飛んでいくだろう。しかし、昨日知り合った人が病気になったからといって、仕事を放ったらかしにしてその人のところに飛んでいく人はいない。

 ところが、《きずな喪失症候群》型の人はこれを要求する。つまり、他人が天使であることを期待する。《きずな喪失症候群》型の人は、「みんな人間であるということを受け入れない」。

 ということは、隣人に要求するのが適当なことを、隣人には要求しないということである。隣人に親であることを要求するから、隣人は断るだけである。そのことは同時に、自分に要求するのが当たり前のことを、自分に要求しないということにもつながる。
《きずな喪失症候群》型で悩んで私のところに来る人は、皆私に親であることを要求する。私は、自分の子供に対してさえやっと親であることができている状態で、とても何百人、何千人に親であることなど不可能である。
「私は著者であって親ではない」ということが分かっていれば決して書かない手紙を、書いてくる。「私はこの著者にとって世界で一番大切な人である」という前提で、私に手紙を書いてくる。もちろんそれを意識しているわけではない。しかし、そうでなければ決して書かない手紙の内容なのである。おそらく、自分の周囲の人すべてにこうした態度で接しているのであろう。そして、ことごとく断られる。

 だから《きずな喪失症候群》型で悩んでいる人は、周囲の人を恨んでいるのである。
《きずな喪失症候群》型で悩んでいる人も、それを要求するのが適切な人に要求をしていれば、自分が不公平に扱われているのではないことが理解できる。敵意も不公平感も味わわなくてすむ。

 シーベリーの言う「白鳥によい声で鳴くことを期待するのは間違っている」ということがここでも当てはまる。関係が理解できない人は、“白鳥によい声で鳴くこと”を期待して、よい声で鳴かないと、“よい声で鳴いてくれなかった”と不満になる。関係の分からない人は、よい声を期待するならば、ナイチンゲールに期待するということをしない。

 ただつけ加えれば、シーベリーのこの言葉も問題がないわけではない。よい声とかよい声でないとか、あまり気にする必要はない。白鳥は“こういう声でなくもの”と素直に思えばいいのではないだろうか。


 対人恐怖症者は、誰彼となく、他人を前に理想の自分を演じようとすると言われる。要するに、「オレを認めてくれー」と誰彼となく叫んでいるのである。それよりも「この人に認めてもらいたい」という人を探すことである。

 つまり、対人恐怖症者も関係が理解できていないのである。この人の前ではこういう態度が自然、この人の前ではこういう態度は不自然、という感覚が理解できていない。人間関係で大切なのは“理想の自分”よりも“その場にふさわしい自分”である。このことを、《きずな喪失症候群》型の人は分からない。

 対人恐怖症の人は、どこへ行くにもタキシードを着て行くようなものである。一次会も二次会も同じに“理想の自分”を演じる。極端に言えば、お風呂に入るにもタキシードを着て入るようなものである。

 敬語がいいとなると、長年の恋人にも敬語を使ってしまうし、それがみずくさいとなると、人前でも構わず「ネエ」と、二人だけの時に使う言葉を使ってしまう。リラックスの場も、公式の場も区別がない。

 人が心理的に成長すると、ウラとオモテが出てくるというのはそういうことであろう。

◆《ピーターパン症候群》型の人の場合
《ピーターパン症候群》型の人は社会的な風俗現象として注目されるような人々である。タケノコ族と言われた若者がいたが、原宿などに集まって来る人々がその一部である。本をあまり読まないし、自分でもあまり手紙などは書かない。
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