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KGBが日本を狙う 情報戦略なき国家
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政治・社会
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第二部 日本は国家か

『KGBが日本を狙う 情報戦略なき国家』
[著]古森義久 [発行]PHP研究所


読了目安時間:2時間30分
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第四章 亡命者が教える防空体制の欠陥


    ――ミグ25事件のベレンコ氏との単独インタビュー




 ミグ25事件とは何であったか


 ソ連の超新鋭機ミグ25が、それこそ天から降ってわいたように、函館空港に突然、強行着陸し、日本中をどよめかせたのは七年余り前、一九七六年九月六日だった。


 当時、西側から「フォックス・バット」と呼ばれたミグ25は、マッハ3・2の超スピードで三万五千メートルもの高空を飛行した記録を持つ驚異の迎撃戦闘機だった。それがまさに青天の(へき)(れき)のごとく日本の空港に飛来した。


 アメリカ側でも「ナゾの迎撃戦闘機」としてその信じがたいような超高性能の秘密を、のどから手が出るほど欲しがっていたミグ25である。日本全土が一大衝撃をうけた。


 日本とソ連との関係をがらりと変えうる大事件である。そのはね返りは当然、アメリカとソ連の関係にまで波及する。国際政治全体をゆさぶる出来事だった。


 問題のミグ25を操縦していたのはソ連防空軍のビクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉、当時二十九歳のエリート・パイロットだった。彼はアメリカへの亡命を求めた。ソ連脱出からアメリカ亡命への中継地点となった日本は国際政治の、触れれば切れるようなきびしい現実の葛藤にいやでも巻きこまれていった。


 いまからみればベレンコ中尉の亡命が日ソ関係に与えた影響はものすごく大きい。両国関係のひとつの転換点(ターニング・ポイント)を画したとさえいえよう。


 渦中の人ベレンコ中尉は九月九日夕にはもう日本を発ち、アメリカへ向かっている。ほんの三日余りの滞日だった。日本にとって、また日ソ関係にとって、前例のない大事件をひき起こした張本人は、疾風のように日本に着き、また去っていったのである。


 日本でのベレンコ中尉は、当然のことながら一般の目から完全に隔離されつづけた。移送される際にたまに外部にさらされた彼の姿も、いつも上着を頭からすっぽりかぶったり、大きな帽子やサングラスをつけたり、表情の一端さえうかがうことはできなかった。


 日本であれだけの大事件を起こした主人公は、肝心の日本国民にとってすべて謎のまま、姿、形さえろくに見せずに消えていったのである。日本側としてはぜひ一度はその主人公の言を聞きたいところだ。



 極東ソ連軍人は日本をどう見ているか


 私はワシントンで特派員として在勤中に、ベレンコ氏が議会の特別承認を得て、普通よりずっと早くアメリカ市民権を取得したことを知った。八一年四月のアメリカ議会の公式議事録にはその旨きちんと記されていることが後にわかった。その記録には、ベレンコ氏の「アメリカの安全保障への貢献が非常に大である」がために、議会が特別基金を設けて彼のこんどの生活をある程度、扶助することを決めた、とも書かれていた。


 アメリカ議会のこうした動きのためにベレンコ氏自身もしばしばワシントンに来て、上下両院の司法、軍事両委員会や情報特別委員会の議員、スタッフと接触していることを聞いた。いくつかの委員会の秘密聴聞会で証言していることも後で知った。


 アメリカ側関係者との接触がこれほど頻繁ならば日本人ジャーナリストとのインタビューも不可能ではないだろうと考え、ベレンコ元中尉との単独会見をずっと狙いつづけた。


 ベレンコ氏にインタビューすることの意義をさらにまた一段と高めたのが、ソ連による大韓航空機撃墜事件である。ベレンコ元中尉は、まさにKAL機を追跡し撃ちおとしたソ連極東の防空軍のパイロットだったからだ。それだけではない。彼はKAL機に襲いかかったソ連の迎撃戦闘機スホーイSU15のパイロットだった経歴もある。


