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KGBが日本を狙う 情報戦略なき国家
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政治・社会
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第一部 しのび寄るソ連の触手

『KGBが日本を狙う 情報戦略なき国家』
[著]古森義久 [発行]PHP研究所


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第一章 レフチェンコ証言の衝撃




 レフチェンコがマスコミに騒がれず亡命した日


 一九七九年(昭和五十四年)十月下旬のある日、東京の街からひとりのソ連人特派員が消えた。


 翌日の夜、彼の姿は成田空港を飛び立つパンアメリカン航空の機内にあった。飛行機はロサンゼルスに向け出発した。


 出発に先立ち、空港ではこの男をめぐって三つのグループがまんじ(どもえ)にうごめいた。彼を一刻も早く飛行機に乗せ、飛び立たせようとするアメリカ人の一団。彼が日本を離れることを間違いなく望んでいるか確認の手続きをとろうとする日本人の一団。そしてなにがなんでも男の出発をはばもうとするソ連人の一団。男はこの三グループにもみくちゃにされかかった。


 だがなんとか難を逃れ、彼は無事に飛行機へと乗りこんだ。やがて機は滑走路へとすべり出す。この時、ほんのタッチの差で男を抑えられなかったソ連人のグループは、必死の形相で空港内をなお駆け回っていた。


 アメリカに向け飛び立ったソ連人は、ソ連の外交評論雑誌『ノーボエ・ブレーミャ』(新時代)の東京特派員、スタニスラフ・レフチェンコ氏だった。彼はこの時、三十八歳である。


 東京へは七五年二月に赴任している。そして四年八カ月が過ぎてモスクワへの帰国が迫った七九年十月、東京でアメリカ大使館に連絡をとって、アメリカへの政治亡命を求めたのだった。

『新時代』誌は、ソ連のほかの新聞や雑誌と同様に、完全な政府機関の一部である。そこで働く“記者”も日本やアメリカとは違って、実際には政府職員である。


 レフチェンコ氏のアメリカ亡命は、この時、日本の新聞にほんの十数行、報じられた。いずれも社会面の片隅の小さな記事だった。なかにはレフチェンコ氏が「情報機関と関係か?」などという記事もあった。だがそれもわずか数行の、推測めいた言及だった。それになによりも肝心の本人が日本の国外に出てしまえば、亡命事件には一応のピリオドが打たれてしまう。


 このころの日本の新聞記事で見る限り、レフチェンコ氏の亡命はごくささいな出来事として扱われた。さして珍しくもない日本を舞台とした政治亡命劇の一幕という感じだった。


 私はこのころ毎日新聞のワシントン特派員だった。ワシントンに赴任してもう三年以上が過ぎ、生活にも仕事にもすっかり慣れて、充実感を覚える日々を送っていた。とくに情報の宝庫のようなワシントンでの取材活動にはますますおもしろさを感じていた。くめどもつきない泉のように、記事になる情報がいくらでも埋もれているのである。


 アメリカの政府や議会内の取材源も次々に広がっていた。外国人記者にもアメリカの官僚機構の取材のドアはかなり大きく開かれている。政府関係者に直接、会って話を聞けるというケースが私にとっても少しも珍しくなくなっていた。むしろ日常の取材活動のパターンがそうなっていた。


 スタニスラフ・レフチェンコという名をワシントンで初めて聞いたのも、そういう日常のごく普通な取材活動を通じてだった。このころ私は国務省に日参していた。毎日まず国務省報道官による定例のブリーフィングがあった。さらに問題ごとに担当官を直接、訪ね、一対一で話を聞くことも日課となっていた。

「日本で活動中にアメリカに亡命してきたソ連のKGB(国家保安委員会)の少佐がワシントンのソ連大使館代表と面会するかどうかでもめている」


 はじめに私が聞いたのはこんな話だった。日ごろ接触していた国務省の係官と昼食をともにした時に、彼はふっとそんな情報をもらしたのである。

「日本」という言葉が出てきたのでびくりとした。国務省の別の係官に後でそれとなく尋ねると、そのとおりであり、国務省がソ連大使館と亡命ソ連人との間に入って板ばさみとなり弱っているのだという。ソ連大使館としては亡命者本人にあって、祖国を捨てる意思に間違いないかどうか確認したいわけだ。だが本人はそんな面会の必要はないとはねつける。この話は国務省内でもすでに広範に知れわたっていることがわかった。


