『ビッグクエスチョンズ 脳と心 (THE BIG QUESTIONS)』
[著]リチャード・レスタック
[翻訳]古谷美央
[発行]ディスカヴァー・トゥエンティワン
女優エレン・バースティンが、ジャーナリストであるジョナサン・コットとの対談において、感覚と感情との関係について述べている。彼女は深い悲しみを表現するシーンを演じる準備をしていたときのことを話した。「直接的にアプローチするなら、実際に深い悲しみを味わったときのことを思い出せば、感情もよみがえってくるわ」。
一方で、感覚からその経験にアプローチしても、やはり感情は立ちあがってくるという。「私はそのときに着ていた服のことを思い描いて、その服を指先で触った感触を感じることができるかやってみるの」。そして、そのときにいた部屋のこと、窓の位置、彼女のほおに当たる光の向き、そして部屋の匂いまでも思い出そうとする。「私はすべての感覚を一とおり復習するの。見聞きしたものもすべて」。
この方法では、記憶と感情は感覚から生まれる。「感覚の記憶を作れば、感情の記憶もついてくる。最初に感覚の記憶さえ作ればよくて、そこから感情の記憶が出てくるのよ」。
ここでは、バースティンは感覚を使って自己の過去の経験とのつながりを再構築する方法について語っているが、もう一歩踏み出せば、自分の感覚をもとに他者の経験を感じることも難しいことではない。
「思いやり(compassion)は、他の人の立場に立ち、彼らが感じるように感じられる能力のこと。」と、バースティンはこの話の中で「思いやり」についても語っているが、この考え方は共感にも当てはまる。誰かの「靴を履いて」(訳注:「相手の立場に立って考える」という意味の慣用表現。“put yourself in someone’s shoes”)、彼らの感覚を経験するというわけだ。彼女が指摘するように、共感体験をより鮮やかなものにするのは、自分の感覚だ。
感覚と知覚は似たもの同士にみえるが、微妙に違う。感覚というのは、感覚器を用いて情報を受け取ることを指す。一方知覚は、私たちがその感覚情報を解釈することである。
天気のよい夜に星を見あげれば、私たちの目は、はるか彼方の星々からはるか昔に放たれた光の波を感じる。しかし、私たちがその経験を「星を見ている」と解釈したとき、これは知覚になる。感覚は現在進行形だが、その対象物を私たちが知覚した結果、それが数光年先から届いているものであることを理解できるのだ。
さらに言うと、感覚は、私たちの興味や経験に応じて決まる、ただ一つの知覚をもたらすことができる。たとえば、ワイン愛好家やプロのミュージシャンは、下戸や音楽の素人は気づかない、味や音の「調子(note)」や複雑さを知覚できる。
そうはいうものの、感覚と知覚は常に簡単に区別できるようなものではなく、ときに混じり合い、明確な区分けを不可能にする。