 多方面のチャンネルをあたりつづけた結果、最近ついにベレンコ氏と電話で話をすることができた。私がまたワシントンを訪れている時である。日本のジャーナリストとしての関心の深さを懸命に説明し、インタビューに応じてもよいという答を得た。ただしテーマはあくまで日本への強行着陸前後の実情を中心とする、ということだった。インタビューの場所は西海岸のどこかで、ということに決まった。


 こうしたいきさつで実現したのがビクトル・イワノビッチ・ベレンコ、いまはアメリカ国籍のビクター・ベレンコ氏との単独インタビューである。彼が日本人記者の前に姿を現わしミグ25での函館への飛来などについて語るのはもちろん初めてだ。ソ連の極東の軍人たちが日本をどんな眼で見ているのかを知るにも、彼の証言は貴重である。


 会見の場所はシアトル市の国際空港すぐ近くのホテルとなった。シアトルに着いてからもう一度、電話で連絡を取り合って、私が彼のチェックインしているホテルをまず訪ねるという形をとった。


 私はベレンコ氏が整形手術で容貌を変えてしまった、などというウワサを日本で聞いていた。亡命以来七年余り、少なくとも日本に向けては完全に姿を消したままなのだから、そんな話もいちがいにデマだと否定し去ることもできない。


 緊張と好奇心で胸を高ならせながら彼の部屋のドアをノックした。さっと開いたドアの内側に立っていたのは金髪のなかなかハンサムな男だった。身長は百七十センチを少し越すだろうか、それほど高くはない。だが肩幅が広く、胸や腕の筋肉が盛りあがり、精悍である。よく陽焼けしていかにも健康そうだ。ジーンズにスポーツシャツ、一見したところアメリカのどこにもいそうな好青年といったふうである。もう三十六歳ぐらいになるはずだが、それより若くみえる。


 顔を見るとまぎれもなくベレンコ元中尉だった。亡命当時、公表されていたソ連当局撮影の顔写真とぴったり符合している。日本の新聞に何枚も出た帽子やサングラスをつけての写真の姿とも同じだと感じた。整形手術などの形跡は露ほどもない。


 彼は自己紹介し、こちらの手を痛くなるほど強く握った。快活そうな笑いをみせて、こちらの顔を真正面から見つめながら話す。英語は電話での会話でもすでにわかってはいたが、強い訛はあるものの、かなり流暢に話す。亡命当時、全然できなかったというから大変な進歩である。


 その部屋でしばらく話をしてからホテル内のレストランに席を移した。二人で食事を一緒にしながらインタビューをつづけよう、ということになったのだ。ゆったりと広い、典型的なアメリカ風のレストランは八分ほども客が入っていた。周囲に何組もの客がいる中で質疑応答を継続した。インタビューの時間は結局、通算して四時間以上となった。


 ベレンコ氏は冒頭に、私が質問を始めようとするのをさえぎって、これだけはまずぜひ述べておきたいと言った。

「日本のみなさんにあんな形で迷惑をかけてとても申し訳ないと思っています。なおかつ日本の関係者からは丁重で手際のよい扱いを受けた。このことに心からの感謝をここでまず述べたいのです」


 そのうえでベレンコ元中尉は「さあなんでも尋ねて下さい」と体を乗り出した。



 捕捉しに来なかった日本の迎撃戦闘機


 ――さて日本の函館にあんな形で着陸したのはなぜなのか。本来はどこにどのように着こうとして飛んできたのか。そのへんからまず話して下さい。

「日本の航空自衛隊の千歳基地をもっぱら目標としたのです。ミグ25の航続距離を考えると、燃料を百パーセント積んで飛んでも、到達できる軍用飛行場は千歳だけだった。それが最善であり、まず唯一の日本への脱出方法だと思っていたのです。飛行計画はすべて千歳を目標にして作りました。天候さえよければ計画どおりに飛ぶ自信が十分にあった。ところが日本領空に入り、北海道南西部の海岸線上空まで来て千歳方向を眺めると、厚い雲がかかっている。雲の中には高い丘のような山がいくつもある。山の高さはわからない。すべて自分の肉眼での飛行だったから、そのまままっすぐ、千歳方向へ飛んで行って着陸しようとすれば、視界のきかない中で山にぶつかる危険があるな、と判断したのです」