 この亡命者が『ノーボエ・ブレーミャ』誌東京特派員のスタニスラフ・レフチェンコ氏だった。そこでまず判明したのはレフチェンコ氏の本当の身分である。記者ではなく実はKGBの工作員、しかも少佐だというのだ。このKGBとのかかわりについては、アメリカの国務省もはっきり確認しているという。日本国内で彼が記者の身分を隠れミノに、さまざまなスパイ活動を繰り広げていたのだという話も聞いた。



 日本でのスパイ活動を報じた初めての記事


 私はこうして国務省内で得た各種の情報をまとめて記事を書いた。思えばこれがレフチェンコ氏とKGBとのつながりや、彼の日本でのスパイ活動をはっきりと報道した最初の記事だった。この時点でもちろん私は、レフチェンコ氏がその三年余り後に大きなさわぎを起こすようになるなどとは夢にも考えていなかった。


 この記事は一九七九年十一月八日の毎日新聞夕刊の社会面に四段見出しで掲載された。レフチェンコ氏の顔写真ものった。見出しは「亡命レフチェンコ記者、KGB工作員と確認」「日本情報を収集」などである。


【ワシントン七日古森特派員】米国政府筋が七日明らかにしたところによると、十月下旬日本から米国に亡命したソ連の雑誌記者スタニスラフ・アレクサンドロビッチ・レフチェンコ氏(三八)がソ連の国家保安委員会(KGB)の秘密工作員だったことが確認された。レフチェンコ氏はジャーナリストを偽装して日本国内で幅広いスパイ活動を行なっていたという。


 レフチェンコ氏はソ連の外交評論週刊誌『ノーボエ・ブレーミャ』(新時代)の東京特派員として七五年に来日、日本語のできるジャーナリストとして活動していたが、この(七九年)十月二十四日、東京の米国大使館に米国亡命を申し入れた。同大使館の通報で日本の外務省が本人の意思を確認したところ「ソ連社会での生活、未来に失望した」と述べたという。


 レフチェンコ氏の亡命はすぐに受け入れられ、同氏は日本に妻を残したまま(その後、夫人はソ連に帰国)、米国へ向かった。


 レフチェンコ氏のその後の消息について米国政府筋が七日、語ったところによると、同氏は米国治安当局の保護下にあり、現在ワシントンから遠くない地域で米国当局からの事情聴取に応じている。これまでの本人の供述や米国当局の裏づけ調査により、レフチェンコ氏の日本での「雑誌特派員」という肩書は最初から偽装に過ぎず、実はKGBの秘密工作員だったことが確認された。同氏の日本での任務は「報道活動」を隠れミノにして、日本側の政治、外交の動きに関する情報などをKGBのために収集することだったという。


 同氏の活動のさらにくわしい内容については同米政府筋は「幅広い範囲にわたるスパイ活動」とだけ述べているが、KGB組織内では同氏は中堅幹部で、その米側への提供情報は米国にとってかなり有益なものになるという。


 さらに同米政府筋によれば、ソ連当局はワシントンのソ連大使館を通じてレフチェンコ氏と面会し、その亡命意思を確認することを求めている。米政府もこの面会実現には積極的な態度をとっているが、レフチェンコ氏本人が七日までのところではソ連側代表との直接面会を拒否しているという。



 ――こんな記事だった。


 いわゆる「レフチェンコ証言」が日本をゆさぶる三年以上も前に、レフチェンコ氏がKGB中堅幹部であり、日本ではスパイ活動をしていた、とここで報じているのである。自画自賛になるが、これを報じたのは私ひとりであり、その記事の内容はきわめて意味深かった。とは言っても、この情報自体は当時の国務省内ではなかば公然と語り伝えられていたことである。国務省に頻繁に出入りしている記者ならだれでも、いやでも耳に入る種類の情報だった。


