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織田信長101の謎 知られざる私生活から、「本能寺の変」の真実まで
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歴史
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織田信長関係史跡

『織田信長101の謎 知られざる私生活から、「本能寺の変」の真実まで』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


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織田信長関係史跡(a)信長と父・信秀の居城
勝幡城跡(愛知県愛西(あいさい)市勝幡・稲沢市六輪。交通=名鉄尾西線六輪駅より徒歩)

 父・織田信秀(のぶひで)の初期の居城。天文(てんぶん)三年(一五三四)、信長は信秀を父、正室・土田御前(つちだごぜん)を母に生を受けた。出生地をこの勝幡(しよばた)城とする説もある。信秀は東海屈指の商業都市・津島(愛知県津島市)に近い勝幡に本拠を置き、経済的な基盤を強固なものとした。信秀の退城後は廃城となる。城跡の大部分は田になっているが、小丘に石碑が建立されている。
那古野城跡(名古屋市中区南外堀町。交通=名古屋市営地下鉄市役所駅より徒歩)

 元は今川方の拠点であったが、信秀が奪って持ち城とした。信秀は天文三年、生まれたばかりの嫡子・信長をこの城に置いた。信長は弘治(こうじ)元年(一五五五)まで那古野城を居城としたが、信長の退城後は廃城となった。のち、城跡を含む一帯に尾張徳川家の居城・名古屋城が築かれた。現在、名古屋城二の丸に那古野城跡の石碑が建立されている。
古渡城跡(名古屋市中区橘。交通=名古屋市営地下鉄東別院駅より徒歩)

 那古野城跡の南一里(約四キロメートル)に位置する。信長を那古野城に入れた信秀は新たに古渡城を構築して移住したが、まもなく末森(すえもり)城(名古屋市千種区田代山町城山)に転じる。信秀の退城から約一世紀半後、城跡に本願寺東別院が築かれた。石碑が建立されている。
清洲城跡(愛知県清洲市清洲。交通=JR東海道本線清洲駅より徒歩)

 十五世紀初頭に尾張守護の斯波(しば)家が構築した城郭で、戦国時代は守護代・織田大和守家(清洲織田家)が実質的な城主としてここにいた。弘治元年、叔父・信光の助力を得た信長は、清洲城を攻撃。守護代・織田彦五郎を討ちとって城を掌中に収めた。さらに、信長は居城を那古野城からこの清洲城に移している。信長が小牧山城に移った後は、織田信雄(のぶかつ)(信長の次男)、松平忠吉(ただよし)(徳川家康の四男)らが在城。江戸開幕後、尾張徳川家の居城・名古屋城が築かれた際に廃城となるまで、清洲の城下は繁栄を続けた。現在、城跡に甲冑姿の信長の銅像が建立されおり、先年近くに模擬天守閣が構築された。
小牧山城跡(愛知県小牧市小牧町八幡。交通=名鉄小牧線小牧駅より徒歩)

 永禄(えいろく)六年(一五六三)、美濃の斎藤龍興(たつおき)道三(どうさん)の孫)の討伐を決意した信長は、美濃に近い小牧山に新たな城郭を構築。居城をこの新城に移す。小牧山は標高八十五メートルだが、山頂から濃尾平野が一望できる。数年ののち、信長が攻略した稲葉山城(岐阜城/岐阜市)を居城としたため、短期間で廃城となった。信長没後の天正(てんしよう)十二年(一五八四)、小牧長久手(ながくて)の戦いで徳川家康が小牧山の城跡に本陣を置き、羽柴(はしば)(豊臣)秀吉を牽制している。
岐阜城跡(稲葉山城/岐阜市金華山。交通=JR東海道本線岐阜駅、名鉄本線名鉄岐阜駅よりバス。岐阜公園より山頂までロープウェー)