 ベレンコ氏はここで私に北海道の地図を持っているか、と聞いた。私が「ない」と言うと白い紙の上に自分で略図を描き始めた。(しやこ)(たん)半島の基底部あたりから南へ、北海道の南西部の地図である。曲がりくねった海岸線などをわりに細かく描いていく。地形を頭の中にたたきこんでいたのがよくわかる。

「仕方なく千歳への直進をあきらめ、視界のきく海岸線に沿って南に飛び始めたのです。南から迂回してなお千歳へ行ける可能性もあると思った。海岸沿いにもいくつか街があることは知っていたから飛行場があるだろうと期待した。千歳が駄目ならそういう飛行場に降りてもよい。もしそれも駄目ならハイウェーを見つけて着陸すればよいとも思った。日本にはとてもよいハイウェーが各地にあることはよく知っていたんです。でもこの間、私が最も待ち望んでいたのは日本の航空自衛隊の飛行機の出現だった。日本の領空を飛びつづけているのだから当然、日本の軍用機が出てきて捕捉してくれるだろうと期待していた。


 ところがこれが全然、現われてこないんですね(笑)。当初の私の計画がそもそも日本のファントム(F4EJ戦闘機)の緊急発進を受けて、捕捉され、千歳基地へ誘導されて着陸する、という予定だった。千歳を目ざしたといっても日本側の迎撃の戦闘機につかまることがあくまで前提だったのです。だけれどもその当てにしていた日本のファントムがいつまでたっても飛んで来ない。これには正直言ってびっくりしましたね(笑)。だから計画を変更して、あんな形で函館に降りてしまったのです」


 ――いきなり日本の領空に飛びこんでくれば日本側から攻撃を受けるなどとは考えなかったですか。

「それは心配しなかった。なぜなら日本側の飛行機と遭遇した時の国際シグナルを私は完全に知っていたからです。迎撃を受ければ、こちらには攻撃の意図など全然なく亡命したいのだ、ということをすぐに告げることができる。そして日本側の指示に従って着陸すればよいわけです。私は燃料を節約するためにそれほど速くないスピードで飛んでいた。だからすぐに探知され、日本のファントムが目の前に現われてくることには、なんの疑問も持っていなかった。あれほどファントムを待ちこがれたことはありませんね。それまではソ連の防空軍で日本やアメリカのファントムは強力な敵としてみてきた。ファントムと戦闘するための訓練もずいぶん受けていた。ところがあの日はその“敵”が私のところにやってきて助けてくれるのを、いまかいまかと待ち受けたんです(笑)」


 当時の新聞報道によると、日本側はベレンコ中尉のミグ25を一度はレーダーでとらえたが、その後、見失っている。再びキャッチしたのはミグが函館北西三百キロほどを低空で飛んでいる時だったという。だがそれも束の間ミグはまたレーダースコープから消えた、とされている。スクランブルもかけられF4が千歳から飛び立つことは飛び立っていた。


 ――しかしあんなふうに侵入してきた外国の軍用機に対し迎撃の態勢をとらないというのは、プロの軍人の立場からみてやはりおどろきなのですか。

「いやあ、はっきり言って日本側の迎撃機が出てこないとは、信じられなかったね。私がもし爆弾でも落とすつもりがあれば、一体どうするんですか。あの時、日本の防空体制になにか不備が起きたのでしょうかね。航空自衛隊の内部にいろいろな役所仕事の複雑な問題でもあって、スムーズに反応できなかったのでしょうかね。私は亡命に際し、はじめはソ連側のレーダーに発見されないよう海面すれすれを飛んだ。だが日本に近づいてくるとぐっと高度を上げ、マッハ0・8ほどのスピードで北海道めがけて直進したんです。日本側からみれば、ソ連の方向からマッハ0・8の速度の飛行機が自国の領空に向かってまっしぐらに突き進んでくるというのはものすごく異常な事態のはずです。なのに迎撃の態勢がとられない……いや、この点はあまり言わない方がよい。アメリカに亡命してから私はこの日本の防空体制についてつい口をすべらせてひどい失敗をしているのです」