 レフチェンコ氏はこの記事が出てから間もなく、ソ連大使館の代表と国務省内で会見した。会見はものすごい対決となり、ののしり合いに終わった。レフチェンコ氏はそこで改めてソ連に帰る気など毛頭なく、アメリカ永住を希望していることをソ連側にはっきりと告げたという。


 私はそのことをまた複数の国務省職員から聞いていたが、もうあえて報道することもあるまいと判断して記事にはしなかった。



 スクープはこのようにして生まれた


 その後、三年の歳月が流れた。


 私は依然、ワシントン特派員だった。もっともその間、一年間は新聞社を休職して、出向の形でカーネギー財団国際平和研究所というシンクタンクで働いた。民主党リベラル系の国際問題専門の研究所である。私はここで上級研究員という待遇を受け、日米関係の主に安全保障面について研究をした。ライシャワー元駐日大使に日米防衛問題に関するインタビューをして、核兵器を積んだアメリカの艦艇が実は日本の港にずっと立ち寄っているという、いわゆる「ライシャワー発言」を報道したのもこの期間だった。


 研究生活の後はまたワシントンで新聞の特派員にもどった。しかし八二年秋には東京に帰ることが決まっていた。新聞社内の普通の人事異動である。アメリカに初めて特派員として派遣されてからすでに六年半の年月が過ぎていた。


 ワシントンを離れることが決まってからは、それまで世話になった友人、知人にあいさつをして回った。六年半の生活の場を移すのだから、もちろんほかにやらねばならないことは山ほどあったが、やはりジャーナリストとしての活動の核心部分である対人関係での配慮が最も大切だった。


 私がワシントンを去ると知ってディナーや昼食に招いてくれた人も多かった。わざわざ大きなパーティを開いてくれた友人もひとりではない。こちらが招いてそれまでの厚情を謝すケースもあったし、単に別れのあいさつをしに行ったという相手も数多かった。


 実際にワシントンを離れる前に顔を合わせて別れのあいさつをした相手は、報道活動の取材先だけでも少なくとも百人はあっただろう。ほとんどがアメリカの政府や議会の関係者である。


 そのひとりと昼食をした時に、

「日本から三年前に亡命してきたKGB将校がすでに議会での証言をすませ、その証言録が近く公表される」


 という趣旨のことをちらりともらした。証言内容はすべて日本国内でのKGBの諜報や謀略の活動に関する暴露だという。これは大変だと思った。同時にそれまですっかり忘れていたレフチェンコ氏の亡命事件を思い出した。正直言って、「日本から三年前に亡命してきたKGB将校」というのが、自分がかつて報道したスタニスラフ・レフチェンコ氏のことだと気づくには、かなり時間がかかったほどである。


 しかしKGBの将校だった人物が日本国内でのKGBの活動を直接、明らかにするというのは遠い昔のラストボロフ事件以来、前代未聞である。大きなニュースになる。その証言公表を事前に知りながらなにもしないというのは新聞記者失格だ。私はさっそく取材活動に動き出した。転勤のためにすでに荷物の整理、引っ越しの準備にとりかかっていたが、そうした作業をすべて一時中断しての緊急取材だった。


 議会でこの種の問題を扱うのは上院と下院の両方にある情報特別委員会である。まずこの委員会のスタッフに当たった。そのほか国務省、議会の外交委員会、国防総省、ホワイトハウス、議会調査局、海外文化情報局(USIS)などで対日関係や対ソ関係にたずさわる人たちに尋ねてみた。


 その結果、「レフチェンコ議会証言」についてはすでにかなりの人数の関係者がよく知っていることがわかった。レフチェンコ氏から秘密の聴聞会で証言を得たのは下院の情報特別調査委員会だった。日本でのKGB活動を中心とするその証言は、KGBの他地域での活動についてのその他の証言や資料と合わせて、議会の報告書として近く一般に発表されることになっていた。


