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逆境に克つ! 心を強くする指導者の言葉
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ルポ・エッセイ
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5章 帝王学

『逆境に克つ! 心を強くする指導者の言葉』
[編著]ビジネス哲学研究会 [発行]PHP研究所


読了目安時間:31分
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 まず決意せよ


   大槻文平

    (1903〜1992)

     三菱鉱業セメント元会長



 大槻文平は、宮城県丸森町で生まれた。一九二八年、東京帝国大学法学部を卒業した大槻は高級官僚への途を歩もうと考えていた。だが、三菱からも合格通知を受け取ったことで、大いに悩んだという。

 当時、三菱に幹部候補生として入社できるのは強力なコネを持っている学生だけで、大槻にはそれがなかった。にもかかわらず合格通知が来たということは、個人的に期待されているに違いないと考えたのである。

 悩んだ末、三菱に入社した大槻が配属されたのは三菱鉱業。石炭の採掘や精錬などの会社のため、大槻は全国の炭鉱を転々としながら労務畑を務め続けた。

 彼は、石炭不況による炭鉱合理化の際には、積極的に人員削減を行った。そのため「首切り文平」と呼ばれたほどだった。

 常に従業員と会社の間にはさまれながら、厳しい立場に立ち続けた大槻だったから、「公務員になっていれば霞ヶ関でふんぞり返っていられた」と思ったことも何度もあったという。

 昭和一六年、北海道美唄炭鉱で大きな炭鉱事故がおきた。そのときに勤労課長だった大槻は、本社の指示を待たずに弔慰金を払うように奔走した。当時としては、一課長の職分を超えた行為だった。組織の中では許されることではない。しかし、これにより、「三菱に大槻あり」と後々まで語られたという。
「自分が会社を支えるのだ」という精神が、大槻の底力になっていたのだろう。彼は、若くして、「将来、必ず社長になってやる」と決意していたという。
「社長になってやる」などと、口にするのもはばかられると考える人は多いはずだ。しかし、口にしなければ始まらないという考え方もある。大槻の行動力の源は、まさにこれだったのだろう。



 手綱をゆるめてゆうゆう乗っていると、

 馬は狭く暗いあぜ道を平気で歩いていく。

 乗り手が動揺して手綱を引くと、

 人馬もろともころげ落ちる。


   佐橋滋

    (1913〜1993)

     元通商産業事務次官



 佐橋は岐阜県の出身。東海中学、第八高等学校(旧制)を経て、東京帝国大学法学部を卒業し、一九三七年に商工省(現在の経済産業省)に入省した。

 重工局次長時代は、公取に鉄鋼各社による価格カルテル導入を認めさせた。また、IBMに国内生産の代償として特許を公開させたように、大いに保護主義政策を推進した。以後、重工業局長や企業局長を歴任したが、通産省を代表するような発言が多く、「ミスター通産省」と呼ばれた。

 一九六三年に特許庁長官に就任。これは、いわゆる「次官レース」に敗れたことを意味し、事務次官への就任はないと見られた。しかし、翌一九六四年に通産事務次官に異例の就任をする。事務次官への就任後も、たびたび省を背負ったような姿勢を見せたため、次官にありながら「佐橋大臣」とマスコミに呼ばれることもあった。

 退官後は、さまざまな天下りの誘いを断って、余暇開発センター理事長に就任した。佐橋は、高官にありがちな政財界とのパイプを嫌っていたため、政財界との関係はほとんどなくなったといわれている。

 彼には強いリーダーシップがあった。明晰な頭脳、前例にとらわれない大胆さ、そして「親分肌」で後進の指導をよくし、退官後は政界にも財界にも残らずに潔く引退した。このような従来の官僚像と異なるイメージは高く評価されている。作家・城山三郎は小説『官僚たちの夏』の中で、彼を主人公のモデルにしている。

 すぐれたリーダーは、困難に直面してもビクともしないものだ。佐橋の言葉にも見られるように、リーダーが自信を失って不安になると、下の人間はまとまりを失う。反対に、リーダーが落ち着いて指揮を執れば、下の者はあわてずに行動できる。「名将の下に弱卒なし」といわれるゆえんである。リーダーは乗り手として馬を扱うように、部下を統率しなければならないのである。



 順境とか逆境とか、貧富とかいうことを苦にするとせぬは、

 畢竟目的が定まって居るか居ないかに在る


   犬養毅

    (1855〜1932)

     29代内閣総理大臣



 犬養毅は一八五五年、現在の岡山市(備中国庭瀬藩)の藩士の次男として生まれた。慶應義塾大学在学中、西南戦争に従軍記者として派遣。抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃したというスクープ記事を配信したのは、この犬養だといわれている。

 西南戦争終結後は東海経済新報の記者、統計院権少書記官などを経て一八八二年に大隈重信が結成した立憲改進党に入党した。立憲改進党では、地租(土地に関する収益税)軽減などを主張して大同団結運動などで活躍し、一八九〇年に行われた第一回衆議院議員総選挙で当選。その後、一九回連続して当選し、四二年間も議員として活動した。ちなみに、この記録は尾崎行雄に次ぐものである。

 一八九八年の第一次大隈内閣で文部大臣となった犬養は、護憲運動の先頭に立つようになり、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれた。その後、第二次護憲運動の結果成立した第一次加藤高明内閣で逓信相を務めたものの、政治活動に限界を感じて引退を表明。しかし、支持者たちはそれを許さず、勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させてしまったのである。

 政界からも復帰を乞われた犬養は、一九二九年に第六代立憲政友会総裁に就任。台頭しはじめた軍部勢力の圧力に抗えず、一九三〇年に浜口雄幸内閣が締結したロンドン海軍軍縮条約を統帥権の侵犯だとして議会で攻撃した。

 一九三一年一二月に若槻禮次郎内閣が崩壊したことを受け、反対党の総裁だった犬養が内閣総理大臣に就任。
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