人は咎むとも咎めじ。
人は怒るとも怒るまじ。
徳川光圀
(1628〜1700)
水戸藩主
常陸国の初代藩主徳川頼房の三男として生まれたのが徳川光圀、いわゆる水戸黄門である。のちに讃岐の高松藩主となる兄頼重をこえて、二代藩主となる。
九〇年に家督を頼重の子に譲った後、同国久慈郡新宿村に西山荘を建て隠居した。光圀は、将軍綱吉の政治、とりわけ「生類憐みの令」などに大きな不満をもった。そのため諫言を試みたが、かえって綱吉の怒りを買い、隠居に追い込まれたともされる。
三〇年にわたる施政にも、領民の生活改善や殖産興業に努め、幕府に先駆けて殉死を禁止し、藩士の規律、士風の高揚をはかる一方、藩内の寺院整理を行い、隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなどしたのである。
藩主になる前の五七年、江戸駒込の中屋敷に史局(のちの彰考館)をおき、『大日本史』の編纂に着手。早くから名君の聞えが高く、のちに「水戸黄門漫遊記」が創作された。諸国を歩いて、悪代官を懲らしめるという漫遊記は、一〇〇%、芝居やテレビの創作である。
では、なぜ光圀が諸国を歩いたことになったのか。それは『大日本史』の編纂と深い関係がある。光圀は、学問、歴史に深い理解と興味を示し、『大日本史』を編纂したが、その史料を集めるために、家臣たちに全国を歴訪させたのだ。その家臣の動きが、光圀のイメージに直結した。そして、後世になって、黄門さま自身が諸国を歩くという伝説を生み、漫遊記というフィクションに育ったのではないかと考えられる。
「人はとがめたとしても、とがめないように。人は怒るかもしれないが、怒らない」という教えは、一見、やさしいようだが、実はなんとも難しい。つい文句を言いたくなるのが人間だ。そして文句を言えば、言う方も言われる方も不愉快になる。
この言葉には続きがある。「怒りと欲とを捨ててこそ、常に心は楽しめ」である。
怒りだけではない。さまざまな欲を忘れることが、心を楽しませ、心をおだやかにすることにつながるのである。
もし、会社に何か誤りがあったら、
たとえ仕事を失うことになっても、
はっきり言ってほしい
サミュエル・ゴールドウィン
(1882〜1974)
MGM創業者
サミュエル・ゴールドウィンは、ポーランドのワルシャワで生まれた。一八九六年にアメリカへ渡った彼は、一九〇二年に市民権を獲得した。
当時、アメリカの映画産業は黎明期を迎えており、毎週のようにあちこちの映画館で新作が上映されていた。映画好きのサミュエルは、そのほとんどを見ていたという。そして、その映画好きが高じて、友人たちとともにジェシ・L.ラスキー・フィーチャー・プレー社という映画制作会社を設立。ハリウッドで制作された最初の長編映画「ザ・スコー・マン」(一九一四年)の監督・プロデュースにあたり、大ヒットに導いた。
その後、ジェシ社はゴールドウィン・ピクチャーズ社を経てメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)に名前を改めた。だが、彼は数年後にMGMを退社。
フリーになった後も、サミュエルは「嵐が丘」「西部の男」「虹を掴む男」など数多くの名作をプロデュースし、ハリウッドには欠かせない人材となった。それらの功績によって、二度もアカデミー賞を受賞している。
サミュエルの言葉は、一見すると「経営者がよく口にする言葉」のように思えるが、誤りを正すことができない会社であれば先は見えているし、素直に誤りを正すことができる会社なら、指摘した者をクビにするなどということは絶対にないはずだ。
食品偽装や贈収賄事件が多発している。後に従業員に聞くと、「その事実を知ってはいたが、内部から告発することはできなかった」と答えるケースが多い。たしかに、内部告発をするのは勇気が要ることだ。だが、職を失うことを恐れるあまり沈黙し続けていると、問題が大きくなりすぎて会社自体がなくなってしまうこともある。
多くの人は「自分一人が黙っていても、大勢に影響はない」と考えやすいが、それは間違っている。悪だくみや過ちというのは、どこからともなく漏れていく。人に正される前に自ら正すのが企業としての責任である。
かけがえのない人間になるためには、
他人と違う必要がある
ココ・シャネル
(1883〜1971)
シャネル創業者
ココ・シャネルは、一八八三年にフランスのロワール河岸のソミュールという町で生まれた。