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プロ野球 運命の引き際
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第I部 投手・捕手編

『プロ野球 運命の引き際』
[著]近藤唯之 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間53分
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野村克也 渡辺秀武

古田敦也 尾崎行雄

大橋 勲 後藤 修

稲尾和久 加藤哲郎

金田正一     


野村克也──代打を送られた「努力の人」の胸の(うち)


野村克也(のむらかつや)

1935年6月29日生まれ。京都府竹野郡網野町(現・京丹後市)出身。峰山高を経て、54年、テスト生として南海に入団。

61年より8年連続本塁打王、65年には戦後初となる三冠王を獲得する。その後、ロッテ、西武と渡り歩き、45歳まで現役としてプレーし続け、80年オフに引退。引退後は解説者を経て90年にヤクルトの監督に就任。9293年はリーグ優勝、939597年には日本一に輝く。99年には阪神の監督になるが01年に辞任。02年に社会人のシダックスでゼネラルマネージャーに就き、06年より楽天の監督に就任した。

ヤクルト監督時代についた、データに基づいた戦術は「ID野球」といわれて野村の代名詞となり、また、「野村再生工場」とも呼ばれる選手育成術は卓越しており、著書も多い。生涯成績は2901安打、657本塁打、打率.277。華があった長嶋茂雄を「ひまわり」にたとえ、自分を物陰にひっそりと咲く「月見草」と称したところに野村独特のユーモアが現れている。



「地球一周論」の第一人者、野村の幼少時代


「富士山頂論」対「地球一周論」──。


 これは代表的な日本人男の人生論だという。


 ひとりの男は富士山頂三七七六メートルを目指して、一歩、一歩、また一歩とのぼりつめていく。途中でどんな苦痛、障害が待ち受けていようが、この男の視線の先には富士山頂しかないのである。仕事の人間関係、女房、子供を背負って歩く世間の重み、測り知れない苦しみを押しのけて、男はのぼっていくのだ。


 のぼり切ると山頂から、眼下に流れる白雲をながめて、

「この征服感、満足感は山のぼりをしない者にはわからない」


 などと、男は酒に酔ったような気分にひたる。

「地球一周論」はこの「富士山頂論」とは全く反対なのだ。「地球一周論」の男は赤道の上をぽこぽこと歩き出す。長い時間をかけて地球の裏側にたどりつく。だがこの男はまた歩き出す。やがて出発点までもどってくると、この男はこういいだした。

「出発地点にやっともどってきた。これでオレの人生は完結した。人生はぐるりと一周してこそ完結なので、途中で歩くのをやめたら、それは人生の放棄につながっていく」


 富士山をのぼりつめるのか、地球をぐるりと一周するのか、どちらも中途半端な気持ちでは達成できない。どの道を歩いても、男が生きていくのはつらい。



 私は男と女ではどちらが偉大なのかと思うとき、女がすばらしいと本気で思う。次代につないでいく子供を産めるからだ。男は子供を産めないが、女は産める。この現実を前にして、私は男対女の勝負は女のKO勝ちだと脱帽するのだ。しかし男と女は生きていくのに、どちらがつらいのかと考えると、本当は男のほうがはるかにつらいと思う。


 私はなぜ、野村克也捕手(南海、西武など)を伝えるのに、富士山頂と地球一周の話を書いたのか。それは創設以来七十余年間におよぶプロ野球史上、野村こそは地球一周論の第一人者だからである。


 野村の父親要市は昭和十三(一九三八)年、日支事変の真っ最中の中国戦線で病死した。野村要市だから、一字ずつとって“野要商店”という名前の食料品店を経営していた。要市が戦死したとき、野村は三歳である。昭和十八(一九四三)年、こんどは母親ふみが子宮ガンで倒れた。父親が死んだあと、五年後に母が倒れたのである。生命はとりとめたが、店をきりもりするなど、夢のまた夢なのだ。ふみは入院、退院をくりかえし、野村と実兄のふたりは親類や他家を転々とした。