 日本には防空体制などない


 ――「失敗」とはどういうことですか。

「アメリカに受け入れられて間もなくのことです。ワシントンで日本の自衛隊の制服の幹部と会う機会があった。もちろんアメリカ側の関係者もまじえてです。この時に日本のその自衛隊高官が『日本の防空体制についていろいろ尋ねたい』と言うから、私はいきなり『防空体制? 日本には防空体制などないではないですか』とつい言ってしまったんです。正直な感想を述べただけだった。だけどその自衛隊幹部は顔色を変えて怒ったね(笑)。これはまずかった。私としては実際の体験にもとづいての考えを率直に語っただけなのだけれど、やはり礼儀というものがある。アメリカ側の関係者からもたしなめられました。私もあとで反省しました。その自衛隊幹部にも謝った。とても感じのよい人物なので、あとでなおさら気がひけましたね」


 ここまでの応答でもわかるように、ベレンコ元中尉は物事をきわめて明快に語る、あけっぴろげにみえる人物である。どの質問にもずばりずばりと臆せずに答える。直情径行タイプという印象さえ与える。


 それになによりも強く感じるのは彼がすごく明るいことである。時にはアメリカのスラングまでまじえて冗談を言い、よく語り、よく笑う。亡命の影などという暗さを露ほども感じさせない。事実、私がこれまでに会った数多くの亡命者のだれよりもずっと明朗快活である。ベレンコ氏自身も「とにかく私は飛行機の操縦しか知らない軍のパイロットとして育ったから複雑な政治の話など苦手なのです」とあっさり語る。


 ――日本ではあなたが過去を隠すために整形手術をして顔を変えてしまった、などというウワサもあります。

「私もそんなことをちらっと聞きましたよ。他の国では、私が整形手術に失敗したということなのか、顔が滅茶滅茶になっているんだ、などというウワサもあるそうです(笑)。見て下さい。この通り、私の肉体は生まれてきた時のままですよ。もっとも虫歯のために歯を数本抜いたことはあります(笑)」


 ソ連防空軍にまだいたころ、彼は軍の宣伝のためのモデル・パイロットとしてテレビに出されたことがあるという。なるほど、金髪、青い目、愛嬌のある笑顔、ひきしまった体軀……という彼の外見はいわゆる“カッコよいパイロット”のイメージにぴったりでもある。


 ――アメリカに来てからの生活は?

「まず英語を学ばねばならなかった。言葉にはずいぶん苦労しました。それからもちろんアメリカの政府や軍の当局者に、私がソ連防空軍について知っていることを全部、語る必要があった。とくにソ連の戦闘機やパイロットの実態についてアメリカ空軍のパイロットたちにくわしくブリーフィングをしました。そのためには数多くの基地を訪れ、軍の人たちとの会合を重ねた。いまはアメリカ国籍を取って、ソ連やロシア語の知識を最も効果的に使えるような仕事を、ある民間機関のためにコンサルタントしてやっています。アメリカにとってソ連は最大の重みを持つ国だけれども、内情を知っている人間はごく少ない。ロシア語が完全にわかる人間も少ない。軍の内部のことはとくに知られていない。この点、私の出身とか経歴はとても大きなプラスとなるので、それを活用して働いているわけです」


 ――私生活は?

