読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1272034
0
逆境に克つ! 心を強くする指導者の言葉
2
0
0
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
2章 才能と努力

『逆境に克つ! 心を強くする指導者の言葉』
[編著]ビジネス哲学研究会 [発行]PHP研究所


読了目安時間:40分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ



 大きな仕事をなしとげるためには、

 愉悦よりも労苦と心配のほうがはるかに強く長い。

 そして、そのあいまに訪れる、つかのまの喜びこそ、

 何ものにもかえがたい生きがいを人に与えてくれる


   堀越二郎

    (1903〜1982)

     零戦開発者



 堀越は一九〇三年、群馬県に生まれた。東大工学部航空学科を卒業すると、三菱内燃機名古屋航空機製作所に勤務した。ここでは零戦のほか、九六艦戦、雷電、烈風など海軍の代表的戦闘機の設計主任を務めた。

 戦後は、新三菱重工参与・技術部次長兼名古屋航空機製作所技師長、東大講師、防衛大教授を経て、日本航空学会の会長を務めた。初の国産旅客機であるYS11の設計にも参画した。

 さて、堀越の名を不滅のものにしたのが、零戦の開発である。第二次大戦中、無敵の戦闘機として活躍した日本海軍の零式艦上戦闘機である。当時の海軍から示された性能に対する要求は、不可能としか思えないくらいに苛酷な性能だった。現場の誰もが、「そんな超高性能機を、短期間に完成させられるはずがない」と感じていた。しかし、実現すれば世界最強の戦闘機ができるのもわかっていたのである。その思いを胸に、堀越は設計作業に精魂を傾けた。さまざまな模型による実験や、試作機による試験が繰り返された。

 こうして完成した零戦が前線に登場したとき、その神秘的なまでの強さは、敵のパイロットを恐怖のどん底に落としたという。

 当然、打倒零戦を目指して、アメリカは続々と新手をくりだした。それに対して、零戦は改造されながら奮闘した。しかし、終戦間近には物資の不足、パイロットの不足、そして後継となる新機の開発の遅れのために苦戦を強いられて、つぎつぎと散っていったのである。

 堀越の言葉は、競争に明け暮れる現代のビジネス人に対しての大いなる励ましである。とりわけ技術の世界では、ライバルに先を越され、悔し涙にくれることもある。それが技術屋の宿命といえるかもしれない。

 しかし、堀越は、「厳しい仕事の間の、ほんのわずかな喜びを生きる糧にせよ」と教えているのである。



 汗をかけばかくほど、

 ますます幸運になるものだ


   レイ・クロック

    (1902〜1984)

     マクドナルド創業者



 レイ・クロックは、一九〇二年にイリノイ州オークパークで生まれた。ピアニスト、セールスマンなどさまざまな職を転々とした後、五種類のミルクセーキを同時に作ることができるミキサーの独占販売権を取得して、全米を売り歩き始めた。このミキサー販売は比較的順調で、彼は一七年間もこの仕事をやり続けたのである。

 一九五四年、クロックはマクドナルド兄弟が経営するハンバーガーショップを訪れた。そして、その効率的な販売方法に惹かれ、フランチャイズ店を出す許可をもらった。翌年には、イリノイ州デスプレーンズに第一号店を出店したのである。

 売り上げは思った以上に順調で、フランチャイズ店は次第に増えていった。一九六一年にはマクドナルド兄弟から商権を二七〇万ドルで買い取り、一九六五年に株を公開。それから二〇年で、全世界に八〇〇〇以上の店舗を開いたのだった。
「棚からぼた餅」という言葉がある。思いがけない幸運が巡ってくるというたとえだが、こんなことは滅多にあるものではない。いや、ないと断言してもいいだろう。

 何かを得たいのなら自分自身で動かなければならないのは当然である。たとえば、宅建主任の資格が取得したいと思ったら、参考書と問題集を買い、試験に向けて勉強するだけでなく、合格者の話を聞いて回るような努力をしなければならない。
「努力したところで不可能だから、やらないんだ」と諦める人は多い。しかし、政治思想家のマキャベリは次のように語っている。
「運命は女神である。彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突き飛ばされる。ところが、運命は、冷静な対応をする人よりもこんな人の言いなりになりやすいものだ」

 不可能と思っても、がむしゃらに努力していれば、女神(運命)はきっと微笑んでくれる。この言葉を残したレイ・クロックも、汗をかきながら全米を歩いたからこそ、マクドナルド兄弟に出会うことができた。無意味と思えるような努力でも、その先に思いがけない幸運が待っているかもしれない。



 人間としての基本は、

 自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとることである


   マーガレット・サッチャー

    (1925〜)

     イギリス史上初の女性首相


「鉄の女」の異名をもつマーガレット・サッチャーは、一九二五年にイングランド中東部のグランサムという町で生まれた。旧姓はロバーツといい、父のアルフレッドは市長を務めたこともある名家だった。

 名門オックスフォード大学で化学を学んだサッチャーは、一九四七年に卒業して化学工場の研究所に就職。だが、大学時代から行っていた政治活動を本格化させるために退職し、一九五〇年の総選挙に保守党から立候補。このときは落選という苦渋を味わった。

 その翌年の一九五一年に実業家のデニス・サッチャーと結婚すると、家庭生活のかたわら法律を学び、一九五四年に税務・特許法を専門とする弁護士の資格を取得。一九五九年に再び下院議員選挙に挑戦して当選を果たした。

 その後、ヒース内閣の教育科学相を務めると、一九七五年の党首選挙で、そのヒースを破って保守党党首に就任。一九七九年の総選挙で「イギリス経済の回復」を公約にして勝利。イギリス史上初の女性首相となったのである。

 当時、イギリスは手厚い福祉政策のために国際競争力を低下させていた。いわゆるイギリス病である。サッチャーは公共投資の削減、労働組合の影響力除去、所得税の低減などさまざまな政策を強行した。これらの政策は、貧富の差を拡大したという非難も受けた。だが、自分の信念を貫いた結果、イギリスは財政赤字を克服し、再び国際競争力を得たのだ。

 また、フォークランド諸島がアルゼンチン軍に占領された際には、素早く軍隊を派遣してアルゼンチン軍を撤退させた。

 自分で考え、行動する……ここまではほとんどの人ができるはずだ。だが「責任をとる」というところまでできる人はそう多くはない。

 プラスだけではなくマイナス面の責任も受け入れる――この考えだったからこそ、サッチャーは人々に支持されたのだ。大いに見習いたい言葉である。



 一人の天才がいても駄目だ。

 凡人でも力を合わせれば成功できる


   久米是志

    (1932〜)

     本田技研元社長



 久米是志は、一九三二年に兵庫県で生まれた。静岡大学工学部卒業後に本田技研に入社し、主にエンジンの設計をしてきた。気骨ある人物としても知られており、新車の開発時に本田宗一郎に反発して辞表を叩きつけ、出社を拒否したこともあった。

 だが、久米の名を有名にしたのは、ホンダが自動車メーカーとして躍進するきっかけとなった初代シビックのプロジェクトリーダーとなり、さらにCVCCエンジンの開発をしたことだろう。これは当時「世界で最も厳しい」とされたアメリカの排出ガス規制をクリアしたエンジンで、世界中の自動車関係者の度肝を抜いたのである。

 自動車のプロジェクトリーダーは、たくさんのエンジニアの考えをまとめ上げるのが仕事だ。エンジニア一人一人の才能や技術力、そして人間性までも見抜かなければならない。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:16900文字/本文:19904文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次