 これは余談だが、のちに野村に長男が生れたとき、野村は心酔していた比叡山の高僧に、長男の名前をつけてもらった。誕生後、三日間がすぎると高僧は半紙に毛筆の太い線で、

「陽一」


 と書いた。


 野村はいい名前だと感動し、ふみに半紙を見せた。するとふみは腰を抜かして、大声で叫んだそうだ。

「私の死んだ主人が要市で、私の孫が同じ発音の陽一って、町役場が許してくれるのかしら──」


 この話を聞いて、私は中国戦線で土に還った要市の、息子や孫に対する強い恩念のようなものを感じるのだ。要市の恩念が比叡山の高僧に乗り移り、陽一と書かせたと思う。


 私ごとで申し訳ないのだが、私の父親(ただ)(いち)が昭和四十九年六月、八十四歳で他界した。この直後から私の日常生活のなかで、次々と不思議な現象が起きた。


 たとえば講演を頼まれて現地に行ってみると、会場に縦二メートル五〇センチ、横五〇センチほどの白紙がたれ下っている。

「特別講演 プロ野球・誰も知らない話 講師・近藤唯一殿」


 つまり講師は私ではなく、私のおやじになっている。主催者はまるで気がついていないのだ。だいいち主催者は私のおやじの名前など、知るよしもない。それまで唯之が唯一になっていたことは一度もなかった。最初のうちは私も面倒くさいのでとぼけていた。ところがそれから約三か月間、十数回こなした講演のうち、八、九回も唯一、唯一と攻めてくる。その日も私は唯一になっていた。たまりかねて主催者の幹事に事情を説明した。真っ青になった幹事は、どこかへすっとんでいった。

「うちの会社を定年でやめたOBに毛筆の名人がいましてね。講演会ではかならずそのOBに講師の名前、タイトルなどは依頼しています。近藤さんの場合も略歴をOBの自宅にファクシミリで送る。すると講演日の前日にOBが会社に届けてくれる。いつものパターンです。OBはいま電話でこういいました。略歴にはちゃんと唯之と明記してありました。だから私も正確に唯之と書いたつもりなんですが──。どこで唯之さんが唯一さんに変わっちゃうのですかねぇ」


 幹事はいま電話でやりとりしたOBの話を、顔色を変えて伝えるのだ。


 唯一は左官業の親方である。群馬県から十三歳で上京、壁を塗りつづけて六十年という、国宝級というか、頑固者が(はん)(てん)を着ているというか、私の人生にとって最大の“壁”であった。

「長男のお前が左官屋にならないと、この家は滅びる。家が滅びたらお前どうするんだ」


 これがおやじの「長男あとつぎ持論」で、私が中学一年生から二十二歳で社会人となるまでの約十年間、朝に晩に雷が落ちるほどに説教された。私も職業自由論をかかげて反論、あるときは熱く、あるときは冷たい親子喧嘩は近藤一族の名物になった。


 このおやじが八十四歳で死んでも、講演先の紹介状にほとんど毎回のように顔を出す。年賀状にも近藤唯一様という葉書が毎年十枚か二十枚、元日そうそうに私をふるえあがらせる。


 野村の長男の名前が陽一となりかけ、私の名前が何回も唯一となるのを見ていると、人間には間違いなく、怨念というものがあると思いたくなる。


 私は高校時代、あるとき親友の前で泣いた。あのおやじを殺してオレも死ぬと叫んで泣いたのである。たまりかねた親友が、オレがおやじさんにかけ合ってやると自宅にきた。私が外で待っていると、三十分ほどして親友が呆然とした顔で出てきた。友人は私に一言いった。

「ダメだ。話にならない。オレがお前だったら自殺するよなぁ」


 おやじは目の前にいる私の友人に本気でこういったそうだ。

「男は正月の一日、盆の一日、一年間のうち合計二日間だけ仕事を休めばたくさんだ。あとの三百六十三日は朝から夜まで働らく。ただただ三百六十三日間、働らけばいい」


契約金ゼロから球界随一の大打者へ



 昭和二十八(一九五三)年十二月上旬、当時の南海ホークスは大阪球場で入団テストを行った。応募者三〇〇人、合格者は投手二人、捕手四人、外野手一人の七人しかいない。合格率二・三%である。二十九年の南海の全選手四十三人、内訳は投手二十人、捕手六人、内野手八人、外野手九人である。二十人も投手がいたら、捕手は最底でも六人は必要なのだ。だが、この時点で南海には捕手が五人しかいない。


 すると鶴岡一人監督がボソッと一言、

「あの体のでかいの、カベ用にとっとけ」


 カベ用とはブルペンでの練習用専門捕手を指す。人間ではない。野村は壁として入団した。当時の野村は身長一メートル七六センチ、体重八二キロ。いまプロ野球選手の平均値は身長一メートル八一センチ、体重八三キロである。


