『広岡浅子 気高き生涯 明治日本を動かした女性実業家』
[著]長尾剛
[発行]PHP研究所
別れ
日本女子大学校の創設年(明治三十四年)の入学生は、五一〇名を数える。
北は北海道から南は鹿児島まで、日本中の意欲あふれる女性たちが集った。中には、既婚者やもと社会人だった女性もおり、年齢層も幅広かった。
教員は、成瀬が選りすぐって採用した五〇名がそろった。が、浅子はその中には、入っていない。彼女はあくまでも実業家であり、日本女子大学校の最高の支援者ではあっても、教師ではなかった。
五十代半ばにあって、むしろ浅子は学生の側だった。「他人に教える」よりも「自らが学ぶ」ことに、彼女は熱心だった。
『七十になる迄』には、そんな浅子の当時の様子が、次のように語られている。
この間に東上の折はいつも女子大学校に遊び、青年女子とともに校長の実践倫理を学び、また頭脳開拓のため科学の必要を感じ、時あれば長井博士その他二、三の師について学び、なお読書して修養を務め、ひたすら我が身の進歩をも計りました。
(『七十になる迄』「女子大学校の発起者となる」より)
浅子の向学心に燃える生き生きとした姿を、彷彿させる。
ちなみに、引用文中にある「長井博士」とは、日本の近代薬学を切り開いた薬学者の長井長義(一八四五~一九二九)である。
長井は、当時世界的な薬学の権威で、帝国大学医学部の教授も務めていた。女子教育にも理解があり、日本女子大学校の設立にも協力している。
その後も日本女子大学校は順調に発展し、明治三十七年(一九〇四)には、財団法人となる。当校は、こんにちに至るも日本の女子教育をリードしている大学の一つである。
なお、余談だが、日本女子大学校の創設時よりこんにちまで、当校の中核となっている伝統の学部が「家政学部」だ。
家政学とは、女性が家庭の中心的な役割を担うための知識教養を学ぶ学問で、具体的には、教育・食物・家政経済などが研究対象となる。つまりは、夫に隷属する女性ではなく、「家長」的役割を担う女性を養成することが趣旨の学問だ。まさに成瀬の掲げる「賢母良妻」を目指したジャンルと言える。
したがって、その趣意を大きく捉えるならば、家政学は、「家庭に閉じこもる女性」ではなく「社会に向かって『賢母』的役割を果たす女性」を育てる学問であろう。
それから、余談をもう一つ。
成瀬は、当校を堂々と「大学校」と名乗っていたが、法的には当時「大学」と呼んでいいのは帝国大学だけで、あとの私学校は、あくまでも「専門学校」という種類なのだ。帝国大学以外の高等教育機関が法的に「大学」となれるのは、大正八年(一九一九)施行の「大学令」、さらには昭和二十二年(一九四七)施行の「学校教育法」によって認可されてのちの話である。
こうして、成瀬仁蔵との協力によって「日本の女性に高等教育の門戸を開く」という大きな夢を果たせた浅子。
本業のビジネスのほうも順調。娘の亀子は母親ほどには向学心はないものの、気立てがよく親孝行者で、母娘の関係も円満。娘婿の恵三は、才覚があり誠実な人柄で、広岡家をよく守り立ててくれている。
言ってみれば、この頃の浅子には「人生の憂い」というものが、なかった。
だが、そんな彼女にも、辛い運命が待ち構えていた。
明治三十七年(一九〇四)六月、夫の信五郎が死去したのである。
浅子の新たな道
「いよいよ、あかんな。浅子はん。どうやら先に行くことになりそうや。かんにんやで」
病床の中で、信五郎はなおも穏やかに、浅子へ優しく声をかけた。
浅子はじっと信五郎の目を見ている。いつもと変わらぬ涼しげな目である。死への恐怖を感じさせない。
「旦那はん。もちっと気張れまへんか? まだ六十四でっせ。オシマイにするには早すぎるやおへんか」
知らず浅子の目に涙があふれた。悲し涙。悔し涙。それから、信五郎への愛しさが浮かべる涙であった。