 戦国時代に斎藤道三が居城に定め、稲葉山城と呼ばれた。永禄十年(一五六七)、信長は稲葉山城を攻めて斎藤龍興(道三の孫)を国外に追放。落城後、地名は()(くち)から岐阜に改められ、城名も岐阜城とされた。信長は岐阜城を拠点として天下統一に邁進している。本能寺の変の後、神戸信孝(かんべのぶたか)(信長の三男)、織田秀信(ひでのぶ)三法師(さんぽうし)。信長の嫡孫)が城主となったが、関ケ原の戦いの直後に廃城となった。戦後、山頂に模擬天守閣が構築された。
安土城跡(滋賀県安土町下豊浦。交通=JR東海道本線安土駅より徒歩)

 信長が三年の歳月をかけて構築した大城郭。この地と、織田家ゆかりの津田郷(つだごう)とは指呼(しこ)の間に望む距離にあり、交通の要衝、軍事的要地でもあった。城の構造は五層七重の豪壮なつくりで、わが国最初の本格的天主閣を有していたことで名高い。本能寺の変の後、さしもの絢爛豪華な大城郭も混乱の中で焼失した。近年、考古学的な発掘が進められて、多くの成果が得られている。城跡に隣接して信長が帰依した見寺(そうけんじ)がある。また、安土町内にはセミナリオや観音寺城の跡、県立安土城考古博物館、町立城郭資料館などがある。

織田信長関係史跡(b)父祖や縁者ゆかりの寺社
織田剱神社(福井県越前町〔旧織田(おた)町〕織田。交通=JR北陸本線武生(たけふ)駅よりバス)

 織田家の系図などによると、遠祖・平資盛(すけもり)清盛(きよもり)の孫)は文治(ぶんじ)元年(一一八五)の壇ノ浦の戦いで討死。その遺児・親真(ちかざね)(親実)は越前織田(おた)荘(福井県)に移住し、織田剱神社神主の養子となって織田姓を名乗ったとされる。この地の織田家は十五世紀初頭に守護・斯波(しば)家によって尾張(愛知県西部)の守護代に任命され、尾張とかかわりを持つようになる。後年、越前を版図に収めた信長は、織田剱神社を氏神として庇護しいる。
津島神社(愛知県津島市神明町。交通=名鉄津島線津島駅より徒歩)

 古くから尾張の人々の崇敬を集めた神社。津島の地は河川舟運(しゆううん)や海運の拠点でもあり、門前は東海屈指の商業都市として繁栄する。信定(のぶさだ)(信長の内祖父)、信秀(のぶひで)は近くの勝幡城(愛知県愛西市勝幡・稲沢市六輪)を居城とした。信長も津島神社に寄進をしている。
万松寺(名古屋市中区大須三丁目。名古屋市営地下鉄上前津駅より徒歩)

 天文九年(一五四〇)に信長の父・信秀が那古野近郊に建立した寺院。信秀の死後、この寺で行なわれた法要には、信長が異様な風体で出席。亡父の位牌に香を投げつけた。境内に信秀の墓碑がある。後年、信長が鉄炮で腹を撃たれた時、万松寺で貰った餅を懐中に入れていて助かったという話が残っている。名古屋築城の頃、現在地に移転。中村(名古屋市中村区)出身の加藤清正は、万松寺に二年ほど滞在して、築城を指揮したという。
四天王寺(津市栄町。交通=JR紀勢本線津駅より徒歩)

 信長の生母・土田御前(つちだごぜん)の菩提寺。土田御前は夫・信秀の病死、嫡子・信長の本能寺の変での自刃、孫・信雄(のぶかつ)(信長の次男)の除封などといった数々の痛事を経験。やがて、伊勢安濃津(いせあのつ)城(津城/津市)主・信包(のぶかね)(三番目の息子)のもとに身を寄せる。その後、土田御前は文禄(ぶんろく)三年(一五九四)に安濃津城で病死。この寺に埋葬された。位牌が残っている。
桃巌寺(名古屋市千種区四谷通。交通=名古屋市営地下鉄本山駅より徒歩)

