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実録・銀行 トップバンカーが見た 興亡の60年史
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経済・金融
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第2章 オイルダラー争奪戦 ― 石油ショックで成長に急ブレーキ

『実録・銀行 トップバンカーが見た 興亡の60年史』
[著]前田裕之 [発行]ディスカヴァー・トゥエンティワン


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1971~1984年の重要な出来事


 

1971年8月 ニクソン・ショック=ニクソン米大統領、ドル防衛のための経済緊急対策を発表、金とドルの交換を停止

1971年10月 第一銀行と日本勧業銀行が合併し、第一勧業銀行が誕生

1971年12月 スミソニアン協定=米ドルへの固定レートを変更、1ドル=360円を308円に切り上げ

1973年1月 ベトナム和平協定調印

1973年3月 為替の変動相場制が開始

1973年10月 第4次中東戦争開始

1973年10月 第1次石油ショック=アラブ石油輸出国機構(OAPEC)、原油生産の削減と公示価格の引き上げを決定

1974年6月 西独、ヘルシュタット銀行の営業停止

1976年1月 キングストン合意=金とドルとのレート固定を撤廃

1978年12月 第2次石油ショック=石油輸出国機構(OPEC)、原油価格の引き上げを決定

1981年6月 大蔵省、「銀行行政の自由化、弾力化」を発表(配当、広告、国際業務の規制緩和)

1982年8月 メキシコが対外債務危機

1984年2月 第1回「日米円・ドル委員会」開催

1984年5月 米金融当局と民間銀行、米コンチネンタル・イリノイ銀行への救済措置を発表

1984年5月 大蔵省、「日米円・ドル委員会報告」と「金融の自由化と円の国際化についての現状と展望」を発表


 


解説


 

高度成長期は、ニクソン・ショックと第1次石油ショックという2つのショックを契機に終焉し、日本経済は年率5%程度の安定成長期へと移行する。

1960年代後半から日本の国際競争力は高まり、経常収支の黒字が定着した。対照的に米国では経常赤字が続き、ドルに対する信認が揺らぐ。1971年、米国は金とドルの交換を停止し、ドルの固定相場制を放棄した(ニクソン・ショック)。

さらに、1973年、第4次中東戦争を引き金とする第1次石油ショックは、石油を輸入に依存する日本に大きな影響を与え、物価急騰、景気後退、経常赤字を引き起こす。金融引き締め政策や一部品目の価格統制で物価は落ち着きを取り戻し、1975年には景気が回復した。

第1次石油ショックの後、省資源・省エネの経済構造を築き上げた効果もあり、第2次石油ショックの影響は第1次ショックのときほど大きくなかった。国内市場の成長力が弱まる中で、日本企業は輸出を増やすとともに、海外での現地生産、現地販売も拡充する。海外での資金需要が増え、邦銀は海外に進出した日系企業への融資を増やしていく。

一方、欧米の有力な金融機関は石油ショックで産油国に流れ込んだオイルダラーを取り込み、中南米諸国に供給する「リサイクリング」に注力し、邦銀もその流れに乗ろうとした。ただ、日系企業向け融資にせよ、中南米向け融資にせよ、邦銀の融資全体の中では規模が限られていた。

橋本は、ロンドン市場での起債業務や、米国のノンバンクの買収を通じ、国際業務に新風を吹き込む。


 


1.第一勧銀に奪われたトップの座

 

シティバンクとの共同プロジェクトの目処が立った1971年、橋本は国際企画部に異動した。同部に籍を置き、同年4月、従業員組合の委員長に就任したのである。

任期は1年。前任の委員長は同期生で、ある時期に「次の委員長をやらないか」と相談を受け、「やっていいよ」と快諾した。従業員組合執行部の部屋は銀行の建物の中にある。7人の専従がいて、それぞれ担当を持っていた。組織、賃金、福利厚生、労働時間、合理化、「組合通信」の編集と書記だ。


 

市中銀行従業員組合連合会(市銀連)に出向していたときに閉店への対応を経験したが、この年も国内支店の閉店への対応を迫られた。青森県の弘前支店である。組織部長と2人で支店を訪ね、行員の話に耳を傾けた。

男性は、これまでの閉店と同様に全員転勤する。女性も希望すれば転勤できるように会社側と交渉し、初めて実現した。弘前支店の店舗を譲渡した、地元の相互銀行に移った女性が多かったが、3人は転勤を希望した。


 

最大の課題は賃上げだ。消費者物価は大幅に上昇していたが、物価上昇の圧力をはね返すように積極的に実質賃金の向上を目指した。

市銀連は総枠14%の共闘基準案を決定した。この案にのっとり、総枠14%の要求書を提出し、5月に実質14%の回答を銀行から引き出した。


 

広がる週休2日制、人材の確保を狙う企業

 

1960年代後半になると、銀行では事務の機械化や合理化が急ピッチで進む。銀行による時間管理も厳しくなり、労働密度の高まりを訴え、余暇の拡大を求める声が高まっていた。

