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イノベーションを起こす! 思考の壁をやぶる起業家の言葉
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第4章 努力を忘れない

『イノベーションを起こす! 思考の壁をやぶる起業家の言葉』
[編著]ビジネス哲学研究会 [発行]PHP研究所


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もし発明家になりたいなら、私のやった通りのこと――毎朝五時から毎晩八時まで働き、昼は三〇分しか休まないようにしなさい。

ゴットリーブ・ダイムラー(一八三四〜一九〇〇)
自動車を実用化・ダイムラー社設立


 ゴットリーブ・ダイムラーは、ドイツのシュツットガルト近くの町で生まれた。父は評判のパン職人で、店は繁盛していたという。その父は、ダイムラーを役人にしたいと考えていた。しかし父の考えとは違って、鉄砲作りの工房の見習いになってしまった。その後、蒸気機関製作所に移ってお金を貯めると、シュツットガルト総合技術学校で学んだ。同校で技術主任にまで昇進し、エンジンの開発などを行っていた。

 やがてエンジン研究のためにイギリスやフランスで学び、一八七二年に優秀なエンジニアであるウィルヘルム・マイバッハとともにドイツ・ガス原動機製作会社に入社する。二人は小型エンジンの開発に携わり、一八八二年にエンジン試験工場を共同で設立した。このとき、ダイムラーはすでに四七歳になっていたが、研究意欲は衰えていなかった。

 そして、その翌年には熱管点火式高速ガソリンエンジンの特許の取得に成功。これは、現在のガソリンエンジンにも使われている点火プラグのルーツとなる画期的な発明だった。この発明によって、エンジンの重量を十分の一以下にまで激減させ、エンジンを二輪車に搭載することに成功した。一八八九年にはV型エンジンが完成し、これが、今日の自動車用ガソリンエンジンの原形となったとされる。

 ダイムラーは一八九〇年にダイムラー社を設立。技術部長に就任したマイバッハのおかげもあり、一八九四年の第一回国際自動車レースで優勝。ダイムラーはなんと八万フランもの賞金を獲得した。ちなみに、メルセデスという車名は、このレースのスポンサーになったハンガリー帝国(当時)領事で車好きの富豪の末娘の名である。

 ダイムラー社が最初の自動車を発売したのは一九〇一年。このモデルは大成功を収めたが、ダイムラーはその前年に死去していたので、この成功を見ることはなかった。一九二六年にはカール・ベンツが設立したベンツ社と合併してダイムラー・ベンツ社となった。
「成功」という結果だけを見て他人を妬む人がいる。しかし、成功を得るまでには血の滲むような努力があったのである。その努力を知れば、妬むことなど、とてもできないはずだ。成功ではなく、隠れた努力を真似るべきだろう。


他のエンジニアたちが三度で断念する実験を、私はうまくいくまで一〇〇回でも繰り返す。

シーモア・クレイ(一九二五〜一九九六)
スーパーコンピュータを開発・クレイ・コンピュータ社設立


 シーモア・クレイは、アメリカのウィスコンシン州生まれ。父は、幼い頃からクレイに科学的な玩具を買い与え、地下室を「研究室」にすることを許していたという。クレイは中学生の頃には、穴の開いた紙テープからモールス信号を発信する機械を作っていた。地元の高校を卒業したクレイは、エンジニアとして第二次世界大戦に従軍。主に暗号の解読に携わり、日本軍の暗号解読にも貢献した。終戦後はミネソタ大学に進学し、一九四九年に理学士号を取得して卒業。さらに、一九五一年には応用数学の修士号を取得した。

 ミネソタ大学の修士課程に通うかたわら、エンジニアリング・リサーチ・アソシエーツに就職。同社は戦争中に暗号の解読に携わっていた海軍の研究グループが前身で、それが縁での就職だった。同社に入社すると、クレイはすぐに才能を開花し、世界初の科学技術計算用コンピュータ「ERA1103」の設計・開発に成功した。