 寺号の桃巌寺は信秀の法名・桃巌道見(どうけん)にちなむ。信長の弟・勘十郎信勝(かんじゆうろうのぶかつ)が亡父(信秀)の菩提を弔うために建立した寺院。当初、勘十郎の居城・末森城(名古屋市千種区田代山町)の近くに建立されたが、江戸時代中期に現在地に移転した。信秀の廟所(びようしよ)がある。
政秀寺(名古屋市中区栄。交通=名古屋市営地下鉄矢場町駅より徒歩)
平手政秀の墓碑(名古屋市千種区平和公園。交通=名古屋市営地下鉄本山駅よりバス)
平手政秀邸跡(名古屋市北区志賀町。交通=名古屋市営地下鉄黒川駅より徒歩)

 天文(てんぶん)二十二年(一五五三)、信長の傅役(もりやく)・平手政秀は突如として自邸で自刃。周囲の者を悲しませた。邸跡は志賀公園で、石碑がある。信長は政秀の菩提を弔うべく、翌年(天文二十三年)に沢彦宗恩(たくげんしゆうおん)を開山として一寺を建立。寺号を政秀の諱にちなんで政秀寺とした。政秀寺は清洲城下を経て名古屋築城後に現在地に移転する。政秀の墓碑は長く政秀寺の境内にあった。戦後、市街地整備の段階で、政秀の墓石が平和公園に移転した。
円徳寺(岐阜市神田町。交通=名鉄本線名鉄岐阜駅より徒歩)

 浄土真宗本願寺派の名刹で、当時は寺内町(じないちよう)が形成されていた。天文十六年(一五四七)、稲葉山城(のち岐阜城)下に兵を進めた信秀の軍勢は、斎藤方の伏兵のために各地で敗戦。この戦いで織田信康(のぶやす)(信秀の弟)、織田因幡守(いなばのかみ)(「清洲三奉行」の一員)など、信秀方の多くの将士が討死を遂げる。討死者は一ケ所に集められて埋葬されたが、埋葬場所は織田塚(おだづか)と呼ばれた。織田塚は何度か改葬されたというが、現在は円徳寺の境内にある。慶長五年(一六〇〇)、徳川方に居城・岐阜城を攻められた織田秀信(ひでのぶ)三法師(さんぽうし)。信長の嫡孫)は開城後に円徳寺で謹慎。剃髪した上で、高野山に登った。なお、稲葉山城(のち岐阜城)を攻略した信長は、城下の南の加納(かのう)に楽市の制札を発したが、円徳寺にはそれが所蔵されている。以上のように、円徳寺は織田家とかかわりの深い寺院といえよう。

織田信長関係史跡(c)織田軍団の激闘の地
桶狭間古戦場(愛知県豊明市栄町。交通=名鉄本線中京競馬場駅より徒歩)

 永禄(えいろく)三年(一五六〇)、今川義元(よしもと)の襲来をしった信長は家臣を率いて出陣。桶狭間で休息中の義元を急襲した。義元の首は毛利新助(しんすけ)、服部小平太(こへいた)の両人が挙げた。栄町には古戦場の石碑が残る。近くの豊明市前後町(交通=名鉄本線前後駅より徒歩)には討死者を埋葬した戦人塚が、愛知県豊川市牛久保町(交通=JR飯田線牛久保駅より徒歩)には義元の胴塚がある。
設楽原古戦場(愛知県新城市竹広ほか。交通=JR飯田線三河東郷駅などより徒歩)

 天正(てんしよう)三年(一五七五)、武田勝頼(かつより)信玄(しんげん)の四男)は騎馬部隊を率いて設楽原(したらがはら)に殺到。織田・徳川連合軍は多数の鉄炮で敵方を狙い撃ちにし、大勝を収めた。一帯には討死した武田方の武将の墓碑等が点在する。決戦場から東へ四キロメートルの愛知県鳳来町長篠市場には、武田方の猛攻を凌いだ堅城・長篠城跡(交通=JR飯田線本長篠駅より徒歩)がある。
姉川古戦場(滋賀県浅井(あざい)町野村ほか。交通=JR北陸本線長浜駅よりバス)

 元亀(げんき)元年(一五七〇)に織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍とが激突した古戦場。前半は浅井方が優勢であったが、徳川方が粘り強い反撃を繰り返し、遂に織田・徳川連合軍が勝利するにいたる。川の近くに、石碑が建立されている。
小谷城跡(滋賀県浅井町須賀谷・湖北町伊部。交通=JR北陸本線河毛(かわけ)駅よりバス)