従業員組合は1967年から時短闘争に取り組んだが、交渉は進展しなかった。社会全体でも、労働時間の短縮ではなく、休日の増加で時短を実現する流れができてきた。

1972年2月、銀行側は、①現在の月1回の土曜日特別休日にさらに平日の特別休日を月1回追加する、②1週当たり1時間44分の実働時間を短縮し、現在の1週40時間58分を、39時間14分とする、③対象者は全従業員、④実施時期は1972年4月1日、と回答した。


 

この回答は、終業時刻の繰り上げを果たそうとする組合要求の趣旨とは異なるため、13回にわたって銀行側とやり合った。

しかし、銀行側は、①大半の企業が5時以降の終業であり、他行もすべて5時以降の終業となっている、②休日増による時短が最近の社会動向である、③銀行の公共的・社会的性格から社会一般の動向を無視できない、④今回の改定により週1時間44分の時短となり、従業員の福祉向上と健康増進には極めて効果が大きい、として態度を変えなかった。

組合としても、社会の動向や銀行の公共性の側面を無視はできず、銀行側の回答には一定のメリットもあると判断し、3月に妥結し、交渉は幕を閉じた。


 

全体の流れを整理しておこう。高度成長期は労働力が足りず、企業は人材の確保に苦心した。1963年から週休2日制を導入する企業が増えたのは、採用活動を有利にするためだった。

富士銀行は1964年11月から、交代制による月1回の週休2日制を導入した。1970年代に入っても人手不足が続く。1970年以降、中途採用を増やし、71年4月には5時終業体制に移行した。1972年4月から週休2日制を月2回に増やした。

また、1971年4月から連続休暇制度を導入、交代制の週休と有給休暇を組み合わせ、年に1週間連続の休暇を1回、3日連続を1回、取れるようにしたのである。


 

物価の上昇も激しく、人手不足の影響もあって賃金は大幅に上昇した。1970~75年の消費者物価の上昇率は7・7、6・1、4・5、11・7、24・5、11・8、大手企業の春闘での賃上げ率は18・4、16・9、15・2、20・0、32・7、13・1である。

給与水準は大幅に上昇した。1970年の大卒男子の初任給は全産業で3万7千円、都市銀行は3万9千円だったが、1975年にはそれぞれ8万4千円、8万5千円に上がっている。


 

第一勧業銀行が誕生、預金量1位の座を明け渡す

 

労働組合の活動は従来と大きく変わらなかったが、外の世界に目を向けると銀行を取り巻く環境は大きく変化しつつあった。

1971年は高度成長期が終わり、低成長期に移行し始めた年である。国内では、長く続いた高度成長の副作用で、都市の過密化、社会資本の立ち遅れ、労働力の不足、公害問題が顕著になり、消費者運動も盛んになった。

日本の銀行界にとって大きな出来事もあった。同年3月、第一銀行と勧業銀行が10月に合併し、第一勧業銀行になると発表したのだ。富士銀行は、戦後から続いていた預金量1位の座を明け渡すことになったのである。


 

同年5月、頭取に就任した佐々木邦彦は就任のあいさつでこう語った。


 

「今日の時代は、当行をとりまく経営環境が急激に変化する時代であり、昨日まで当然のこととして考えられていたものごとの価値判断が、もはや通用しなくなるといった可能性すらあります。

こうした時代であるからこそ、大切なことは、変化に目を奪われることなく、基本に立ち返り、日々の努力の積み重ねに全力をあげることであります」


 

佐々木は10月の支店長会議で第一勧業銀行の誕生に触れ、「これまで当行の経営政策の基本に預金第1位の維持ということがあっただけに、今後当行はいかなる道をとるのかということが問題となりましょう。しかし当行の努力の不足で第1位の座をゆずったわけではないのだから、力を落とす必要は全くありません。これまで通り日々の努力を積み重ね、大いに実力をつけ、当行の業績を向上させていくことが大切であります。そうすることが、将来において再びトップバンクの地位を回復する道でもあります」と語った。


 

そして、同年11月、地域ナンバーワンの目標を打ち出した。全支店がそれぞれの営業圏でサービス、親しみやすさ、業績も含めてナンバーワンを目指す運動である。預金量1位の座を奪われたショック、悔しさは大きく、何とか士気を保とうとしている様子が分かる。

もともと2番手以下の銀行であれば、順位が落ちてもそれほどダメージはなかったかもしれない。預金量トップのプライドが、長く銀行全体のアイデンティティになっていたため、他の項目で1位になろうと努力したのだ。

しかし、その後の軌跡を先取りしていえば、銀行界トップの座にこだわるあまり、バブル期には収益ナンバー1の座を目指して住友銀行(現・三井住友銀行)との間で「FS戦争」と呼ばれる融資競争を繰り広げ、後に大量の不良債権を抱え込んだ。

バブル期の過剰融資の源流をたどると、第一勧銀の誕生時に経営者や行員が感じた悔しさに行き着くのである。


 

「ニクソン・ショック」、固定相場制から変動相場制へ

 

国際情勢は国内以上に緊迫していた。背景にあったのは米国の凋落である。米国の地位は1960年代から次第に低下し、国際通貨体制を主導するだけの実力はなくなりつつあった。

