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幕末・長州に吹いた風
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ルポ・エッセイ
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1 萩女と萩焼

『幕末・長州に吹いた風』
[著]古川薫 [発行]PHP研究所


読了目安時間:34分
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幕末長州の女たち



 歴史に女が登場するときは、ロクなことがないなどといえば、女性の怒りをかいそうだが、むかしから中国ではこのことを「(じよ)()」と称した。


 唐の玄宗皇帝を迷わせた楊貴妃の物語りをはじめ、権力欲のためわが子を殺した(そく)(てん)()(こう)、専制政治で国をあやまらせた清の西(せい)(たい)(こう)、近くは例の四人組追放でヤリ玉にあがった江青女史なども今の中国では女禍ということになるのかもしれない。


 日本史にも「女禍」がみられる。その最たるものは日野富子だ。自分の産んだ子を将軍にしたいばかりに策謀をめぐらして、ついに細川と山名の抗争をひきおこし、十年間の戦火で京都を廃墟にしてしまった。いわゆる応仁の乱の元凶である。


 その後は「淀君」といった女性も登場する。女禍といえるほどの災厄をもたらしたわけではないが、この人の名を代名詞として使うばあいは、権力をカサにきた女の怖ろしさをあらわしている。


 しかし、それもこれも男たちの立場で勝手なことをいっているにすぎず、このごろのような女権拡大の時代には通用しない見方と反発されそうだ。まあ少なくとも過去はそうであったという話だから。もうちょっと続けなければならないが、江戸時代になると幕府の権力組織も安定、固定して、政治の中に女性の力が大きく作用することはなかった。


 徳川幕府の成立から、幕末、明治維新を通じて、女性は一応歴史の表面から、まったくといってよいほど姿を消してしまうのである。歴史の主役は男性であって「則天武后」も「淀君」もそこにはない。


 父・母・夫・舅姑によく仕え、家政を治めるのが女の本分であると教える「女大学」が、女子一般の修身書として知られしかも現実の強制力を持った時代である。社会の第一線に立つ機会が、女性に与えられなかったのは不思議なことではない。


 だが、歴史というものが、ひとにぎりの人たちによってのみ動かされると信じられていたとすれば、それは大きな誤解である。歴史が、その時代に生きる人間の意志の総体であるということなら、「表面」にあらわれない人々も、確実に歴史の展開に参加しているのだと思わなければならない。


 つまり「一応歴史の表面からまったくといってよいほど姿を消して」しまったとしても、女性が歴史の創造に参加しなかったわけではないのである。当然といえば当然だが、幕末の長州藩で、それがどのように実行されたかを考えてみるのも無意味なことではないだろう。


 幕末は、歴史が激しく屈折するときで、この激動の時代を先駆した長州には、多彩な人物が登場した。吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋………多彩な人物とはそのような人々をさすのだろうが、彼らの栄光を陰で支えている者たちの存在を、長州藩においてはとくに忘れてはならない。


 たとえば、奇兵隊をはじめとする諸隊に結集された農民のエネルギーなくして、討幕の達成はあり得なかった事情を、あらためてここで説明する必要もないだろう。


 そして、維新史への長州藩民の貢献を、諸隊にだけ限るわけにはいかないのである。それは次のような理由だ。


 諸隊の入隊資格があった。だれでも無制限に入れたのではないのである。その条件のひとつは、長男でないこと、つまりは農事の責任を持つ者を避け、もっぱら二男、三男を集めた。新しい軍事組織を形成すると同時に、農村での生産も重視したからである。戦時体制下における生産の重要性は、この時期、長州藩に限ったことではないが、戊辰戦争の時点で長州では約四千人の民兵が討幕戦に参加した。


 労働力が薄くなった農村では、それを補うものとして当然のように女性の負担が大きくなった筈である。幕末長州の農村婦人たちにのしかかった労苦の実態は、しかし記録として表面に出てこない。これは民衆史の側から今後の課題として取りあげられてよいものであろう。


 ところが長州の女の(けな)()さは、萩の女台場にかかわる伝説めいた話にすりかえられている。文久三年(一八六三)六月、萩の武士団は攘夷戦のため下関に出動した。そこで菊ケ浜の土塁構築には、留守をまもる武士の妻が従事したというのである。

「男ならお槍かついで………」の民謡は、そうした武士階級に属する婦人の行為を讃美するもので、それはそれで結構なことであり、異議をさしはさむのではないが、一面の虚構性を帯びていることも指摘しておかなければならない。


 菊ケ浜の台場工事に狩り出されたのは、武家の妻女たちばかりでなく、近在諸村の農町民の労働力提供が、むしろその主たるものであった。それでなければ、記録にある一万三千七百人、一万七千五百人といった連日の稼働人員数の説明がつかない。出家・山伏・老婆にいたるまでというから、当然働きざかりの農村婦人が活躍したのは想像にかたくない。


 このときは献納もおこなわれ、武家や諸寺院からの金品提供があったが、農村も積極的だった。奥阿武郡宰判の諸村からは銀二十貫五十匁、山代宰判諸村から銀十一貫三百匁が差し出された。ちなみにこの当時、銀一貫で米およそ百石が買えた。


 また先大津川尻の「百姓浅次郎妹きく」は作業に出られないからといって縄一束を出した。前大津渋木村の「為蔵祖母しん」が、鏡一面を供出したのも印象的な女性の協力であった。


 長州藩でくらす人々の気質を山陰側と山陽側に分けて考えるというのは、いくぶん図式的だが、興味ある観測だ。したがって女性のタイプもおとなしくて、しっかり者の山陰型と快活で働き者の瀬戸内型に見立てるのである。


 そして山陰と山陽の海が関門海峡で合流する下関あたりでは、その二つのタイプが混じりあう女性が住むということになるのだが、ここでは主として花街が舞台となる。高杉晋作や伊藤俊輔(博文)と馬関の女とのロマンスはよく知られている。生命を危険にさらして活躍する志士に愛情を捧げるのも幕末に生きる女性にとって、歴史参加のひとつの形だったかもしれない。


 瀬戸内方面の女性は第一に生産のにない手であった。ここは長州藩が最も頼りにした生産地で、内海航路とも直結した農民的商品経済が早くから発達した地域である。

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