 しかしその日本関連の証言をどこまで発表すべきか。当然、起きてくる外交、政治上の影響を考えねばならない。アメリカ側の諜報活動に支障をきたしてはならない。日米関係への余波を事前に考慮しなければならない。


 こうした配慮からレフチェンコ証言はいま国務省、国防総省、CIA(中央情報局)などの対日政策関係者に回覧されているのだという。直接、日本と取り組む専門家たちが証言をよく読んで公表がOKかどうか判断する作業をいまやっている最中だというのである。多数の関係者が証言内容をすでに知っているのはそのためだった。


 証言を公表する当事者の下院情報特別委員会のスタッフは、取材に対してとくにオープンだった。どうせ間もなく発表してしまう証言だから、ということだろう。



 スクープ第一報――周恩来の遺書は捏造だった


 とにかく数日かけて関係者を何人も当たった結果、レフチェンコ氏の議会証言の輪郭をつかむことができた。ところどころ具体的な詳細をも知った。その結果、報道したのが八二年十二月二日付毎日新聞朝刊一面にのった記事である。


【ワシントン一日古森特派員】米国議会関係筋は一日、三年前に東京から米国に亡命したソ連の国家保安委員会(KGB)元工作員の米議会秘密聴聞会における証言の重要点を明らかにした。証言録は近く議会から公表される。同筋によればこの工作員は雑誌特派員の肩書で七五年から四年間、滞日したが、実際にはKGB所属の少佐としてスパイ、謀略活動に従事していたという。証言は日本でのKGBのそうした活動内容をくわしく説明し、スパイや謀略のために同工作員が自民党国会議員や社会党幹部に働きかけた状況を明らかにしているといわれる。とくに謀略面では、六年前に日本の一部で大きく報道された故周恩来中国首相の“遺書”とされる文書が、実は日中離反をねらってのKGBの完全な捏造品であることが暴露された。


 米国に亡命したこのKGB元メンバーは、ソ連の外交評論週刊誌『ノーボエ・ブレーミャ』(新時代)の東京特派員として七五年に来日したスタニスラフ・アレクサンドロビッチ・レフチェンコ氏(四一)。同氏は七九年十月、東京の米国大使館に米国への政治亡命を求め、即日、認められて米国に渡った。亡命の理由について本人は日本外務省に対し「ソ連社会での生活、未来に失望した」とだけ述べた。


 その後、米国でのレフチェンコ氏自身の供述や米国情報機関の調査によって、同氏について、①雑誌特派員というのは偽装にすぎず、そのために一年間の“記者”としての訓練を訪日前に受けただけで、実際の身分はKGB所属の少佐だった。②KGBの中でも最も大胆な工作をする「積極工作部」の所属で、東京でもKGBの対日積極工作の担当者だった。③日本では“記者の肩書”を隠れミノにしてスパイ、謀略の活動を一貫して行っていた――ことなどが判明した。


 米議会筋によれば、下院情報特別委員会(エドワード・ボーランド委員長)はことし夏、レフチェンコ氏を秘密聴聞会の証人としてひそかに招き、日本での活動をはじめとするKGBのスパイ、謀略の実態についてくわしく聞いた。レフチェンコ氏がそこで明らかにした情報の質と量からみて、同氏はこれまでに西側に亡命したKGB関係者の中でも“最も有用で重要な人物のひとり”であることが判明したという。


 下院情報特別委員会はソ連による反核運動への働きかけ、米国の中性子爆弾など新兵器開発阻止の世論工作など最近のKGBの積極工作の実態を明らかにするために一連の秘密聴聞会を開き、レフチェンコ氏も証人の一人として招かれ、この証言を行った。


 レフチェンコ氏の証言記録を熟読した米議会関係筋によると、同氏はまず日本でのKGB活動を明らかにし、同氏自身が情報収集や政治謀略の働きかけのために自民党国会議員や社会党幹部など日本の政治家にどのように接触し、どのような工作を試みたかをくわしく証言した。同氏が実際に接触し働きかけをしたという相手の自民、社会両党の政治家はそれぞれ数人だという。