「アメリカ人の女性と結婚しています。つい最近、男の子ができました。いまは自分の家の増築を自分でやっている。私はもともとそういう仕事が好きなので余暇に趣味として大工になるのです。でも家を一人で増築するにはものすごい分量の作業をしなければならない。趣味としてはほかにスキーもやるし、釣りも好きです。運動のためにジョギングもする。とにかく私はいますごく幸福です。自分の人生に完全に満足しています」


 亡命者の強がりもやはりあるのだろうか。だが少なくとも表面的には彼はいかにも楽しそうに現在の生活を語る。妻となったアメリカ人女性との出逢いからデート、恋愛、同居、結婚というプロセスについても、みずから進んで、その時その時の自分の心情を説明しながらこと細かに語った。ソ連からの亡命者という特殊な人間との結婚について、相手のアメリカ女性がどんな考え方をしていたか、などもベレンコ氏は熱心に話してくれた。


 だが彼は写真を撮りたいという私の要望には応じなかった。何回か言い方を変えて頼んでみたがだめだった。現在の生活や仕事の場所についても具体的な地名は明かせない、と言った。話の前後から察すると、西海岸のシアトルから飛行機で二、三時間の距離の、中部のどこかにふだんは住んでいるらしい。



 海面すれすれの超低空飛行


 ソ連からの脱出時の模様に話をもどすことにした。


 ベレンコ中尉が当時、所属していたのはソ連防空軍の第五一三戦闘機連隊である。駐屯地はウラジオストック北東百九十キロほどのチュグエフカという小さな町の近くだ。ベレンコはこの戦闘機連隊の第三飛行中隊の副隊長だった。


 七六年九月六日の朝、チュグエフカの近くにあるサハロフナ航空基地からベレンコ中尉は僚機のミグ25とともに飛び立った。目的は演習ということになっていた。


 演習計画では、まず基地から東へほぼ直線に飛んで海上に出る。ソ連海軍の艦艇がその海域にいて標的となる無人機を飛ばす。ベレンコ中尉らのミグ25がその標的に向かってミサイルを発射する。こうした手順で、ミサイルの発射練習が主眼だった。その後には別な空域へと移って迎撃飛行の訓練をすることになっていた。それが終わればいつものように計器飛行で基地へ帰投する予定だった。


 ベレンコ中尉は燃料を節約するために通常よりやや遅いスピードで、高度六千二百メートルまで上昇した。訓練空域に入った。僚機のミグ25が何機か視野に映る。そこで彼は三百六十度の旋回をした。地上管制塔も当然、予期している動きだ。その直後から予定のコースを少しずつはずれ、高度をじわじわと下げた。急に下降すると周囲の注意をそれだけひきつけやすくなる。

「ソ連領空からうまく離脱するには、超低空を飛ぶのが一番よいことを知っていました。だから予定のコースを外れると間もなく、高度を少しだけゆっくりと下げてから、こんどは空中ダイビングのような急降下をしたのです。垂直に落下していくような感じだった。地表に向かって衝突していくような急激な下降です。高度三十メートルのレベルまで降下して、機首を水平に立て直しました。これほどの低空になると地対空ミサイルの攻撃を受けることもない。地上に配備されている対空砲の砲火に撃たれることもまずない。レーダーに探知される確率がとても小さくなるのです。


 日本海上へと飛んだところで機の緊急発信ボタンを押した。その発信は機が間もなく墜落しそうだという合図を意味していた。そしてその後四十秒ほどたってからその発信を止めた。緊急信号を受けていた方は、それがとだえたのだからきっと墜落したと考えるだろう、という計算です。そしてレーダーその他電波を発信するような装置はすべてスイッチを切りました。ついでに無線受信装置もとめてしまった。これはなにも発信するわけではないが、ソ連側の言っていることを聞いて万が一にも自分の決心が鈍るようなことがあってはならない、という自分への戒めでした。そういう超低空で北海道の南西部をめざして飛びつづけたのです」


 ――超低空というのは海面から五十メートルくらいですか。

「いやいや、機内の高度計は水面よりも下を指していたくらいだからね。十メートルか十五メートルだと思います。まるでモーターボートに乗って疾走しているような感じでしたよ。なにしろ高波がすぐ目の前に見えるのだからね(笑)」


