人類を愛することは簡単だが、隣人を愛することは難しい
「人類を愛する人」とはつきあわないこと。
愛を唱えている人は、必ずしもやさしい人ではない。
たいていは残虐で冷たい人であることのほうが多い。
カルト集団などが社会的な問題を起こすと、彼らの「現実感覚がおかしい」とか、「現実感覚がない」とか、「現実感覚が歪んでいる」とか言われる。
この現実感覚が希薄なのは、周囲の人とコミュニケーションできていないからである。
現実感覚の希薄さは、人とふれあえないというところから来ている。
たとえば、「愛する」という言葉を使うときに、現実感覚の希薄な人と現実感覚のある人とでは違う。
現実感覚の希薄な人は、「私は人類を愛する」という正義の言葉を言う。
しかし、現実感覚が希薄だから隣人は愛せない。
若いころ、「人類を愛することは簡単だけれど、隣人を愛することは難しい」と書いてあるのを読んで、「いい言葉だな」と思った。
コミュニケーションできない人は、「人類を愛する」のである。
しかし、決して隣人は愛さない。いや、隣人を愛する能力はない。
「人類を愛する人」は冷たいが、「隣人を愛する人」はやさしい。
そうした意味で、「人類を愛する人」は、「生きる」ことを学ぶ前に理屈を学んでしまったのである。
現実の世界で生きていないから、現実に人を愛する経験がない。
人は経験で賢くなっていくのだ。
ところが、経験がないと、物事をすべて頭の中で、「いいこと」「悪いこと」の善悪で判断してしまう。
コミュニケーションできない人の手紙を読んでいると、そこには「悲しみ」がない。
現実のドロドロしたものがないのである。
あるのは、頭で考えた教えられた言葉としての「悲しみ」で、体験としての「悲しみ」ではない。
そして、私は「こうした」がない。
あるのは、私は「こうされた」である。
父親がこう言った、母親がこう言ったと書いてあって、自分は「こうした」がない。