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最強のナンバー2 坂口征二
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エンタメ
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第一四章 坂口会長

『最強のナンバー2 坂口征二』
[著]佐々木英俊 [発行]イースト・プレス


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会長就任



 本章では坂口が会長に就任してから今までのことを記述していく。本書が書かれている二〇一八(平成三〇)年一二月時点では坂口征二は新日本プロレスリング株式会社相談役なのであるが、いまだに選手は誰もが「坂口会長」と呼び続けているからである。


 どうして今になっても坂口会長と呼んでいるのかを中西学に聞いた。

「今は相談役ですけど、相談役という気はしていないので。やっぱ、会長ですよね。社長よりも上の会長というか。社長というのは会社をちゃんと見なあかんけど、会長という立場を取られると我々へも目が向くというか、一歩引いて、全体を見られるかたちになっていると、そういう感覚で見ています」


 選手の間では、いつまでも坂口征二は全体を見守り続けている大きな柱。すなわち「坂口会長」なのであろう。


 一九九九(平成一一)年六月二四日。社長就任から満一〇年が経過していた坂口はこの日午後一時から行われた株主総会で辞意を表明した。その後、続いて行われた取締役会で坂口は代表取締役会長に就任する。社長には藤波辰爾が満場一致で選出された。


 同日午後三時から行われた緊急記者会見で坂口はマスコミに向かって次のように語っている。

《私、第28回の定期株主総会におきまして代表取締役社長を辞意し、総会後の取締役会において代表取締役会長に就任しました。私の後任には藤波辰爾氏が満場一致で新たに代表取締役社長に選任されました。私も平成元年、猪木前社長の後任を受け、5期10年間の代表取締役をやってまいりました。ちょうどその時期は東京ドームの完成とか、各地の大きなドームの完成、興行形態の変革、闘魂三銃士や選手たちの頑張りで順調なぐらいの社長業をやってきました。現在、年商40億、選手、社員約100人の大所帯になりました。ちょうど今年、創立27年になりますけど、今年9月には渋谷の方の新社屋にも移ります。そういう中、まだ任期は一年ありますけど、自分自身の最後を逃したらアレだなぁという事で藤波とも相談しまして社長を降りるという事で……。今後は会長として新日本とは言わず、日本プロレス界全体の発展のために頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします》(『新日本プロレス事件簿』)


 この緊急記者会見の時の様子を当時、その場にいたプロレスマスコミの竹内宏介は次のように述懐している。

《坂口社長の辞意は事前にまったく知らされていなかっただけに午後3時からの緊急記者会見の席上は何となく重苦しい雰囲気に包まれていた》(竹内宏介『新日本プロレス事件簿』)


 この時のことを坂口は次のように述懐している。

「ちょうど社長を一〇年やったんだよな。軌道に乗ったし、俺が社長になった時の負債も平成七(一九九五)年に完済したんだよね。銀行とかテレビ局から信用をつけたよね。俺もいつまで社長やらされるんかなってその頃考えて。このままうまく行けばいいけどって思ったけどね」


 坂口が会長に就任した後は、新日本プロレスは苦しい時代を迎えることとなる。「このままうまく行けばいいけど……」とは残念ながらならなかった。


 時代は総合格闘技ブーム。主力選手たちも次々と退団し、二〇〇〇年一一月に橋本が抜け、二〇〇二年一月には武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンの三選手とフロント社員五人が揃って全日本プロレスへ移籍することを発表している。

「橋本が辞めて、武藤が辞めて、この頃からガタガタと来て、俺が社長やっている時は、選手の離脱とかトラブルとかなかったんだよね。長州とかもそうやろ……。


 武藤が言っていたよ。『よい時代だったですよね、坂口さんが社長やっていたときは』ってね。


 橋本も可愛がっていてね……。しょっちゅう家に呼んで食事とかしてな。ライガーとか船木とかあの時代の連中はね。下でワーワー酒飲んでいるのもいれば、ウチの子どもたちとゲームやるのもいてよ。