 ――そんな低空飛行をどのくらいつづけたのですか。

「二百キロか二百五十キロでしょうね。それから高度を上げて、海面から八千メートルほどまで昇ったのです。その時のスピードがマッハ0・8、これは燃料消費を少なくする経済速度なのです。ミグ25というのはもちろんマッハ2ぐらい軽くでる。2・7とか2・9とか、マッハ3でも飛べることは飛べる。でもそのへんの速度になるといろいろな支障が起きがちなのです」


 ベレンコ中尉が海面すれすれの超低空飛行から機首をもたげて、高度八千メートルに昇った時に、日本の自衛隊のレーダーがキャッチしたわけである。彼が言うようにソ連の方向から国籍不明機がマッハ0・8で直進してくるというのは、日本側から見てきわめて異常な事態だったのだ。



 とるにたらない日本の空軍力


 ――千歳への直進をあきらめた後は、もっぱら南へ海岸沿いに飛んだわけですね。着陸地点を途中で捜すよりも、まず迂回してなお千歳を目ざそうとしたのですか。

「最初はそのつもりでした。でも燃料が底をついてきたのです。ミグ25はそもそも一時間以上、飛びつづけると燃料が少なくなります。半島のさらにまた小さな半島のような陸地の上を東へ飛ぶと、また海上に出たので、こんどは北の方に見える陸へ向かって飛行しました。そのうち燃料の残りがすでに非常レベルに達したという信号が発せられた。あとはもうとにかくどこでもいいから着陸できそうな所へ降りようと必死になりました。燃料がいよいよ少なくなると機体が軽くなるのがわかります。機体が軽くなると操縦にまで影響が出て、それだけ多く神経を使わねばならない。それに燃料が非常レベル以下になるとエンジンがいつ止まるかわからない。私もそうなると命がけですよ。着陸以外のもうひとつの方法は機内からの空中での離脱です。パラシュートに頼って脱出するわけです」


 ――そんな時にちょうど函館空港が見えたのですね。

「ええ、私はまたどんどん急降下していました。雲の下に出たら飛行場が見えたのです。滑走路がちょっと短いなとは思ったけれどもう構ってはいられない。私も飛行歴は長かったが、そんな緊急着陸はやったことがないからそれはもう必死でしたよ(笑)」


 ――突入先となる日本についてはどの程度の知識があったのですか。とくに迎撃を受けるはずの日本の航空自衛隊については実態を細かく知っていたのですか。

「ソ連軍は、もちろん日本の自衛隊のすべての基地の位置や規模、駐屯部隊の兵力、訓練の種類など熟知しています。精密な日本の軍事地図があり、航空自衛隊のどんな飛行機がどれほどどこにいるかもむろんわかっている。また日本とアメリカの間には軍事面で密接な協力関係があることも当然、私は知っていた。だから日本の戦闘機パイロットもアメリカ軍並みの技術があるだろうと思っていました」


 ――日本領空に入ったら米軍機に遭遇したり、捕捉されたりという可能性は考えなかったのですか。

「日本の飛行機にインターセプトされるだろうと信じていました。アメリカ軍の飛行機が日本国内の基地にいることも知っていたけれど、もっとずっと頻繁に基地から基地へ飛んでいる日本のファントムが必ず出てくると思っていたのです」


 ――そもそも日本の自衛隊とくに航空自衛隊は、ソ連の空軍、防空軍からどのように評価されているのですか。防空軍のパイロットだったあなた自身の当時の認識でもいいです。

「そう、日本の空軍力はソ連にとってはとるに足らない、というのが率直な認識ですね。たとえばです、ソ連の各地にある軍の飛行訓練学校、これら学校にある練習のための軍用機を合わせただけで日本の航空自衛隊よりも大きな航空兵力となる。実戦用に配備されている空軍力はまったく含まず学校にある飛行機を合わせただけで日本よりも強力なのです。ソ連空軍にとって日本のいかなる都市に対しても空からの攻撃を加えるのは、技術的には実に容易なことです」