 野村は峰山高から南海へ契約金ゼロ、一切のプラス条件もない。初任給五〇〇〇円。野村はこの五〇〇〇円の中から母親ふみへ生活費として二〇〇〇円を送り、また一〇〇〇円を合宿費として球団に差し出す。残り二〇〇〇円は育ちざかりである身にとっては、泣きたくなるほど腹が減ったとき、カツ丼やトンカツライスなどで消えていく。これでは上下揃いの背広など買える道理がない。だから野村は合宿から本拠地大阪球場まで学生服のまま、南海電車に乗っていくのだ。


 これで野村は実働二十六年間、試合数三〇一七、MVP賞五回、日本プロ野球史上、三冠王第一号、首位打者一回、本塁打王九回、打点王七回、ベスト・ナイン一九回、正力松太郎賞一回、最多出場試合三〇一七、通算最多サヨナラ本塁打一一回、通算本塁打六五七、通算安打二九〇一、終身打率二割七分七厘──。


 創設時点からいままでプロ野球選手は約一万人近くいるが、これほど必要経費をかけないで、収穫の多かった男はいない。


 永遠に残る野村名語録に、

「オレは日本海の夜に咲く月見草。長嶋茂雄は昼に咲きほこるひまわりの花」


 というのがある。


 しかしある意味では、こういう話も出てくると思う。

「オレは球団に一円の金も使わせずに球団をもうけさせた」


 つまり、野村は球団に資金をかけさせずに大金持ちにさせたのである。



 昭和五十五(一九八〇)年九月二十八日、西武ライオンズ球場で西武対阪急後期一〇回戦が行われた。阪急の八回表が終わった時点で、スコアは四対一、阪急がリードしている。男の人生はいつ、どこで、なにが起こるのかわからない。人生の大逆転がなんの前触れもなく、なに気ないまま、風が吹くようにやってくるのだ。


 西武は八回裏、スコア四対三と追いあげ、なお一死後、三塁走者は土井正博一塁手、一塁走者は立花義家中堅手、打順は八番野村に回ってきた。野村はこの場面で安打はいらない。ポンと外野飛球を打ち上げれば四対四の同点になる。梶本隆夫監督(阪急)もこのあたりは心得ていて、野村のところで二人目の山口高志投手を三人目の関口朋幸投手に交替した。野村の打撃術の中で、あまり目立たない名人芸がある。“犠飛”一一三本という日本記録なのだ。走者を三塁まですすめたとき、テレビのアナウンサーは軽い調子でしゃべる。

「打者は外野飛球でいいんですから──」


 簡単にいってもらっては困る。この場面で一発犠飛が欲しいというところで、八〇~九〇%犠飛を打てる打者は、プロ野球史上、ほんの数人しかいない。野村、加藤英司外野手(南海)、王貞治一塁手(巨人)、門田博光外野手(ダイエー)、張本勲外野手(ロッテ)たちである。野村は一一三本、加藤は一〇五本、王は一〇〇本。本塁打八六八本の世界記録を持っている王だって、二八三一試合でたったの一〇〇本なのだ。

「犠飛の極意はひとつしかない。横のカーブに対して、おくれ気味にバットをポンという要領で出す。まず間違いなく右翼方向に舞いあがりますね」


 野村はいう。書けばなんの話にもならない。が、「おくれ気味にバットをポンと出す」というあたりは、なにやら落語の名人芸の感覚である。


 この犠飛名人野村のところに打順が回ってきた。野村はしめたと思った。おくれ気味にバットをポンと出せば四対四の同点になる。それどころか自分の存在感をアピールできる。野村は体中からオーラをふき出すように、一塁側ダグアウトを出ていった。


 ところがその野村より三メートルほど先を、根本陸夫監督(西武)がすーっと歩いていく。


 なんと根本は主審村田康一に一言、伝達したのである。

「野村の代打鈴木葉留彦──」


 野村は入団以来、二十五年間を通じて、自分の打席で代打を送られたことは一度もない。二十五年間におよぶプロ野球選手生活のなかで、初めての屈辱的な体験である。体中の血がスーッと引いていくのが自分でわかった。


 さて、野村が本当に現役引退を心にきめたのは、自分の打席で初めて代打を送られたことではない。実はこの直後の、三十秒前後の時間内で現役引退をきめたのである。


 男の運命なんて、悲しいものだと思う。ゼロから始まったプロ野球生活、そして二十年間以上もの時間をかけて大輪の花を咲かせたというのに、三十秒間で大輪の花がしおれてしまうのだ。


