やさしい人の行為はさりげない
講演会に行くときに主催者が切符の手配をしてくれる。
主催者に、「新幹線は禁煙席で」と頼んでいるのに、「禁煙席はとっていない」と言われることがある。
そういう講演会では、講師控え室で出てくるお茶はまずくて冷たい。
そういう場合でも、「先生のような偉い方が」と言葉だけはものすごい。
さらに、この講演会のために自分たちはどれほど努力したかという売り込みがすごい。
やさしい人の行為はさりげない。
ことさらに、「男女同権なんだから男性もお茶をいれるべきだ」と言う人がいる。
外出から会社に帰ったとき、女性であれ男性であれ、黙ってテーブルにお茶を出して、「お疲れさま」と言われたとき、普通の人はやさしさを感じる。
そのお茶が自分の望む温度であったときに、濃やかな気遣いに気持ちは安らぐ。
お茶をいれる人が男か女かは関係ない。
大切なのは男か女かではなく、「お茶をいれる人」に「やさしさ」があるかないかである。
「お茶をいれるのは女性であるべきだ」とか、「男性もいれるべきだ」とかいう議論には、お茶をいれるということの本質が忘れられている。