 ――でもソ連は少なくとも公式論評ではよく日本が軍事的脅威になりつつある、と非難します。

「それは政治的な口実ですよ。ソ連のような政治体制にとって、極東でソ連に対する脅威があると主張して緊張をつくっておくことは、国内政治の面で大きなプラスになります。国内の諸問題が薄められる効果がある。日本はそれには格好の材料です。なにしろ日本はソ連を攻撃した歴史があるのだから、『またやるかも知れない』というプロパガンダはそれなりに説得力を持ちます。ただしソ連には歴史にもとづく外部世界に対する根強い不信というのがある。軍隊だってそうです。とにかく外部のだれのことも信用しないのです。第二次世界大戦でソ連はなにしろ二千万人もの国民を失いましたからね。そのほかにもずいぶん戦争に巻きこまれている。そうした過去の経験にもとづいて外国を一切、信用しないという体質があるのです」


 ベレンコ氏は「複雑な政治の話は苦手です」とは言っていたものの、このぐらいの政治色のテーマには身を乗り出し熱をこめて語る。ミグ25という最高の軍事機密をゆだねられた成績優秀なパイロット、しかも共産党員だったのに亡命という特異な道を選んだのだから、まったくのノンポリでありうるはずがない。


 ――日本について政治面では当時どんな予備知識がありましたか。

「かなり力の強い平和運動があるということを読んでいました。共産党がある。その他の政党がある。政党間では絶えず衝突がある。一つの政党の内部でももめごとが多い。ソ連は当然自分たちのイデオロギーを支持する日本の政党をほめ、他の政党をけなしていた。日本の多数派はアメリカと緊密な関係を保つ政策を支持していることも私は知っていた。また日本社会は全体として非常に発展し、国民は勤勉で優秀なことも十分、想像がついていた。以前に日本製のテープレコーダーを手にとって見たことがあるのです。だから日本のテクノロジーがすばらしいことを知っていた。ただしソ連の新聞などは東京の大気汚染のことをしょっちゅう報じていた。


 オートバイに乗ったギャング集団についても伝えていた。とくに東京の大気汚染はものすごく、女性などマスクをしなければ外出できないと伝えられていたので、私もなかばそれを信じていた。後でごく短い期間ではあったけれど、東京に行ってみて空気の状態もモスクワとたいして変わりないのを知り、なあんだと思いましたね。とにかく日本の政治状況その他、総合して、日本に着陸さえしてしまえば、あとは安全だと思っていました」


 ――日ソ関係では日本の北方領土の問題がいつも最大の懸案とされているけれど、それについてはどんなことを聞いていましたか。

「千島列島のことですね。軍隊内の政治教育の時、よくそれに関する講義を聴きました。領土などというのはどの国も自分勝手な理由で主権を主張する。どんな小さな島でも一度、ソ連領になったものを返還したりすれば、他の領土についても次々に返還要求が出てきてきりがない。千島列島もソ連がそれを確保しておくことは絶対に重要なのだ。まあこんな趣旨の講義ですね。それに千島の場合は有事の際の軍事的な利用価値が非常に高いとされています」


 このへんの彼の言はとても示唆に富んでいる。私たち日本人が北方領土問題やソ連の対日姿勢を考えるうえで貴重な指針ともなろう。


 ――ソ連は北方領土にもここ数年あらたな部隊を配備していますね。

「ええ、空軍基地もあります。私がソ連防空軍にいた時はミグ17が二個飛行中隊、配備されていたはずです」



 白旗をあげて係官がやって来た


 まだこのへんはホテルの部屋でのインタビューである。室内の丸いテーブルをへだてての会話だ。私は正確を期すためにテープレコーダーを使うことを希望し、ベレンコ氏は最初やや渋ったが結局は同意した。

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