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懐かしい「東京」を歩く
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ルポ・エッセイ
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下馬の記憶

『懐かしい「東京」を歩く』
[著]森本哲郎 [発行]PHP研究所


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 京の大津を出て、二カ月近くもかかって、「お(すぎ)婆さん」は、やっと、江戸にたどり着いた。もう、五月も末だった。

──高輪街道(たかなわかいどう)には、近頃(ちかごろ)植えた並木や、一里塚もできていた。汐入(しおいり)から日本橋へゆく道は、新しい市街の幹線道路なので、わりあいに歩きよいが、それでも、石や材木をつんだ牛車がひっきりなしに通るのと、人家(じんか)普請(ふしん)や、埋地の土運びなどで、足もとも悪く、雨も降らないので、朦々(もうもう)と白い(ほこり)が立っている。


 そんな道をとぼとぼ歩いていると、建ちかけの家の中から、いきなり壁土(かべつち)が飛んできて、お杉婆さんの着物にかかった。気丈な婆さんはカッとなり、
「だれじゃ!」と、怒鳴る。

 だが、壁土をはねかした左官職人は、相手を見て、ただニヤニヤ笑っているだけである。

 婆さんは許せない。土間に入り込み、いきなり、「おのれであろうが」と、職人が乗っている足場の板を外した。左官たちは、板からいっせいに(ころ)げ落ちる。
「何をする!」と、職人は婆さんにとびかかろうとしたが、「さあ、外へ出い」と、(ひる)む様子も見せず脇差に手をかける気丈な老婆の構えに恐れをなして、土間へ引っ込んでしまう。

 が、意気揚々と立ち去る「お杉婆さん」の後ろから追いかけてきた一人の小僧が、「このばばめ」と言って、手桶のへどろ(ヽヽヽ)を婆さんにぶちまけた。それを見て、往来の野次馬がゲラゲラ笑う。と、「お杉婆さん」は、その群衆に向って、泣きそうに顔をしかめながらも、こう言い返すのだ。

──「……はるばると遠国(えんごく)から越えて来たこのとしよりを、親切に(いたわ)ろうとはせず、()(つち)()びせたり、歯をむいて(あざわろ)うたりするのが江戸の(しゆう)の人情か。……お江戸お江戸と、日本じゅうでは今、この上もない土地(ところ)のように、(えら)いうわさじゃが、何のことじゃ、来てみれば、山を崩し、葭沼(よしぬま)を埋め、堀を掘っては海の洲を盛っている(あわた)だしい(ほこり)ばかり。おまけに人情はすすど(ヽヽヽ)うて、人がらの下品(げび)ていることは、京から西には見られぬことじゃ」


 言うまでもなく、右は吉川英治『宮本武蔵』(空の巻)の一節である。武蔵を、息子又八(またはち)(かたき)と狙って江戸へ出てきた「お杉婆さん」が、そこに見たものは、このような光景であった。

 むろん、作者は、往時の江戸を思い描いて「お杉婆さん」に、そう言わせているのであるが、ぼくは、このくだりを読むたびに、吉川英治の描写力に感嘆する。こうした江戸の姿は、現代の東京からふり返っても、さもありなん、と充分に共感できるからである。
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