 エンジニアリング・リサーチ・アソシエーツはUNIVACに買収され、科学技術部門は閉鎖された。そのため、クレイは同社の社員たちが創立したコントロール・データ・コーポレーションに入社。一九六六年に世界初の商用スーパーコンピュータ「CDC6600」の開発に成功。他社の三倍以上速い計算能力を持っていたために、核関連の研究所や大学から次々に商談が持ち込まれ、最終的には五〇台が販売された。ちなみに、このCDC6600は一九六四年から一九六九年まで、世界最高速の地位にあり続けた。

 その後クレイ・コンピュータ社を設立し、さらに高性能なスーパーコンピュータの開発を続けたクレイだったが、開発費の高騰と冷戦の終結によって同社は破産を申請。クレイも一九九六年に自動車事故による怪我が原因で死去したが、「シーモア・クレイ賞(高性能計算システムの発展に革新的貢献をした者を表彰するもので、コンピュータ業界のノーベル賞ともいわれる)」として名を残している。

 天才には努力が必要ないと思われがちだが、クレイは努力を惜しまない天才だった。「石の上にも三年」という言葉もある通り、九九パーセント不可能だと思っても、辛抱してやり続ければ必ず成功への道が見えてくるのである。


ほとんどの人は、成功を収める寸前にあきらめてしまう。

ロス・ペロー(一九三〇〜)
メディケアシステム構築・EDS、ペローシステムズ社設立


 ロス・ペローは、テキサス州テクサルカナで生まれた。一九四九年にアメリカ海軍兵学校に入学。一九五三年に同校を卒業すると、そのまま海軍に勤務し、大隊指揮官を経て大尉にまで昇進して一九五七年に退役した。

 退役後、ペローはIBMに入社して、営業を担当することになった。友人たちはこの転身を見て「成功するわけがない」と考えたが、なんと年間最高売り上げを記録して表彰されるほどの好成績をあげた。五年間の勤務後、ペローは自分の営業センスを活かしてEDSという、情報処理サービスを提供する会社を設立した。しかし、IBMという大看板を失っての営業は簡単ではなかった。毎日、さまざまな会社に足を運んだが、最初の契約をとるまでに、なんと七七回も断わられ続けたという。

 普通の人間なら、自信を喪失してあきらめていてもおかしくない回数である。しかし、彼は「成功は目前」と信じて営業を続けた。そして、ついにアメリカ政府から、健康保険(メディケア)のデータ処理という大仕事を得たのである。

 この契約によってEDSは急成長を遂げ、一九六八年に株式を公開。当初、一株一六ドルだった株価はあっという間に一六〇ドルまで急上昇し、設立者のペローは一夜にして大富豪になった。ちなみに、一九六八年に発売された経済誌の『フォーチュン』は、ペローのことを「最も早く、最も金持ちになったテキサス州民」と紹介したほどだった。

 一九八四年にEDSはゼネラルモーターズに買収され、ペローも同社の経営陣の一人となった。しかし、ゼネラルモーターズはあまりにも巨大な企業で、経営陣は官僚的な考えの持ち主ばかりだった。その体質になじめず、すぐに退社する。そして、一九八八年にはEDSと同じ情報処理サービスを手がけるペローシステムズを設立した。同社もまた成功を収めるが、その後、パソコンメーカーのデルに買収されることになった。

 私たちには「成功」というゴールがどこにあるのかわからない。だから、途中であきらめてしまうのである。しかし、あきらめない者だけが成功を手にする可能性がある。ゴールは自分で思っているよりも近い。あきらめずに、そのゴールを目指そうではないか。


仕事は自分で見つけるべきものだ。また職業は自分でこしらえるべきものだ。その心がけさえあれば、仕事、職業は無限にある。

豊田佐吉(一八六七〜一九三〇)
豊田式自動織機を発明・豊田自動織機製作所設立
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