 さらに同関係筋によれば、レフチェンコ氏は中国の周恩来首相の死後に日本に流れた“周首相の政治遺書”がKGBによる完全な創作であることを、この秘密聴聞会で明らかにした。この“遺書”は日本の一部新聞でも特ダネとして報道された。当時は台湾筋による創作ではないかとの見方が語られていたが、レフチェンコ氏の証言によれば、KGBはこの“遺書”により中国指導部内の対立や揺れ、不安定要因をなまなましく強調することによって日本側に対中接近をためらわせることを狙い、文書をすべて捏造して日本側の報道機関に取りあげられるよう仕組んだ。


 レフチェンコ氏はさらに『ノーボエ・ブレーミャ』誌の海外特派員は日本駐在も含めて全体の八割以上がKGBの正規メンバーだが、共産党中央委機関紙『プラウダ』特派員の中には意外とKGB工作員が少ないことも明らかにしたという。


 米国では最近、KGBの積極工作部門の活動、とくに「ディスインフォメーション」(政治謀略やスパイ活動のための故意の誤報、虚報)に対する懸念を深め出した。その結果、対策を根本的に再検討し、ディスインフォメーションへの対応活動の新しい組織を米政府部内に編成した。今回の秘密聴聞会開催も政府側のそうした動きを反映している。


 米国議会筋によると、下院情報特別委員会は、同聴聞会記録のうちレフチェンコ氏の証言部分を公表するかどうかをここ二カ月ほど検討してきたが、公表へ踏み切る方針をこのほど決定した。同氏の証言はKGBに関するその他の証言、資料とともに報告書として十二月中にも発表される。同特別委員会はその検討の過程でレフチェンコ氏の証言内容を国務省日本課はじめ政府各機関の日本担当部門や情報機関にひそかに回覧して、公表による日本への政治的影響や日米関係、日ソ、米ソ関係への影響、日本での今後のKGB対策への余波などについての見解を求めていた。多数の関係者による綿密な審査の結果、公表の方針が決まったわけだが、やはり日本側に対する警告としての意義に最大の重点が置かれたとみられる。


 しかし、KGBの日本での活動をこうした当事者の証言という生々しい形で暴露することにはソ連の強い反発も当然予測される。その結果アンドロポフ書記長、中曽根首相という新リーダーをともに迎え、新たな局面に入りつつある日ソ両国の関係全体にも大きな影響が及ぶことも考えられる。


 レフチェンコ証言にきわめて似たケースとしては、一九五四年に同様に東京から米国に亡命したユーリー・ラストボロフ氏の議会証言がある。ラストボロフ氏はMVD(KGBの前身)の一員として日本でスパイや謀略の活動を幅広く実施していた。五六年七月に米国上院司法委員会の秘密聴聞会でそうした日本での活動をくわしく証言した。日本側の官僚、政治家、ジャーナリストなどソ連への協力者を実名であげたその証言内容は、すでに解禁されている。

【注】周恩来中国首相が七六年一月八日死去後、一月二十三日付サンケイ新聞は「今日のレポート」欄で「『ある筋』としか書けないのが残念だが、その『ある筋』が『最近香港から流れてきた話だ……』と面白い情報をきかせてくれた」との書き出しで、周首相が遺書を残したとの情報を伝えた。


 この「遺書」は、①平和、民主、社会主義勢力の協力、プロレタリア国際主義の維持、②文革のような誤りを再び党内に持ち込まないこと、③重工業重視――を訴えている。


 個人的メモを残さない習慣の同首相が残したという遺書の信憑性について同紙も疑問があると書いたが、同年一月二十九日のソ連タス通信は「内容が周首相の全生涯と合致している」と本物説を取り、サンケイ新聞が紹介した「遺書」の内容を詳しく報じた。さらに同通信は「これは周恩来が中ソ関係を絶望的対決の状態にもっていきたくない旨考えていたことを示す」と“解説”を加えている。