 代打鈴木が左打席に立つと、一塁側ダグアウトの二列目に腰を下ろしていた野村は、胸の内でつぶやいていた。

「犠飛の名人はこのオレなんだよ。オレは犠飛一〇〇本以上打っているんですぜ。鈴木に犠飛が打てるのかよ。いっそ遊ゴロか二ゴロで併殺になってしまえ」


 初球、鈴木のゴロは八木茂遊撃手の前にころがり、マルカーノ二塁手──加藤英司一塁手と転送され、あっという間に併殺は完成された。その瞬間、野村はまた胸の内でどなった。

「ざまあみろ。西武なんか負けてしまえ。オレに代打を出すからだ」


 試合は本当に五対三で西武が負けた。その晩、野村は眠れなかった。

「オレはたしかにタイトルをいくつも持っているスターだった。しかしいまは西武から給料をもらっている西武の兵隊にすぎない。その兵隊のオレが西武なんか負けてしまえと考えるようでは、もう勝負師でもなんでもない。ユニホームを脱いだほうがいい」


 こうして野村は昭和五十五年、シーズン終了と同時に現役引退した。ゼロからゼロへ一周したのである。


 われわれサラリーマンは仕事で失敗すれば、いやな上司に同僚の前で、がまんができないほど叱られる。そのとき、

「なんだオレだって、一年中汗を流して働いているじゃないか。それを見てくれないで、一回の失敗で文句をいうのか。こんな会社なんか、潰れてしまえ」


 胸の中でそう思うか、どうか。会社が潰れたら元も子もないのに──。


 野村はいま東北楽天ゴールデン・イーグルスの監督である。七十三歳で年俸一億五〇〇〇万円。プロ野球にはオフがあるから、一年を十か月として計算すると、野村の給料は一か月で一五〇〇万円である。おそらく七十三歳で給料一五〇〇万円はざらにはいないだろう。日本海の月見草どころか、東北のバラの花である。


 地味な見た目とボソッとした語り口、この男は月給一五〇〇万円をどのように使っているのだろう。


 私が野村を好きなのは、月給を一五〇〇万円もとりながら、負けるとすぐグチ始めるところだ。


 サラリーマンはだれだって思う。

「月給一五〇〇万円ももらっていて、グチるな。オレなら負けたあと、新聞記者にニコニコ顔でサービス談話を発表する。月給一五〇〇万円ももらったら、一〇〇メートルを一一秒で走ってみせる。本当だぜ。それにしても日本のサラリーマンの月給ってどうしてこう安いのかなぁ」


 そんなサラリーマンの声が聞こえてきそうだ。


古田敦也──選手会長として流した涙の理由


古田敦也(ふるたあつや)

1965年8月6日生まれ。兵庫県川西市出身。川西明峰高、立命館大、トヨタ自動車を経て、90年ヤクルトに入団。

立命館大3年の時、春秋連続リーグ優勝、4年では日米大学選手権に出場するなど、アマチュア球界でも名を馳せていたが、眼鏡をかけているなどの理由でドラフトにかからなかった。その後、トヨタ自動車に入社して、88年のソウル五輪で銀メダルを獲得。89年、ドラフト2位でヤクルトに入団した。06年からはかつての恩師・野村克也以来となる選手兼任監督に就任。しかし、07年のシーズンでは苦戦を強いられ、同年オフをもって現役・監督を引退。ベストナイン9回、ゴールデングラブ賞10回、正力松太郎賞1回、日本シリーズMVP2回など、輝かしい成績を収める。また、04年の球界再編問題においては選手会会長として、パ・リーグ6球団の維持に奔走し、やむを得ずストを決行。その時のリーダーシップぶりが話題となった。生涯成績は2097安打、217本塁打、打率.294。



戦前も活躍していたメガネの捕手



 平成十九年十月九日、横浜スタジアムで横浜対ヤクルト二四回戦が行われた。セ・リーグにとってその年の最終試合である。九回表、スコアは四対二でヤクルトがリードしている。ヤクルトの攻撃に移り一死後、五番リグス一塁手に打順が回ってきた。このとき三塁側ダグアウト中央から、ひとりの男が手あかにまみれた一本のバットを右手にぶら下げて、のそりと出てきた。