 橋本、武藤が辞めた頃からK─1とかPRIDEとかにプロレスラーが挑戦して負けて、ダメージがどんどん出てきたよね」


 二〇〇二(平成一四)年二月、坂口は還暦を迎えた。プロレス生活も満三五年となっていた。


 創業三〇周年のこの年、会長職にあった坂口は自ら座長を務め、創立三五周年に向けた中長期経営計画である「DASH35計画」を策定し、企業としてのさらなるステップアップを考えていた。

「これは猪木さんの知人みたいな人のアイデアだよね。この前に年商三五億円くらいあったんだよね、一番よい時。創立三〇周年だから三五年目で年商五〇億とか目標立てて、自社ビル建てて、株式を上場しようとかそういう話になって、どうしたらよいかを月一回、メンバーでディスカッションして、俺は座長みたいになって、最初は良かったんだけど、途中で雲行きがおかしくなって(笑)」


 同年六月の株主総会前の五月末、現場監督を務めていた長州力が退団。そして六月の株主総会ではUFOの川村氏と闘魂三銃士で唯一、新日本プロレスに残留した蝶野のフロント入閣が決まっている。


六一歳での限定復帰



 二〇〇三年六月の株主総会でCEOとなっていた坂口は六一歳で再びリングに上がることとなる。当時、マッチメイクを担当していた上井文彦が水面下で、現役を退いてから一三年が経過し、還暦を過ぎた坂口の限定復帰をもくろんでいたのである。


 仕掛け人となった上井文彦に話を聞いた。

「仲間内で異体同心会ってやっていたのよ。俺、最後に入れてもらったんだけど。メンバーは、坂口さん、新間さん、ゴングの竹内さん、櫻井さん。そこに上井も来いって言われて。俺、新間さんとも坂口さんとも仲よいから、五人でやりはじめた」


 異体同心会。今となってはメンバーで残っているのは、坂口以外は、新間、上井の新日本プロレスOBだけとなってしまったが、「東京スポーツ」の櫻井康雄、「ゴング」の竹内宏介といった昭和プロレスを創った男と坂口が定期的に集まっていた食事会である。これに、当時新日本プロレスのマッチメーカーをしていた上井が加わったのだという。


 上井はマッチメーカーの立場で異体同心会の会合となると、必ず坂口に向かってリング復帰を焚き付けていたと言う。

「会長復帰してくださいよ」


 坂口の返事は、決まって「いいよ」と笑うだけであった。


 そうすると、新間は竹内に振る。

「坂口さん、やったらよいじゃない。なあ、ぼうや」


 すると竹内も同調して、

「坂口さん、やったらよいですよ」と応じるのだった。


 この年の七月二一日、札幌の月寒グリーンドームのメインイベントで行われたIWGPヘビー級選手権、王者・山善廣対挑戦者・蝶野正洋の一戦は、蝶野のニーブレス攻撃が山を大流血させる結果となり、両者KOという結末となった。試合結果に納得のいかない山は蝶野に完全決着戦を要求。八月二八日、大阪府立体育会館で金網デスマッチによる再戦が行われることとなった。試合前日の二七日、公開調印式が大阪市内で行われ、坂口もCEOとして出席している。


 試合当日、金網のなかには山と蝶野とレフェリー一名が入ることとなり、坂口は立会人としてリング外に陣取ることとなった。用意された金網は約一・二トンのモンスターサイズ。万が一のアクシデントに備えて、会場内の器物、観客、マスコミに対し合計五億円の保険がかけられるという前代未聞の興行となった。


 六〇〇〇人の観衆が見守るなか、試合は山が蝶野をスリーパーホールドで失神させて決着。三四分六秒、山のKO勝ちとなった。立会人の坂口は鍵を開けて金網の中へ入り、両者を放そうとするが、山は勝負が決まった後も執拗にスリーパーホールドを外さない。


 その山に対して、立会人の坂口が怒り、柔道技の払い腰で山を投げ飛ばしてしまったのである。一方の山も怒り、現役を引退した坂口に対し、ギロチン・ドロップをさく裂させた。


 上井は当時を振り返る。

山がギロチン・ドロップやった時、『これは行ける!』って思ったものね。思うつぼだったね、マッチメイクの。その展開が一番よいと思ったから。だから、坂口さんが控え室で『やっちゃるけん!』と言ったとき、プッと笑いそうになったもんね。

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