「いや。人生に早いも遅いも、ないで。人生は何がでけて、何を残せるか。──や。
芸事もたくさんでけた。楽しかった。
後れ馳せながら、商いの真似事もでけた。紡績業のほうは、仲間があんじょうやってくれるやろう。何の心配もない。
亀子もええ子に育ってくれた。ええ婿も来てくれた。
それに成瀬先生のおかげで、浅子はんの夢の手伝いがでけた。こんな嬉しいことはないで」
「……けど……」
浅子は言葉が見つからない。しかし、迫り来る信五郎の死を、なぜか落ち着いて受け入れられそうな自分がいるのが、不思議だった。
「ありがとな。浅子はん。日本一のご妻女さまや」
こう言い残すと、信五郎は静かに息を引き取った。享年、六十四。
「おつかれ様でこざいました」
浅子は、息を引き取った信五郎の手をつかむと、それを自らの頬に引き寄せた。
「お父ちゃん!」
傍らの亀子はワッと泣き崩れ、恵三の胸に抱きついた。恵三は黙って亀子を抱きしめた。
葬儀は、広岡財閥の名に恥じぬ盛大なものだった。明治時代初期に没落しかけたことが嘘のような、こんにちの広岡家の繁栄。そのさなかで没した信五郎は、何の心残りもなくこの世を去ることができた。
仏壇の前で手を合わせながら、浅子はこれまでの自分のビジネスについて、心静かに振り返っていた。
明治の初年頃、二十歳になったばかりの浅子は、傾きかけた広岡家の「加島屋」を持ちこたえさせるため、必死になって奔走した。
そして、かろうじて加島屋が生き残れたあと、明治十九年(一八八四)頃から、炭鉱開発に乗り出した。当初はなかなかうまく採掘できず、あきらめかけた事業。けれども、これまた必死の努力で成功へと導けた。
明治二十一年(一八八八)には、銀行業へも手を広げた。「加島銀行」を創設し、この国の金融の一助を担うことができた。
また、信五郎が仲間と尼崎紡績を立ち上げたのは、その翌年の明治二十二年(一八八九)である。陰ながらできる限りの手伝いもした。
そして成瀬と出会って三年後の明治三十二年(一八九九)に、生命保険会社「朝日生命」を始めた。人々の健康を守り、死後の不安を少しでも取り払う手助けをするためだった。
そんな中、日本女子大学校設立のため、財界の有力者たちへの働きかけにも走り回った。そのおかげもあって、明治三十四年(一九〇一)には、日本女子大学校が開校した。
さらに、その翌年の明治三十五年(一九〇二)、別の中堅二社の生命保険会社との合併を成功させて、「大同生命」を立ち上げることができた。
「いろいろありましたな。旦那はん……」
浅子は、位牌に語りかけた。
「うち、これから、どないしまひょ……」
もちろん、これからもビジネスの第一線で働き続け、広岡財閥をもっともっと繁栄させる。──という道も、ある。それがもっとも安泰で、もっとも浅子の才覚を発揮できる道であろう。
「……けど、もうそろそろ、うちも自分の楽しみのために生きても、ええんちゃいますか。なあ、旦那はん。
旦那はんは、ようけお稽古事を楽しみなはったやおへんか。うちかて、ちょっとくらい楽しみたいんどす」
浅子の楽しみ。
それは「学ぶこと」だった。そして、この国の女たちに、自分と同様に「学ぶ楽しさ」を伝えることだった。
さらには、学んだ女たちを、自分同様に伸び伸びと世の中へ送り出してやることだった。
「ね。うち、それ、やりますよってに。旦那はんも、言うてたやおへんか。『人生、何がでけて、何を残せるかや』て。
炭鉱も銀行も生命保険も、確かにうちがやった仕事や。けど、うちは、この国の女子たちのために、何かやりたい。何か残したい」
浅子は、決意を固めた。
その数日後。
「なんでしょうか。お義母さん」
浅子は、恵三を呼び出した。いつになく神妙な面持ちの浅子を見て、恵三も、ただならぬ浅子の気持ちを察した。