 ――この記事がレフチェンコ議会証言についての第一報だった。日本でも反響は大きく、「公安当局も実は“周恩来遺書”については知っていた」などという記事が出た。



 “四十人を超す秘密協力員”


 私はさらにレフチェンコ氏が新しいタイプの謀略活動「積極工作」のKGB在日責任者だったことをつかみ、日本人の秘密協力者についてさらに続報を書いた。


 この記事は毎日新聞の十二月六日付朝刊に掲載された。


【ワシントン五日古森特派員】米国政府関係筋が五日までに明らかにしたところによると、東京から米国に亡命したソ連国家保安委員会(KGB)の元少佐スタニスラフ・A・レフチェンコ氏()は米国当局の聴取に対し、日本国内にKGBの秘密協力者として動く日本人四十人以上がいる、と述べ、その実態をくわしく供述した。


 同氏の供述では、ソ連側からの報酬をひそかに受けるこれら秘密協力者には自民党・社会党の政治家や財界人も含まれている。ソ連側は同協力者に対し、情報提供のほか、日本の外交政策形成や世論づくりへの影響行使を求め続けているという。


 同氏はことし夏、下院情報特別委員会の秘密聴聞会でKGB積極工作部門の日本および世界各地での活動について証言した。証言の一部は同委員会報告書として近く公表される予定となっている。


 ところが米国政府関係筋が明らかにしたところによると、レフチェンコ氏はこの議会証言とは別に米国入国以来、情報当局から延べ数カ月にわたる事情聴取を受け日本での活動を詳細に報告した。同氏は供述の中で、七九年十月の時点で日本国内には四十人を超えるKGBへの秘密協力者の日本人が存在すると述べた。


 この場合の「秘密協力者」を構成する要件は、①KGBからひそかに資金を報酬、謝礼として受け取っている、②本人がKGBなどソ連側との接触を秘密にしている、③KGBなどソ連の意向や要請を反映する言動を結果的に取っている、④ソ連側からみて本人をかなりの程度コントロールできるとの認識を伴う関係ができている――などだという。


 同米国政府関係筋によると、レフチェンコ氏はこれら日本人秘密協力者の大部分の実名、あるいは地位、ソ連側で使っていたコードネーム(暗号名称)を述べるとともに、個々の協力者についての報酬支払い額、接触方法、ソ連側からの要請内容などを米側にくわしく明らかにした。同氏が供述したこれら日本人協力者の中には自民党、社会党の政治家、地位の高い財界人、大手報道機関の幹部などが含まれているという。


 同米国政府関係筋も、レフチェンコ氏と直接、話し合ったことが数回あるというが、同氏は、①日本人秘密協力者への報酬額は大体一カ月十数万円から五十万円程度の範囲だが、ごく一部にはこれを大幅に上回る高額もあった、②協力者との接触を秘密に保つために細心の注意が払われ、日本の公安当局の監視が最も薄くなる特定の時間帯(たとえば日曜日の午前六時から同八時の間など)を選ぶことなども供述したという。


 さらに同米政府関係筋によると、KGBの対日工作は日本の政府や科学技術に関する情報、日本側が得ている米国についての情報などを入手することのほかに、①日ソ経済関係でソ連側に有利となる最大限の措置を日本にとらせる、②日米両国間の摩擦や緊迫の解消をはばんで、両国の離反を図る、③日本の中国接近を阻止する、④日本の防衛力増強を抑える、⑤北方領土返還の動きの高まりを抑える、⑥日本に、ソ連は歯が立たないこわい国だと思わせ続ける――などを目的としての日本の政策形成への働きかけ、基盤となる世論づくりへの影響力行使を主目標としている。


 このためKGBが日本人協力者として獲得しようとしたのは、皆外交や世論形成に影響力を及ぼせる立場にある人物だった。こうした目標に沿ってさまざまな具体的行動をとることをソ連側から求められたいきさつがくわしく説明されているという。


