一円刻みでものは考えなければならない。
一円ですよ、勝負は
鈴木修
(1930〜)
スズキ会長兼CEO
鈴木修(旧姓は松田修)は一九三〇年に岐阜県下呂町(現在の下呂市)で生まれた。一九五三年に中央大学法学部を卒業すると中央相互銀行(現在の愛知銀行)へ入行。一九五八年にスズキの二代目社長の鈴木俊三の娘婿となり、スズキへ入社。一九七八年に代表取締役社長に就任し、二〇〇〇年から代表取締役会長兼CEOを務め、それから三〇年以上にわたってスズキの経営を指揮し、見守ってきた人物である。
「日本を代表する自動車メーカーの社長が、たかが一円に目くじらを立てるなど、なんとケチ臭い」などと思ったら、すぐにその考えを正すべきだ。日本を代表する自動車メーカーの社長だからこそ、一円の大切さ、恐ろしさを知っているのである。
現在、スズキの従業員数は関連会社を含めると五万人以上。もし、この全員が一円の浪費をしたら、一日五万円、一年ではなんと一八二五万円もの金をドブに捨てることになる。一円なら「たかが」といえるかもしれないが、一八〇〇万円となれば「たかが」といえるだろうか。
会社の従業員にとっては、気前のよい経営者の方が喜ばしいものだ。しかし、社会という単位で見ると、気前のよい経営者はやがて自滅することになる。
一度気前をよくしてしまうと、(経費や接待費の金額や給料の査定などを)後から厳しくするのは至難の業である。高待遇に慣れた従業員は不平を言い、優秀な人材は離れていく。こうなれば、会社が今まで通りのような業績をあげ続けることができるか、大いに疑問である。
だが、不平や離職を阻止しようとすれば、会社の経営状態は確実に悪くなる。つまり、ひとたび気前をよくしてしまったら、待っているのは経営の地獄ということだ。
目先の評判がほしいという気持ちはよくわかる。しかし、経営に関わる立場となれば、それだけは絶対にやってはいけないのである。
計算できない人もだめだが、
計算ばかりやっている者もだめだ
伊藤雅俊
(1924〜)
イトーヨーカ堂創業者
伊藤雅俊はイトーヨーカ堂の創業者。流通大手の創業者の言葉とは思えないものだが、それにはイトーヨーカ堂の成り立ちと、伊藤が商売の師と仰いだ母・ゆきと兄・譲の存在が大きいようである。
イトーヨーカ堂は、一九二〇年に伊藤雅俊の叔父・吉川敏雄が浅草に開いた「羊華堂洋品店」がルーツになっている。この羊華堂洋品店が大繁盛して店舗を三つに増やし、そのうちの一店を雅俊氏の兄・譲が切り盛りしていた。
市立横浜商業専門学校(現在の横浜市立大学)を卒業した雅俊は、商売にはまったく興味を示さず、三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)に就職した。その後、陸軍幹部学校に入校し陸軍士官を目指したが、敗戦を迎えたため三菱鉱業に復帰したのだった。
羊華堂洋品店は空襲で焼けてしまったものの、ゆきと譲は戦後すぐに足立区で商売を再開。その翌年、雅俊も店を手伝うようになった。業績が右肩上がりになっていく中で、譲が体調を崩し、雅俊が社長に就任(一九五六年)。そして、一九七一年に社名を現在の「イトーヨーカ堂」に改称した。雅俊は後年、次のように語っている。
「母と兄は、私にとって商人の鑑であり、師であり、商人の道、人の道を教えてくれた。『お客様は来てくださらないもの』『お取引先は売ってくださらないもの』『銀行は貸してくださらないもの』という商売の基本を教えてくれたのも母だった。だからこそ、いちばん大切にしなければならないのは信用であり、信用の担保は人間としての誠実さ、真面目さ、そして真摯であること」
商売にソロバン勘定は不可欠である。だが、ソロバン(お金)だけでは誠実さや真面目さは得られない。それを得るためには、やはり人間関係を大切にすることが欠かせない。どの企業も生きるか死ぬかの瀬戸際にある現在だが、誠実さや真面目さを捨ててまで生き残ろうとするのは、果たして正しいことなのだろうか。そんなことを改めて思い返すきっかけになる言葉ではないだろうか。