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織田信長101の謎 知られざる私生活から、「本能寺の変」の真実まで
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歴史
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Q1 織田信長が果たした歴史的役割とは

『織田信長101の謎 知られざる私生活から、「本能寺の変」の真実まで』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


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 打ち続く戦乱の時代の幕引きを行ない、新しい時代への橋渡しをした−−織田信長(一五三四〜八二)が果たした歴史的役割を手短にいうとそんなふうになります。

 群雄が割拠(かつきよ)して戦乱が続いた期間のことを戦国時代といいますが、信長はそういった時代に尾張(おわり)(愛知県西部)の有力な武将の嫡子(ちやくし)(跡取り)として生まれました。信長が十八歳の時、父がはやり病で急死します。

 一族や重臣の中には、何事にも礼儀正しい弟の勘十郎信勝(かんじゆうろうのぶかつ)に家督を()がせようという動きがあり、信長も苦闘を強いられます。八年近い年月をかけ、信長は対立していた一族、重臣、さらには尾張国内の諸勢力を屈伏させました。

 ところで、戦国時代に地方に割拠した大領主(だいりようしゆ)のことを、戦国大名と呼んでいます。信長は後半生の大部分を、この戦国大名との激闘に費やします。具体的には、永禄(えいろく)三年(一五六〇)に駿河(するが)(静岡県東部)の戦国大名・今川義元(よしもと)を急襲して討ちとりました(桶狭間(おけはざま)の戦い)。以後も信長は美濃(みの)(岐阜県南部)の斎藤家をはじめ、近江(おうみ)(滋賀県)南部の六角(ろつかく)家、近江北部の浅井(あざい)家などの戦国大名を次々と滅ぼしました。

 わけても、永禄十年(一五六七)に斎藤家を滅ぼして居城(きよじよう)稲葉山(いなばやま)城(岐阜市)を奪った際は、城名を岐阜城に改め、商業振興を企図して「楽市(らくいち)」を発布します。

 また、この頃から信長は、「天下布武(てんかふぶ)」の印章を用いるようになります。このあたりから、信長は天下統一という大事業を意識しはじめたのかもしれません。

 翌年(永禄十一年)、足利義昭(あしかがよしあき)(よう)して上洛(じようらく)を果たした信長は、「三好三人衆」らを追放して実質的に畿内(きない)(近畿地方)を支配下におきます。そして、室町幕府を再興し、義昭を第十五代将軍の座に据えました。けれども、将軍・義昭が失政を重ねると、すぐさまこれを牽制。天正(てんしよう)元年(一五七三)には義昭を追放して、室町幕府を滅ぼします。

 ところで、天下統一というと軍事面や政治面での動向ばかりが気になりますが、経済面での動向も見落とすことはできません。上洛後の信長は流通の促進を企図して、関所の撤廃、「撰銭令(えりぜにれい)」などの諸政策を発します。これらの諸政策は、旧来の悪弊を打破し、新たな経済システムを構築するのに重要な役割を果たしました。

 土地制度をめぐる課題に関しても、旧来の複雑で重層的な権利関係を整理し、一職(いつしき)支配(分化した(しき)=権益の一元的な支配)への移行を目指しました。また、ごく一部ですが、和泉(いずみ)(大阪府南部)や大和(やまと)(奈良県)では指出(さしだ)し(土地所有の自己申告)を行ない、播磨(はりま)(兵庫県中央部)では後年の太閤検地(たいこうけんち)に似た形態の検地も実施しました。朝倉家滅亡後の越前(えちぜん)(福井県)では「刀狩(かたながり)」を、大和では城破(しろわ)り(城郭の破却)を行なっています。さらに、キリスト教や外国人宣教師にも関心を抱き、布教や、京都の南蛮寺(なんばんじ)(京都市中京区)、近江安土(あづち)(滋賀県安土町)のセミナリヨなどの創建にも理解を示しました。

 天正四年(一五七六)には、安土の地への五層七重の絢爛豪華(けんらんごうか)な城郭・安土城の構築に着手しました。天主閣(てんしゆかく)の完成は天正七年頃と推測されます。この安土城は、大坂城、聚楽第(じゆらくだい)伏見城(ふしみじよう)などをはじめとする諸建築に多大な影響を与えました。また、安土城の完成と前後して、文化の担い手が従来の寺社などから、天下人、大名や豪商などの新興勢力に移っていきます。その意味でも、安土城は安土桃山文化を象徴する存在といえるでしょう。

 天正十年までには、信長は本願寺を摂津(せつつ)石山(大阪市中央区)から退去させ、また越前の朝倉家、甲斐(かい)(山梨県)の武田家などを滅亡に追い込んで、天下統一の一歩手前というところにまで迫ります。ところが、同年六月二日、信長は京都の本能寺(京都市中京区)に滞在中に、重臣の明智光秀(あけちみつひで)の襲撃を受けて自刃(じじん)して果てました。志半(こころざしなか)ばで倒れた信長ですが、以上のように多岐にわたる不朽の功績を残しているのです。
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