 当日、横浜スタジアムにやってきた観客は一万四四一八人である。その観客全員が自分の胸の内や、声に出してどなった。

「代打オレ──」


 代打古田敦也捕手兼任監督は、そのまま主審有隅の前まで歩き、右手人差し指で自分の鼻あたりをさわった。

「代打オレ」の伝達である。吉見祐治投手はボールカウント2─1後の四球目、内角高目の速球を投げた。古田は西崎伸洋左翼手の前にワンバウンドのライナーで打ち返し、十八年間にわたるプロ野球生活に幕を下ろした。ヤクルトファンだけではない。横浜ファンからも熱い拍手がおくられた。


 試合が終わると古田は球場のファンに本当にたった一言、謎のような挨拶をして、静かにグラウンドから姿を消した。

「皆様十八年間、ありがとうございました。またお目にかかりましょう」


 ユニホームを脱いだ古田はどこにいくのか。この原稿を書いている時点で、ふたつの情報が伝わっていた。ひとつは“フジテレビ系列”の解説者、あとのひとつはつぎの衆議院総選挙に民主党から立候補するというのだ。


 ただしどちらも噂の範囲で、本当のところはわからない。古田敦也四十二歳。男ざかりの彼にとっての現役引退は、男の人生第二幕の華やかな旅立ちである。



 話はいまから七十三年前のハワイに移る。私が六歳で古田はまだ生まれていない。しかし古田を語るとき、七十三年前のハワイを伝えなければ、“古田苦労ばなし”は結実しないのだ。


 七十三年前のハワイに野球名門校「ハワイ・マッキンレー・ハイスクール」という名前の学校があった。


 ここの上級生にハワイ二世、田中義雄という捕手で四番打者がいた。田中は卒業すると、ノンプロ・ハワイ朝日軍に入社した。ただしハワイでは田中とは呼ばれていない。ハワイならどこへ行っても「カイザー(ドイツ皇帝の意)田中」と呼ばれていた。中、高生時代、田中は熱切なドイツびいきで、そのドイツ好きは誰にも負けない。そこでいつの間にやらカイザー田中とよばれるようになった。だから彼の場合、カイザーは本名ではない。ニックネームなのだ。


 戦前、戦中、わずかであるが戦後にかけて中量級の日本人ボクサーで、

「ピストン堀口(恒男)」


 という大スターがいた。左右のフックを汽関車のピストンのように、相手のボディーにパンチを叩きこむ。戦前、ボクシング担当記者だった共同通信社の記者がある日、

「堀口の連打は機関車のピストンである」


 と原稿に書いた。これが大当りとなって「ピストン堀口」の名前は日本中に鳴りひびいた。


 これは余談だが堀口は東海道線の平塚駅、茅ヶ崎駅の中間にある馬入川の橋から落ちて死亡した。昭和二十五年十月二十四日午前零時七分ごろ、東京発─大阪湊町行き急行“やまと号”にはねとばされたのである。享年三十六。機関車が急行列車にやられたのだ。カイザーといい、ピストンといい、当時はこのニックネームだけで世間に通用した。いい時代だったと思う。


 ところで昭和十一(一九三六)年一月、カイザー田中のところへ、巨人軍球団代表市岡忠男がなんの連絡もなしに訪ねてきた。

「日本にこの春からプロ野球ができる。読売新聞社がオーナーの巨人軍に捕手として入団してほしい。契約金は二〇万円までは用意している」


 いまでいえば一〇〇〇万円ぐらいの響きがある。田中はこの話にとびついた。無料で日本に行けて好きな野球ができて、それどころか給料二万円のほかに二〇万円ももらえるというのだ。だが世の中は自分を中心に回ってはくれない。しばらくするとまた市岡がハワイにやってきた。そして口ごもりながらある話を伝えた。田中もそれを聞いて腰を抜かした。

「田中君、いまになって申し訳ないんだが、巨人軍内部で田中君の入団に反対する者が多い。田中君のようにメガネをかけている捕手は、明治六(一八七三)年からの日本野球史上、初めて米国の野球が紹介されてからこのかた、いないからというんだよ。田中君、君はメガネをかけている。それもかなり度の強いメガネだ──」


 これで田中の巨人軍入りは消えた。だが世間なんて広いものだ。この話を耳にした阪神がいいだした。

「捕手とメガネなんか関係ない。巨人がメガネで屁理屈をいっているなら、阪神が田中をとろうじゃないか。

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