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幕末・長州に吹いた風
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ルポ・エッセイ
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4 旅行く志士

『幕末・長州に吹いた風』
[著]古川薫 [発行]PHP研究所


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激動期を歩んだ二つの旅日記

──吉田松陰の『西遊日記』と高杉晋作の『遊清五録』──



 その必要から生じたものではあるが、幕末の志士はよく旅をした。交通機関の発達していないころだから、どんなに緊急な目的があっても、長い時間を必要とする移動だった。


 彼らは丹念な旅行の手記を遺している。その内容は立ち寄った土地の情況、面接した人物の印象、会話の要録、また旅情にいろどられた紀行文であったり、詩文のメモであったりする多彩な旅の手記となっている。


 筆マメな人ほど詳細な旅日記をつけるのだが、その代表的な人物を二人挙げるとすれば、吉田松陰と高杉晋作ということになるだろう。松陰は『西遊日記』『東遊日記』『東北遊日記』『長崎紀行』『廻浦紀略』など五つの旅日記を書いている。松陰の高弟高杉晋作は師に習ったものともいえるが、彼も旅日記をつくることには熱心で、『東帆録』『試撃行目譜』『遊清五録』などを遺している。


 その全生涯の事跡をたどろうとするとき、日記は不可欠の資料である。志士としての行動が新しい段階に移るときの屈折点が旅日記によって立証されるのは、それほどに旅というものが重要な意味を持っていた事実を物語っている。松陰においては初旅の手記である『西遊日記』であり、晋作の場合は、志士としての出発点となった上海渡航の手記『遊清五録』である。激動期を歩んだ二つの旅日記を見てみよう。


吉田松陰『西遊日記』


 吉田松陰の生涯は、旅でいろどられている。本州西端の地に生まれた人間が、時代の本流に心を寄せ活動しようとするばあい、その行動半径が大きくなるのは当然といえるだろう。松陰の足跡は、九州の長崎と青森の竜飛崎を両極とし、四国をふくめて日本全土にひろがっている。


 それは遊学、情報収集を目的とすることも多かったが、もっと本質的には旅を愛し、旅によって自己を発動させようとするきわめて意志的な行為であった。旅は松陰を憂国の吟遊詩人にもした。旺盛な知識欲と思索と詩情にあふれる旅の手記を遺している。

『廻浦紀略』『西遊日記』『東遊日記』『東北遊日記』『癸丑遊歴日録』『長崎日記』などがあるが、ここでは『西遊日記』をとりあげることにする。それが藩外に出た初めての旅であり、松陰の思想形成に重大な契機をもたらした事情が、その日記につづられていると思うからである。


 嘉永三年(一八五〇)、松陰は二十一歳だった。九州旅行の目的は、平戸藩の家老葉山佐内の蔵書を読むことを第一に掲げているが、長崎・熊本などをまわって、人にも会う予定を立てた。

『西遊日記』の序に、松陰は次のようなことを書いている。

「心はもと()きたり。活きたるものには必ず機あり。機なるものは触に従いて発し、感に()いて動く。発動の機は周遊の益なり」


 松陰における周遊(旅)の哲学であり、以後松陰の旅はこれによってつらぬかれたといってよい。

『西遊日記』第一頁は、「嘉永三年八月二十五日、晴、早発」から書き出されている。萩城下を出発した松陰は、翌日下関の大年寄伊藤家に投宿、発熱のため二日滞在した。この旅では体調をくずし平戸や柳川でも発熱、腹痛などを病んで床に伏し、十カ月遊学の予定を四カ月に縮めて帰省するほどだった。


 二十九日、下関から渡船で関門海峡を渡り、門司の(だい)()に着き、小倉の城下を経て、九月二日佐賀に入った。翌日出発して五日に長崎着。十一日まで長州屋敷に滞在した。長州から遊学中の福田耕作の案内で、長崎港に碇泊中のオランダ船も見学した。

「上層に砲六門あり。二層に銅箱等を多く積む。蘭人、酒と〓(こなもち)を出す」


 〓とはパンのことか。生まれてはじめて身近に接したヨーロッパ文明ではあったが、感想らしい記述はまだ見られない。


 九月十四日、平戸に着く。紙屋という宿に入って、五十日間、読書に没頭した。葉山佐内は陽明学の佐藤一斎の門下で、参勤交代の藩主に従って江戸へ出るたびに書籍を買いあさり、平戸へ持ち帰った。そのおびただしい蔵書を読むのが、松陰の目的だった。佐内だけではなく、平戸藩の砲術家豊島権平からも本を借りた。新刊本や発禁本もふくめた貴重な書籍は、得がたい当時の情報源でもあった。それらは新知識と時務論を刺激するものばかりで、松陰の新しい出発をうながしたのは、疑いもなく平戸における読書である。


 借りた本は宿で読んだ。熱にうなされながらも床に伏せて読み、要点を書き写し、感想も書きとめた。飢えた者がむさぼるようなすさまじい読み方である。『西遊日記』のこの部分は、読書録の観を呈している。それらをあらためると、後年の松陰の行動が、平戸における読書を基点に展開されたことがうなずけるのである。


 たとえば『()()(よう)()(ぶん)』は、当時アヘン戦争の真相と経過を最もくわしく述べたもので、松陰が早くから知りたがっていた内容である。また『聖武記附録』は、アヘン戦争に従軍した清国の兵学者・()(げん)の著書だ。魏源はその中で、ヨーロッパ列強に対抗するためには、彼らの文明を「(うかが)う」必要があることを力説している。松陰の海外渡航計画や、「航海遠略策」は、このときからの発想であったろうと思われる。

『近時海国必読書』は、七巻の大著で、西洋の地理、歴史、国情の紹介、有識者の対外論をまとめたものである。松陰の海外認識に強力な作用を及ぼしたことが、抄録や激しく感情を動かした記述などからうかがえる。その他の事例を挙げるには紙数がないが、要するに松陰にとってこの旅行中の読書は、以後死にいたる十年間の生き方を決定づけるほどの意義をもった。この日記には二十五篇の詩も書きとめられ、多感な青春の旅情も滲んでいる。


 平戸から松陰は再び長崎へ行き、熊本をまわってそこでは(みや)()(てい)(ぞう)と出会った。江戸に出て脱藩した松陰が独自の道を歩みはじめる契機となったのが宮部との再会であることを思えば、この九州旅行はあらゆる意味で運命的な「周遊」であったといえる。嘉永三年十二月二十九日で終る『西遊日記』は、松陰理解に不可欠の初旅の記録である。


高杉晋作『遊清五録』


 文久二年(一八六二)四月二十九日に長崎を出航した幕府の使節船千歳丸は、五月五日、揚子江口にさしかかり、上海の下流二十キロにある呉淞(ウースン)港に着いた。はじめて接する大陸の雄大な景観に、高杉晋作は目を見はった。翌六日の午前中、上海に着く。長崎出航から七月六日までの約二カ月間に、晋作は上海渡航日記『遊清五録』を書いている。


 長州藩の代表としてこの使節船に乗りこんだ晋作の手記だが、その中の『上海(えん)(りゆう)日録』は、上海渡航によってそれまでの行動を一変させ、志士としての活動期に入る彼を知る上で最も重要な日記である。

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