「恵三はん。うちは、広岡の仕事から一歩引かさしてもらいます。あとのことは、任せますよってに、あんじょうやっておくれやす」
これには、恵三も驚いた。
「え……。それは、その、どういうことで……」
「どうもこうも、言うたとおりだす。もう商いばっかしの生き方とは、サヨナラや。うちは、他にやりたいことがあるんどす。広岡の商いのこと、どうかよろしゅうお頼み申します」
浅子はこう言うと、恵三に頭を下げた。
しばしその姿を見つめていた恵三は、強い口調で答えた。
「わかりました。及ばずながら、広岡家の事業は、私が正秋さんと一緒に守らせてもらいます。どうかお義母さんは、何もご心配なさらず、お好きになさってください。私でも何かお義母さんのお役に立てることがあれば、どうか何でもおっしゃってください」
「おおきに」
浅子はニコリと笑みを見せると、また頭を下げた。
こののち、浅子は以前にもまして、上京し日本女子大学校に通う日が増えた。学籍はないが、成瀬の計らいで当校で学ぶことができた。さまざまな講義に出席したり、一人学校の図書館で日がな一日読書にいそしんだ。
また、浅子のビジネスでの活躍は関西圏を中心に全国津々浦々にまで鳴り響いていたので、彼女にエッセーや時事評論の執筆を頼んでくる雑誌も、多かった。これらは、信五郎の生前からあったことだが、浅子がビジネスの第一線から退くや、急に増え出した。
当時は、女性向け雑誌の創刊ラッシュだった。その一方で「女性的視点」から時事を論ずることのできる書き手は少なかったから、浅子は引っ張りだこだったわけである。
ちなみに、当時の主だった女性雑誌を見てみると、
明治二十年(一八八七)、『日本之女学』『貴女之友』創刊。
明治二十四年(一八九一)、『女鑑』『女権』創刊。
明治三十六年(一九〇三)、『家庭雑誌』『家庭の友』創刊。
明治三十九年(一九〇六)、『婦人世界』創刊。
そして明治四十四年(一九一一)には、あの『青鞜』が創刊する。
浅子は、依頼を片っ端から引き受け、寝る間も惜しんで筆を走らせた。目指す「女性の学問の自由と自立」について、筆で世間にアピールしたかったのだ(ただし、浅子のこれらの文章は、書籍としてまとめられることはなかった)。
その一方、やはり「自らの身体を張って活動したい」といったアクティブな願いも強く、社会貢献にも積極的に乗り出した。「損得抜きで人の役に立つ仕事」というものに、浅子は新鮮な喜びを覚えた。
浅子は、「愛国婦人会」に入会した。
すると、会は浅子を大いに歓迎し、彼女の実業界や日本女子大学校への貢献を高く評価して、浅子を「大阪愛国婦人会」の責任者に抜擢した。
愛国婦人会
さて、ここで「愛国婦人会」について、簡単に説明しておかねばなるまい。
愛国婦人会は、明治の婦人活動家である奥村五百子(一八四五~一九〇七)が、明治三十四年(一九〇一)に創設した全国的な女性の団体である。当時は、戦没将兵の遺族や廃兵への救援を目的として、活動していた。
明治二十七年(一八九四)の「日清戦争」、明治三十三年(一九〇〇)の「義和団事変」への参戦、明治三十七年(一九〇四)の「日露戦争」と、当時の日本はいくつもの戦争を経験していた。そして、戦地へ赴いて非業の死を遂げた兵士の遺族や、大怪我を負って帰国したもと兵士などが、巷にあふれていた。
奥村は女性ながら、元もとが幕末の頃に尊皇攘夷運動に身を投じていたほどの活動家であった。義和団事変の時には、慰問団の一員として自ら戦地に赴いた。そして、帰国後に愛国婦人会を立ち上げた。
愛国婦人会は、日本女子大学校の創設委員も務めた公爵の近衛篤麿が、全面的にバックアップした団体でもある。その縁もあって、浅子は入会したのだ。
当時は、皇族や家格の高い家柄の婦人、富裕層の婦人らが中心メンバーで、活動資金は彼女らの高額の寄付によってまかなわれていた。