1960年代後半からベトナム戦争への介入を強化し、ドルの流出が続く。米国の国際収支は1950年代から赤字に陥り、70年には赤字が107億ドルに拡大した。1971年になっても米政府は景気拡大策を継続し、ドルの信認が急速に低下した。


 

対照的に日本の国際収支は、重化学工業製品の輸出が好調で、1968年から黒字幅が拡大した。日米の国際収支の格差を背景に、円の切り上げを求める声が世界で強まったのである。

しかし、仮に円が切り上げになれば、日本経済は大きな打撃を受けるとの見方が国内では大勢であり、1ドル=360円の為替レートの維持が日本政府の命題であった。

1971年5月、欧州で大規模な為替投機が起きた。日本の産業界は、円の切り上げに伴う為替リスクの発生を想定し、輸出前受金を繰り上げて取り入れるなどの対策をとる。日本の国際収支の黒字幅はさらに拡大し、過剰流動性が発生した。

1970年夏から71年まで国内景気は低迷しており、政府は景気刺激策を打ち出し、金融も緩和した。その結果、インフレが進行した。


 

1971年8月、ニクソン米大統領は国際収支の悪化を食い止め、ドルを安定させるために緊急対策を発表する。輸入課徴金の実施、対外援助の削減とともに、ドルと金との交換の停止を掲げた。

戦後から続く金ドル本位制は崩壊し、主要国は固定相場制から変動相場制に移行した。いわゆる「ニクソン・ショック」が起きたのである。

橋本はカンザス大学で教授から話を聞いていたため、いつかはこんな事態も起きるだろうと考えてはいたが、まさかこのとき起きるとは想像もしていなかった。外国為替相場が動き出し、国際金融の激動を感じさせた。


 

1972年4月、頭取の佐々木は支店長会議で国際情勢についてコメントしている。


 

「世界政治、世界経済の多極化は、我々にとって視野の拡大、マーケットの拡大を意味します。同時に、自由競争の原理がよりシビアーに貫徹される世界、創造力、判断力、実行力の差がより色濃く業績に反映される世界に我々が巻き込まれたことを意味します。これまでになく変化の激しい実力競争の時代であると言えます。

最近のわが国の経済力伸長には目覚ましいものがあり、国民総生産は自由主義世界第2位、世界貿易の輸出に占めるシェアも7・7%に達し、貿易収支は西ドイツを凌いで最大の黒字幅を記録するにいたりました。国際的なひろがりでの技術提携、資本提携が活発になるとともに、わが国の企業は発展途上国の経済開発など多角的な活動を世界的スケールで展開しております。


 

視野が広く、構想は雄大、行動はエネルギッシュであることをいよいよ要請されております。銀行も例外ではありません。これまでのように外国為替取扱高の増強に努めることはもちろんながら、さらに現在の常識を突き破る多角的活動を次々に創造し、これを国際的規模で展開していかなければなりません。

当行は既に、アジア、アフリカ、南米など発展途上国の企業に対する投融資を目的とする投資会社、オーストラリア、大洋州での開発投資を目的とする金融会社、ヨーロッパの企業に中長期資金、金融サービスを提供する投資会社などに資本参加していることはご承知の通りであります。リース業務、経営コンサルティングをおこなう合弁会社も設立しております。

当行は物資、技術、頭脳、資本が交流する日本経済の本格的国際化の潮流に対応し、広大な海外のフロンティアに挑戦するため、創造的で逞しい海外活動に従事していかねばなりません」


 



2.産声を上げたロンドン証券現法

 

1972年夏、橋本は委員長の仕事を終え、国際企画部に戻る。国際戦略の企画立案に携わる中で浮上してきたのが、ロンドンでの証券業務であった。

米国が1964年に金利平衡税を導入してもドルの流出は止まらず、ロンドンのユーロマーケットが広がっていた。ユーロダラーを調達してユーロダラーを貸す動きが活発になったのである。


 

ニクソン・ショックもあり、ロンドンが世界の金融センターの地位を確立していく。日本企業もロンドンの債券市場で資金調達をしようと考え、ユーロボンドを発行する兆しが出てきた。

そこで、銀行としては、こうした企業にどのようにサービスを提供するのか。それでは、ロンドンに証券会社を作ろう。ただ、銀行はそれまで証券業務というと国債の引き受けくらいしか経験がない。ノウハウの点で、やはりロンドンの有力なマーチャントバンクと合弁でスタートするのがよかろうと結論づけた。そして、合弁の相手を探すことになった。


 

ロンドンに赴任し、合弁会社の社長に

 

一方、ロンドンのマーチャントバンクも、日本のどこかと組みたいとの意向を持っていた。

なぜか。日本の銀行が取引をしている企業の主幹事業務を取るためには、日本の銀行と手を組むのがよいと考えたからだ。

富士銀行が選んだのは、クラインワート・ベンソンというロンドンの老舗マーチャントバンクであった。橋本は新会社設立の企画を担っていたが、いよいよ設立の時期になると、「企画を担当してきたお前が行って会社を作れ」という展開になった。

ロンドンへの赴任が決まったとき、イギリス英語を学ばなければならないと思った。

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