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人を動かし、時代を変えた 心を揺さぶる名経営者の言葉
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ビジネス
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第四章 失敗を恐れない

『人を動かし、時代を変えた 心を揺さぶる名経営者の言葉』
[編著]ビジネス哲学研究会 [発行]PHP研究所


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「およそ人間の地位や名誉、財産ほど

 くだらないものはない。

 わしは無一文で生まれてきたのだから、

 無一文で死ぬのが理想だ」

 

   矢野恒太

    (第一生命創業者)

     1865〜1951

 


 矢野恒太(やのつねた)は岡山県上道郡角山村(現在の岡山市)の生まれ。矢野家は地元で代々医業を務める家柄だった。長男だった恒太も当然のように医業の道へ進むことになり、一八七八年に岡山大学の前身である岡山医学教場へ入学した。ところが一八八〇年三月に、親に無断で同校を退学。上京して東大医学部を目指したが、親に仕送りをストップされたため果たせず、帰郷して岡山県医学校に入学した。

 二十四歳で同校を卒業した矢野は、恩師の勧めもあって、翌年に日本生命に診査医として就職した。だが、経営陣と対立して三年後に退社。独力で生命保険理論について研究していた矢野は、安田財閥の創始者・安田善次郎に注目され、共済生命保険(現在の明治安田生命保険)の設立に尽力するようになった。

 その後、ドイツ留学をして保険業務を学んだ矢野は、帰国後に共済生命保険の支配人に就任。そして、一八九七年に農商務省の嘱託(しよくたく)職員となり、自らの生命保険理論を基にして保険業法制定の起草に尽力し、農商務省の初代保険課長となった。一九〇二年に農商務省を辞した矢野は、日本初の相互会社である第一生命の創立に参画し、専務に就任。その後、社長に就任し、一九三八年に石坂泰三(いしざかたいぞう)を社長に任命すると自らは会長に就任した。その後、一九四五年まで同社の会長として第一生命の発展に尽力した。

 当時の生命保険は「死ななければ損」といわれていた。しかし、矢野は払込保険料に対する配当を実行するなど、「長生きすればするほど得」という、それまでとはまったく違った価値観を保険業にもたらした。

 この間にも矢野は、一九二二年に第一相互貯蓄銀行(現在のりそな銀行)を設立して頭取に、一九二四年には東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)の社長に就任するなど、大正・昭和期の実業界で大きな影響力を誇った。

 しかし紹介した言葉からもわかるとおり、矢野は自ら地位や名誉などを求めたことはなく、ほとんどの地位とチャンスは周囲からもたらされたものだった。秀でていれば、仕事は自然と集まってくるものだというよい例であろう。


「英雄とは、自分のできることをした人だ。

 凡人は自分のできることをせず、

 できもしないことをしようとする人だ」

 

   リチャード・ブランソン

    (ヴァージン・グループ創業者)

     1950〜

 


 リチャード・ブランソンはロンドン郊外で生まれた。祖父は高等法院の裁判官、父も弁護士であったことから、幼い頃のブランソンも一流パブリックスクールに通い、一流の教育を受けた。

 だが、ブランソンは学校に馴染むことができなかった。彼は勉学よりも「いかにすれば事業で成功できるか」を考える毎日だった。十六歳でパブリックスクールを中退したブランソンは「スチューデント」という雑誌を創刊。十六歳の少年が作った雑誌は、マスコミに注目されたものの、売り上げは伸びず苦しい日々が続いた。そこで中古レコードを通信販売し、その利益で雑誌を存続させようと考えついた。

 このビジネスは、高価なレコードに手が出ない若者たちに大いにうけ、自宅のポストが小切手で溢れかえるほどの注文を受けた。そして、この資金をもとにして一九七〇年にレコード販売チェーンの「ヴァージン・レコード」を創設。さらに独自のレコード・レーベルを立ち上げ、マイク・オールドフィールド、セックス・ピストルズ、ボーイ・ジョージなどのスターを発掘し、売り上げを伸ばし続けた。

 さらにブランソンは、ヴァージン・アトランティック航空を設立して航空業界にも進出。巨大企業ブリティッシュ・エアウェイズに「無謀」といわれた戦いを挑み、いまではイギリスの国際路線の一角を占めるまでになっている。

 こうしてブランソンは、四十歳代にして従業員二万五〇〇〇人、売り上げ四〇億ポンド以上という「ヴァージン帝国」を作り上げ、エリザベス女王からナイトの称号を受けるまでになったのである。

 彼が事業計画を公開したときには、いつも「そんなことできるわけがない」という否定的な意見がついて回った。十六歳で雑誌を創刊したときも、航空業界へ進出したときもそうだった。しかし、ブランソンはただ語るだけではなく、その計画をしっかり成し遂げた。ここが凡人とは違うところだ。将来の夢を語る人は多い。だが、その実現に向かって努力する人はあまりいない。語るだけではなにも始まらない。まずは一歩を踏み出さなければならないのだ。


「事業は金がなければできないが、

 正しい確たる信念で裏づけられた事業には

 必ず金は自然に集まってくる」

 

   三島海雲

    (カルピス創業者)

     1878〜1974

 


 三島海雲(みしまかいうん)は大阪府豊能郡萱野(かやの)村(現在の箕面(みのお)市)に生まれる。一八九三年に西本願寺学寮高等科へ入寮し、一八九九年に卒業。父親には寺を継いでほしいと望まれたものの、山口県の開導中学校で英語教師となった。

 一九〇一年には仏教大学(現在の龍谷大学)の三年に編入学。大学で「中国大陸にはチャンスがある」と聞かされたことから、翌年に中退して北京へ渡り、土倉五郎(当時、日本の山林王といわれた)と日華洋行という貿易会社を設立。当初は、日本から輸入した雑貨品などを馬車に積んで自ら売り歩く厳しい生活が続いたが、一九〇八年に日本軍から軍馬の調達を依頼されたことから、経営は軌道に乗り始めた。
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