 近江(滋賀県)北部の戦国大名・浅井家の居城。元亀〜天正当時の当主・長政(ながまさ)は信長の妹・お(いち)の方(小谷の方)を正室に迎えていた。姉川の戦いで勝利した信長は、近くに砦を構築して浅井方を牽制。天正元年に浅井方の重臣が内応したのを機に、一気に小谷(おだに)城を攻撃。長政、その父・久政(ひさまさ)を自刃、討死に追い込んで、城を落城させる。お市の方と三人の娘は落城直前に脱出した。なお、長政の嫡子・万福丸(まんぷくまる)は落城後に斬られた。城跡には石碑や討死者の供養塔、堀や井戸の跡が残る。城跡に近い小谷寺(交通=同前)は浅井家ゆかりの寺で、お市の方の守り刀などの遺品を寺宝とする。滋賀県湖北町河毛(交通=JR北陸本線河毛駅前)には長政・お市の方夫妻の銅像(坐像)がある。
備中高松城跡(岡山市高松町。交通=JR吉備線備中高松駅より徒歩)

 天正十年の本能寺の変当時、信長の重臣・羽柴(豊臣)秀吉は毛利方の清水宗治(むねはる)が籠もる高松城を「水攻め」の奇策で重包囲していた。この時、秀吉方が構築した堤防は全長三キロメートルにも及んだという。宗治は変の勃発をしらぬまま、自刃。開城直後、秀吉は明智光秀と戦うべく、畿内へ急反転する(備中大返(おおがえ)し)。城跡に宗治の首塚がある。

織田信長関係史跡(d)明智光秀ゆかりの史跡
明智(長山)城跡(岐阜県可児(かに)市広見町瀬田。交通=名鉄広見線明智駅より徒歩)

 光秀の家は守護・土岐(とき)家の支流で、この地に住んで明智姓を称したといわれる。『明智軍記』によると、明智城は弘治二年(一五五六)に斎藤家の攻撃を受け、落城。これをきっかけに、光秀は各地を放浪したという。城跡には濠の痕跡が一部残っている。
愛宕神社(京都市右京区嵯峨愛宕町山上。交通=JR東海道新幹線京都駅よりバス)

 京都の西北に位置し、火伏(ひぶせ)の神として崇敬された。天正(てんしよう)十年(一五八二)五月二十七日、明智光秀は愛宕神社に参詣。(くじ)を二、三度引いたという。翌日、連歌会を催した。その時、光秀が詠んだのが、「ときは今あめが下知る五月哉(さつきかな)」の句である。光秀はこの時既に、謀叛を決意していたらしい。現在も往時の風情がそこここに残る静寂な神社である。
亀山城跡(京都府亀岡市内丸町。交通=JR山陰本線亀岡駅より徒歩)

 丹波(京都府北部)の攻略、支配を命ぜられた明智光秀が、その拠点とするべく構築した城郭。天正十年五月末、光秀はこの城から麾下の軍勢を率いて出撃。(おい)(さか)(京都市西京区大枝(おおえ))から京都に侵入し、本能寺の信長を急襲した。城郭は江戸開幕後の天下普請によって面目を一新。明治維新後、地名が亀岡と改められ、城も廃城となった。城跡は大本教本部の敷地となっているが、石垣、内堀の一部が現存している。
山崎古戦場(京都府大山崎町山崎。交通=JR東海道本線山崎駅より徒歩)

 天正十年六月十三日、明智光秀の軍勢と、羽柴(豊臣)秀吉、神戸信孝(かんべのぶたか)(信長の三男)らの軍勢が激突。光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)春日局(かすがのつぼね)の父)が巧みな用兵で敵方を苦しめたが、結局は大軍を擁する秀吉らが勝利を収めた。援軍の見込みもないことなどから、明智方は壊滅。古戦場の面影は残っていないが、天王山からの眺望は抜群で、麓には旗立松(はたたてまつ)が残る。
小栗栖・明智藪(京都市伏見区小栗栖小坂町。交通=京阪宇治線六地蔵駅より徒歩)

