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(2021/11/26 追記)

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世界の哲学者に学ぶ人生の教室
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生き方・教養
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第4章 世界への見方を変えろ

『世界の哲学者に学ぶ人生の教室』
[著]白取春彦 [著] 冀剣制 [発行]ディスカヴァー・トゥエンティワン


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言葉を疑う

 

言語は命名カタログではない。

フェルディナン・ド・ソシュール


 

Ferdinand de Saussure

1857-1913

スイスの言語学者。「近代言語学の父」といわれる。今まで誰も気づいていなかった言語の構造の一端を解明し、その手法はのちの構造主義思想に大きな影響を与えた。


 


スイスの大学で一般言語学の授業をしていたフェルディナン・ド・ソシュールは五十五歳で亡くなるまで、一般に向けた本を書くことはしませんでした。また、言語学者ではありましたが哲学者ではありませんでした。

しかし、静かで地味な学者生活を送っていたソシュールが考え、教室で教えたことは講義ノートや原稿として残り、のちに『一般言語学講義』として編纂(へん さん)され、その内容は二十世紀以降の哲学に大きな影響を与えています。なぜならば、彼の考え方が哲学思考の新しい局面を開くものだったからです。

ソシュールは私たちが使っている言語について研究しました。そして、言語には物事を「分節化(ぶん せつ か)」する作用があることを見出したのです。まずそれがどういうことか分かれば、ソシュールの他の考え方もまた理解しやすくなるでしょう。


 

■現実にはない違いを言語が生み出している

分節化というのは、本来的に分けられていないものを言語で表現しようとすると、どうしても「分け」ざるをえなくなるということです。言語によるこの分節化は至るところに見られます。たとえば、少年少女と成人を年齢で分けることも分節化です。

当然のことながら、人間の成長は誰もが同じではありません。環境や栄養状態によってまったく異なります。しかし、その現実をまったく無視して一定の年齢を境にして画然と分けてしまっています。これが「分節する」ということです。

今の例では、何が人間の子供と大人を分節したのでしょうか。もちろん、「成人」という言葉です。あらゆる言葉は、物事を分節する作用を持っているのです。そういう言葉で構成される文章もまた、物事を分節しています。


 

しかし、私たちは言語のそういう分節化作用にほとんど気づくことはありません。ですから、くっきりと分けることができない現実の曖昧なものについて言葉で強引に右と左などに分けてしまうということをしています。

そのことが悲劇を生んでいる場合もあります。たとえば、民族差別です。民族という言葉によって、どんな人間もどこかの民族に属するという考え方をしてしまいます。そこから、民族が異なるから人間も異なるのだという差別が生まれてしまうのです。

この最大規模の差別を行ったのはゲルマン民族の優位性を謳い、ユダヤ人を劣等民族とみなして大量に虐殺したナチズムでした。


 

男女の区分もまた、現実に沿ったものではありません。男女の別は言葉によって分節されたものです。女性の生殖器を持っていても性染色体が男性の場合があることはよく知られています。また、両方の生殖器を持って生まれてくる人もいます。このように、言葉の上での男女の区分と現実の自然は合致していません。

この自然には、似たようなものでも種々のものが存在しているわけですが、それらを同一の言葉で示してしまうために、それらは「同じ」とみなされます。あるいは別の言葉で示すと、「違う」とみなされることになります。


 

現実のものに違いがあるからではなく、言葉によって違いを生み出してしまうことが、言語の「分節化作用」です。

言語が異なれば、つまり、その言語が通用している文化が異なっていれば、その言語の「分節化作用」も異なってきます。たとえば、色彩を表現する言葉は日本、ロシア、フランスではその実際の色彩と呼び名が意味する範囲が大きく異なっています。

したがって、言語が異なった二つの文化の間での完全に正しい翻訳は不可能になります。なぜなら、完全に対応する言葉などありえないからです。


 

たとえば、日本語での「水が濁る」という言い方の「濁る」に相当する適切な一語の英語は見当たりません。それでもなお翻訳しようとすると、get impureという言い方になるでしょう。muddyという一語の英語を使えばいいようにも思われますが、そうすると「濁る」という日本語でのニュアンスよりもずっと濃い泥水になってしまうからです。

日本語だけがことさらに繊細(せん さい)だというわけではありません。英語では一語で表せるのに日本語にはそれにおおまかにでも対応する言葉がないことも多々見られます。

たとえば、solitudeという英語を日本語で「孤独」の一語に翻訳することはできません。日本語の「孤独」はむしろlonlinessに近いからです。

このlonlinessという言い方はドイツ語のEinsamkeitと同じように寂しさが主体となっていますが、solitudeのほうには独りでいることの楽しさや充実感が含まれています。それにぴったりと対応する日本語の一語はないのです。

対応する語が見出せないということは異なった文化では感性の表現が違うということを意味するのではなく、物事や状況、心理を分節する範囲が文化圏によって異なるということを意味しているのです。


 

■私たちは言語で世界を意味づけし、把握している

このように言語に分節化作用があるために、私たちは自然や世界をそのままに見ることをしていません。では、分節化作用を持つ言語など使わなければ、私たちは自然と世界をありのままに見ることができるのでしょうか。

おそらく、そうはなりません。言語があってのみ、私たちは自然や世界を把握できるからです。把握するとは理解するということです。理解するとは、今の自分にとって対象がどういう意味があるかをとらえることです。

この掌握(しょう あく)によって、私たちは世界を意味づけたり価値づけたりしています。言語がなければ、これができなくなります。つまり、世界がなくなってしまうのです。