 同関係筋はさらに、レフチェンコ氏のこうした供述内容について、米国当局が米側に明らかになっている日本の治安当局情報や米国独自の調査によって裏づけを進めている、と述べ「これまでのところレフチェンコ氏の語ったことが必ずしも正しくないと判断するような材料には何も行きあたっていない」と語った。


 別の米国政府筋は、下院情報特別委員会が近く解禁する予定のレフチェンコ証言には日本人の秘密協力者の実名や地位についての具体的な記述は含まれないだろう、と述べている。これは同氏が議会ではくわしい供述をしていないことのほかに、具体的内容の公表によって米国が日本の問題に政治的に介入しようとしているという印象が生まれるのを避けたいとの配慮があるからだという。



 ――私の二本目の記事が出てすぐの八二年十二月九日、下院情報特別委員会は、レフチェンコ氏の供述を含むKGBの積極工作についての報告書を公表した。主なポイントは私がすでに報道していたとおりだった。



 レフチェンコの証言内容


 その報告書の中のレフチェンコ証言部分を以下に紹介しよう。当時の日本の新聞によって報じられた要旨である。レフチェンコ氏の証言にかかわるすべての問題を考える時、やはりここでの供述が土台となってくる。



 一、私の名はスタニスラフ・レフチェンコといい、一九四一年七月二十八日モスクワ生まれ、一九五八年モスクワのソコルニキ区の第一特別高校を卒業、同校では英語を学んだ。同年モスクワ大学付属のアジア・アフリカ研究所の学生となり、六年間、日本語、日本の歴史、経済、文学を学んだ。


 一、モスクワ大学卒業後、下級研究員として海運漁業研究所に勤務したのち一九六五年ソ連共産党中央委員会国際部詰めとなり、日本共産党機関紙「アカハタ」のモスクワ特派員の秘書兼通訳として働くよう申し渡された。しかし私は口実を使ってこれを断った。


 一、一九六五年十一月、私は大学院学生としての勉学を許され、日本の平和運動の歴史をテーマに私の修士論文を書き始めた。


 一、一九六五年から六七年の大学院学生であったころソ連平和委員会のパートタイムの相談役として働いた。そして私はソ連を訪問した日本の平和運動代表団の通訳として働くよう申し渡された。


 一、一九六六年四月、ソ連貿易代表団の通訳として初めて訪日した。しかし実際にはソ連共産党国際部の命令で日本の平和運動の数人の有力人物と会い、最新情報を集め報告しなければならなかった。


 一、その後、さらにKGB職員として日本担当となった私は、いわゆるソ連の公的組織のいろいろな代表団のメンバーとして約十二回訪日した。


 一、一九七二年秋まで、KGB本部の日本担当課でケース・オフィサーを命じられていた。そこで私は日本の社会党、知識人層の操作の仕方について約二十冊のファイルを扱わねばならなかった。そして七四年、日本の政治情報収集のため、近く日本へ派遣される予定であると告げられ、約一年、ジャーナリストとしての腕を磨いた。それは日本到着後、『ノーボエ・ブレーミャ(新時代)』の東京特派員を名乗り、素性を見抜かれないためだった。


 一、七五年二月、家族と一緒に東京に到着。前任者は私に社会党の著名な人物を引き継いだ。そしてその後四年間、私は四人のエージェントを作った。七九年まで私は十人のエージェントを操りながら、毎月二十~二十五回秘密の会合を持ち接触を深めた。


 一、私が操ったエージェントのうち四人は、著名な日本のジャーナリストであった。彼らは、自民党のトップ層と接触があるか、閣僚メンバーも含まれる政府高官と接触のあるジャーナリストで、日本政府の内外政策に関する情報を口頭または文書で提供してくれた。


 一、このエージェントの一人は、発行部数が一日三百万部以上の日本の大新聞のオーナーの親友だった。彼はこの新聞を通じて、さまざまな活動をさせるのに使われた。彼は私に引き継がれる少し前に、いわゆる「周恩来の遺書」という記事を出した。


 一、別のエージェントは日本社会党の地位の高いメンバーである。彼はソ連の利益に応えて同党内で積極工作を実行するために主として使われた。そのねらいは同党の右傾化や中国との緊密化を防ぐことである。