 六月十三日、山崎の戦いに敗れた光秀はわずかな家臣に護られて居城の一つ・坂本城を目指す。稀代の智将・光秀は途中の小栗栖(おぐるす)の竹藪で落ち武者狩りの餌食となった。世上、この藪を明智藪という。近年は造成が進み、明智藪の石柱も近くの本経寺に移された。
明智光秀首塚(京都市東山区三条通白川橋下ル東入梅宮町・梅宮神社。交通=京阪本線三条駅より徒歩)

 光秀は小栗栖で落命したが、首は家臣の手でここまで運ばれた。光秀は知恩院(ちおんいん)への埋葬を望んでいたというが、追及が厳しいことから家臣はここに埋葬したと伝えられている。

織田信長関係史跡(e)信長終焉の地とゆかりの寺社
本能寺(京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町。交通=京阪本線三条駅より徒歩)
本能寺跡(京都市中京区蛸薬師通油小路元本能寺南町。交通=京都市営地下鉄四条駅、もしくは阪急京都線烏丸駅より徒歩)

 信長は上洛時、当時は旧地にあったこの寺を常宿とし、天正(てんしよう)十年(一五八二)の本能寺の変に遭遇。自刃して果てた。本能寺跡には「(この)附近本能寺(あと)」の石碑が残るのみである。変後、現在の場所に移転して再建された。境内に信長の本廟(ほんびよう)、家臣の合葬墓がある。
阿弥陀寺(京都市上京区寺町通今出川上ル。交通=京都市営地下鉄鞍馬口駅より徒歩)

 本能寺の変で自刃、討死した信長、信忠らの遺骸は、住職・清玉(せいぎよく)の手で秘かにこの寺に埋葬されたという。墓地には信長、信忠の墓碑、父子に殉じた森蘭丸(らんまる)などの家臣の墓碑もある。寺宝には、青木加賀法印(かがほういん)奉納の信長らの木像、『阿弥陀寺過去帳』がある。
大徳寺総見院(京都市北区紫野大徳寺町。交通=JR東海道新幹線京都駅よりバス)

 本能寺の変の後、羽柴於次丸秀勝(はしばおつぎまるひでかつ)(信長の四男、秀吉の養子)が喪主となって大徳寺で信長の法要が行なわれた。のち、織田一族等の寄進で大徳寺の塔頭・総見院が建立される。墓地には一族の墓碑が並ぶが、先年、濃姫(のうひめ)のものといわれる墓碑が発見され、話題となった。
建勲(たけいさお)(けんくん)神社(京都市北区船岡山。交通=JR東海道新幹線京都駅よりバス)

 祭神は織田信長。元は信雄(のぶかつ)(信長の次男)の子孫である出羽天童藩(山形県天童市)主・織田信敏(のぶとし)が天童城内に建立した祠にはじまる。明治維新後、京都の船岡山の地に移され、大規模な造営がはじまった。社宝として太田牛一自筆の『信長公記』などを所蔵する。なお、天童市にも同名の建勲神社(交通=JR奥羽本線天童駅より徒歩)がある。
大雲院(京都市東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側。交通=京阪本線五条駅より徒歩)

 信長の帰依を受けていた僧の貞安(じようあん)が信長・信忠父子の菩提を弔うため、二条御所跡(京都市上京区下立売烏丸西入ル。交通=京都市営地下鉄丸太町駅より徒歩)に建立。二度の移転や火災による全焼などを経て、昭和四十七年に現在地へ伽藍が構築された。信長・信忠父子の供養墓がある。また、寺宝として信長の画像や遺品を所蔵している。
総見寺(名古屋市中区大須三丁目。交通=名古屋市営地下鉄上前津駅より徒歩)

 清洲城主・織田信雄(信長の次男)が父の菩提を弔うために伊勢大島(いせおおじま)(三重県桑名市)の安国寺(あんこくじ)を城下へ移し、寺号を父の院号・総見院にちなみ総見寺と改めた。江戸開幕後、名古屋築城がはじまると総見寺は清洲から現在地に移転。信長ゆかりの寺宝を所蔵する。
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