つまり、人はその言語という人工の絵の具によって世界環境を自分なりにペインティングしています。言い換えれば、このペインティングによって、私たちは世界の事物それぞれにさまざまな差異をほどこし、その差異を使って事物を分類し、それぞれに意味づけるということをしているのです。


 

差異の理解についての最も簡単で身近な例は、位置についての単純な言葉、たとえば、上と下、右と左といったものでしょう。

上はどの位置を指す言葉でしょうか。下ではない位置です。右は、左の位置ではないこと、左は右の位置ではないことを指しています。その両者は違いでのみ互いを支えています。右だけでは意味が生まれません。

つまり、他の言葉との差異によってのみ、意味がはっきりすることになります。言葉自身があらかじめ自立して特定の意味を持っているのではなく、他の言葉との差異によってようやく意味が生まれているのです。

色彩の名称もそうです。いや、すべての言葉が差異によって意味を持っています。言い換えれば、互いに関係しあい、互いの差異で依存しあって、初めて意味を持つようになるのです。

これは、文字にされている言葉だけに限りません。発音される場合、つまり言葉の音韻においても他の音韻との違い、つまり差異があることによって、それぞれが意味と役割を持つことができます。


 

こういうふうに、一切の言葉が、他の言葉との差異によって意味を持っているのですから、言葉とは記号そのものです。言葉が記号だからこそ、その言葉が示している現実の事物の本質とは何の関係もないのです。

ですから言葉とは、チェスゲームの駒のようなものだともいえます。チェスゲームにはキング、クイーン、ビショップ、ナイト、ルーク、ポーンの6種類の駒がありますが、このうちの一個がなくなったらどうするでしょうか。消しゴムとか小さな人形で駒の代用をさせるでしょう。

その場合、代用したものの形や材質はまったく重要ではありません。紛失したナイトを代用するものが騎士の乗る馬の形をしていなくてもまったくかまいません。なぜなら、他の駒と異なっているだけで意味を持つことができる記号だからです。


 



■言語と事物は結びついているわけではない

記号である言語が二つの面を持っていることを見出したのもソシュールの功績です。

その二つの面とは、シニフィアン(signifiant:表しているもの。記号表現)とシニフィエ(signifie:表されているもの。記号内容)です。

横断歩道の交通信号を例にとれば、赤い色がシニフィアンで、「停止」という意味内容がシニフィエになります。言語でも同じことで、フランス語のChatや英語のcatという文字表現や発音はシニフィアンです。そして、内容であるシニフィエは「猫」です。


 

どんな単語にもこのシニフィアンとシニフィエが必ずあって一つの単語を成立させているので、この二つの要素は強く結びついているように思われるかもしれませんが、実際にはどのような点においても結びついてはいません。

シニフィアンとシニフィエはいつもどのようなものでもかまわず、今使われているシニフィアンでなければこのシニフィエにならないということではありません。ですから、catというシニフィアンのシニフィエが「犬」であっても「海」であっても「石」であってもよいことになります。このことをソシュールは「言語の恣意(し い)性」と呼んでいます。


 

もちろん、誰か一人が「犬」をcatと呼ぶことにしたとしても、他人にそれが容易に通じるということはないでしょう。しかし他の多数もまた同じように「犬」をcatと呼ぶようになれば、catはやがて「犬」を意味する言葉になるわけです。

シニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的ですから、ロシア語のPはギリシア語のPではなく、ギリシア語のRです。リンゴを意味する英語のappleとドイツ語のApfelはシニフィアンと音韻が多少似ていますが、日本語の「リンゴ(ringo)」とはシニフィアンも音韻もまったく似ていません。


 

言語がこれほど恣意的であるということにそれまで誰も気づいていませんでした。ソシュールが言語のこの恣意性を見出すまで、多くの人々は世界の事物に名前をつけたものが言葉だというものだと思いこんでいたのです。

言い換えれば、事物や概念につけられた名前の群れが言語だとされてきていたのです。しかしソシュールは「言語は命名カタログではない」と言いました。これはどういうことでしょうか。


 

もし、言語が命名カタログであるならば、こんなことになるでしょう。ここに丸いテーブルがあり、これが世界全体であるとします。テーブルの上には世界にある事物と概念がたくさん並べられています。その一つひとつに名前をつけると、それが人間の言語となります。国や文化によって発音や表現が違うだけです。

もしそうならば、各国の国語辞典の項目数はすべて同じであってもいいでしょう。また、異なる言語への翻訳がまったく機械的に簡単に行われることにもなるでしょう。というのも、単語の形、発音やつづりが異なるだけで、その一語に対応する意味内容がすべて同じはずだからです。


 

ところが、現実はそうではありません。おおまかに似たような単語であってもその単語の意味内容は文化によってかなりのズレがあります。たとえば、日本語で「好き」を表す英語(like)、ドイツ語(mögen)、フランス語(aimer)の意味内容はぴったり重なり合ってはいません。

日本語の「好き」には「気に入る」という意味も十分に含まれていますが、そのニュアンスをドイツ語にするときはさきほどのmögenではなく、別の単語であるgefallenを使わなければならなくなります。

そしてフランス語のaimerには「好き」のほかに「愛する」という意味が含まれていますから、英語の likeには対応しない単語です。また、英語で「愛玩動物」を意味するペットという言葉はフランス語には見当たりません。


 

ソシュールが出てくるまで信じられていたように「事物や概念につけられた名前の群れが言語だ」とするなら、それら数々の単語は古代からずっと固定されていて、いくら時間が経っても変化しないはずでしょう。しかし、事実はどうでしょうか。単語はそれぞれ大きく変化し続けているのです。


 

たとえば、現代日本語の「赤」は現代ではマゼンタをもっと明るくした色合いを意味しています。

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