 一、私が日本で活動している期間中、KGBは日本に二百人以上の協力者のネットワークを持っていた。最も効果的なエージェントの中には、元閣僚一人、国会議員の公的な組織の会長、社会党の数人の幹部、政府関係者と緊密な関係を持っている最も著名な中国研究学者、数人の国会議員がいた。


 一、日本におけるソ連の積極工作の主要な目標は次のようなものだった。


 ①日米間の政治、軍事上の強力関係がこれ以上深まるのを防ぐこと、②政治・経済・軍事面で日米間に不信感を作り出すこと、③日本と中国との関係、とくに政治、経済分野での改善を妨げること、④米、中、日の“反ソ三角同盟”がつくりあげられる可能性をいかなる手段によってでもなくすこと、⑤日本の有力政治家、なかでも自民党、日本社会党内に新しい親ソ・ロビーをつくること、⑥日本政府首脳にマス・メディアや有力実業家を通じソ連との経済的結びつきを拡大する必要性を納得させること、⑦日本政界に日本とソ連間の善隣友好関係条約調印のための運動を組織すること、


 ⑧主要野党、なかでも日本社会党内に深く浸透し、自民党が日本国内で政治的独占の立場を占めるのを妨げるため野党の政策に影響力を与えること、⑨同時に野党指導者に連合政府の樹立をやめさせること、


 ⑩KORYAK作戦実行にあたり高レベルの活動を続けること。KORYAK作戦とは千島列島(注・北方領土)に新しい住宅群を建設したり千島列島に軍隊を派遣することによってソ連の意向を日本人に認識させることを狙った手段として考え出されたもので、これによって日本政府に、これら領土に対するソ連の支配を問題にすることが無駄なことを示すことにあった。


 一、一九七〇年代に日本の政党の幹部で議員だったKGBのエージェントは日ソ協力のための議会レベルでの会議(日ソ友好議員連盟を指すとみられる)を組織した。ソ連はこのグループとソ連最高会議と頻繁な代表団交換を始めた。


 一、モスクワとの政治的、経済的関係を深めるため日本政府に影響力を及ぼすよう日本の国会議員の説得にあらゆるチャンスを使った。


 一、このグループの長はKGBからかなりの額の金を受けとり、同グループの活動の資金にあてた。


 一、一九七〇年代のKGBは日本社会党の政策をかなりコントロールすることができていたし、影響力のあるエージェントとして十人以上の幹部をつかんでいた。


 一、KGB東京支部はあらゆる活動に関し毎日三件から五件の指令を受けとっている。このことは日本国内だけの活動指令の総数が年に数百であることを意味する。このことは、しかしKGB東京支部が指令のすべてを実行できることを意味するのではなく、三分の一が上首尾に実行に移されたといった方がよい。


 一、七九年初め、私は少佐に昇任し、東京地区のKGB積極工作グループの指揮者代行に任ぜられた。このグループには五人のメンバーがおり、二十五人のエージェントを動かしていた。また、実際の行動を行うために、日本にいるあらゆるKGB機関を使うこともできた。


 一、だが、私は、ソ連の情報機関も党政治局に握られたもう一つの道具であり、ソ連社会主義機構の他のどの部分よりも、いやらしいものだと悟った。


 一、そこで私は自由世界の主要国家である米国に亡命し、ソ連に外部から戦いを挑もうという結論に達した。


 一、東京にはソ連の外交官が約五十人いるが、ソ連人の数はずっと多い。


 一、(「KGBには二十五人のエージェントを配下とする五人の積極工作員がいるというのか」との委員長の質問に対し)そうだ。大ざっぱな数だが……。(「日本内のKGB高官の数はたったの五人なのか」)違う。私が東京支部の積極工作グループの代理として任命されていたさいの私の活動中のことをいったのだ。これは政治ライン、いわゆるラインPRの一部だ。政治情報ラインは、米中という主要敵に関する積極工作グループから成り立っている。

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