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幕末・長州に吹いた風
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ルポ・エッセイ
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8 学と才と

『幕末・長州に吹いた風』
[著]古川薫 [発行]PHP研究所


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高杉晋作と陽明学


「神出」と「鬼没」のうねりの中で


 高杉晋作の生涯、その行動の中で陽明学の系譜に結びつく部分をさぐり出すというのが、この稿に与えられたテーマである。


 たとえば大塩平八郎のように、頭のてっぺんから爪の先まで陽明学に染まった人物とちがって、晋作の場合は迷彩服を着たような奔放な戦闘者である。なかなか単一に色分けして語るわけにはいかない。第一、私などの陽明学理解ときたら浅薄きわまるもので、とても正面から切り込める作業ではない。


 しかし晋作の事績からいくつかを選び出して、あるいはこれが陽明学的な発想から生まれた彼の行動様式であったかと思える局面がないではない。そのあたりを点検してみることにしよう。


 晋作の行動を総評して、よく「神出鬼没」と表現されるのだが、悪くいえば実に気まぐれで、逃げまわっているのが「鬼没」であり、引っ張り出されて舞台にのぼり、手並みあざやかに重要任務を果してみせるところが「神出」にあたる部分だ。

「神出」したときの晋作は、実に果敢な行動力を発揮し、「鬼没」となると卑怯ともいえるほどに身をひそめた。だから長州藩の危機的情況を深める大事件の多くに彼は参加していないのである。それはおそらく故意に事前工作した上で「不在の人」となった形跡もうかがえる。


 晋作がその名を歴史にとどめるに足る行動をみせたのは、晩年の約四年間に集中されている。奔放な生きざまの中で大仕事をやってのけたのである。『防長回天史』(兼松謙澄編著)では、晋作のことを率直に次のように評しているが、大勢の人々の目に、こうした印象を与えたこともたしかであろう。

(けだ)し晋作は(その)()(ひと)(たび)激発すれば猛然として(まい)(しん)し、人をして殆んど其利害得失を(かえり)みざるかを(いぶか)らしむるに至る。其知友の語る所此の如し」


 二十代前半の晋作は、悩み、慎重に逡巡する青年だった。それがにわかに行動的となり、いわゆる志士の列に加わることになった契機は文久二年の上海(シャンハイ)渡航であり、みずからを「西海一狂生」と名乗り、「狂挙」という明確な意識の中で行動した。


 しかし、そのすべてが「狂挙」でつづられたのではなく、仔細に観察すればたしかに慎重な行動の選択がそこここにあらわれている。


 つまり晋作の生涯は「狂気」と「静止の時間」でつながった起伏をえがいており、その中の「利害得失を顧みざるかを訝らしむる」部分こそが、彼の陽明学的行動といえるものであろう。


吉田松陰の「狂」を継ぐ


 晋作における狂気にふれるためには、やはり吉田松陰を持ち出さなければならないだろう。


 かつて松陰は時勢に傍観的態度をとる長州藩を痛烈に批判した『狂夫の言』を書いたが、その文末に「人は私を狂夫というが、私は猛士ではあっても狂夫ではない。しかしあの孔孟でさえも狂夫の言を容認したのだから、それほど嘆くこともない。よってこの狂夫の言を書いた」といっている。


 彼は二十一回猛士と号したとき、すでに「狂」の志向を抱いていたのだ。


 松陰のいう「狂」とは、『孟子』尽心下篇三七、八章を講じたあとで、次のように述べていることからその意味を察せられる。

「孟子戦国の時に生れ、その道(つい)に流俗汚世に合はず。(略)孟子の任、至重至大、必ず気力雄健、性質堅忍の士を得て、その盛業を羽翼するに非ずんば、何ぞその任を負荷することを得んや。これを以て孟子の狂者を重んじ〓(けん)(じや)を之れに次ぎ、(きよう)(げん)(にく)むの心事を(そん)(たく)すべし。孔子と(いえど)も亦同じ。そもそも余(松陰)大罪の余、永く世の棄物となる。然れども此の道を負荷して天下後世に伝へんと欲するに至りては、敢へて辞せざる所なり。(略)故に此の道を興すには、狂者に非ざれば興すこと能はず」


 戦国に生まれた孟子の狂の思想を重視したように、自分もそうあらねばならないという所信をここで表明しているのだ。


 松陰は本来冷静であり、その日常は穏やかで、弾力的な思弁の姿勢をみせている。狂気は意志的な自励と行動の発条(バネ)にほかならなかった。幕府という強権をむこうにまわした批判行動に身をゆだね、直線的に生き抜く力は、みずからを狂にかりたてることでしか得られなかったのである。


 松陰の門下も、師の狂気の洗礼を浴びた。彼らの多くは、維新の黎明を見ずに闘死したのだった。たしかに松陰とその門下たちは、乱世に生まれあわせた行動者の群れであった。


 主観に偏して動機を重んじ、行を知の成として感情に刺激されるままに単刀直入、勇往邁進した学徒の一団である。


 高杉晋作もそれにつらなる一人だとはいえるが、松陰の狂気の部分だけを継いだのではなく、静と動が同居する松陰を、畏敬の目で深く観察していたにちがいない。晋作の信念、(ひる)もうとする心の揺れを時に正直にのぞかせることもあったが、果敢な行動に突入するとき、おそらく「狂」を自己暗示し、それを突破力にしたのではないかと思われるふしがある。


 いずれにしても、晋作にとって「狂」が唯一の伴侶ではなかったのである。


 大塩平八郎のように、目前の事象にむかって猪突し、散華するという生き方なら陽明学も一瞬の光芒を放つだろう。だが松陰は長州藩という目的集団の先頭を駆け、一定期間指導者として行動した人間である。


 激動期をひとりで先駆する者は、視界ゼロメートルの未来をみつめなければならない。わずかな情報によって行動様式を組み立て、多くの場合はみずからの感性に頼って針路を決定しなければならなかった。


 その行動様式もある程度進めば無効になるのであって、新しい情況に適応した方法論をただちに模索し創出しなければならない。教条主義ではなく、柔軟な発想をつねに紡ぎ出して行くのが“戦場”における指揮力というものである。少なくとも晋作は、有視界の中を走ったのではなかったのだ。


 だから晋作は、まったくの濃霧に迷い込んだとき、そして近未来を占うデータをも入手できないとき突然立ち停まり、逃げ、「鬼没」した。後ろむきの行動に身を沈めるときの、彼なりの理由はあっただろう。


 それはたとえば恩師吉田松陰が、江戸で処刑される直前、「死について発見するところあり」と前置きして晋作に送った手紙からの教訓である。松陰はいう。

「死して不朽の見込みあらば、いつにても死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」


 いまわのきわに松陰が教えたこの死生観が、そのまま晋作の行動に活かされた。およそ武士らしからぬ晋作の「逃げ」を支えたのはこれである。


 逃げながら晋作がつねに自分に問いつづけたのは、「いつ、どこで死ぬべきか。何が不朽の見込みある死か」ということだった。


 晋作は殉教者として歴史を動かした人である。その死によって後進を奮い立たせたが、松陰の遺志を最もよく受け継ぎ、歴史の旋回に効果あらしめたのは晋作だった。例の死生観をはじめ松陰の思想と柔軟な行動様式を、それこそ柔軟にこなして自分の血肉とし、師の素志を顕現化した。


 その重要な事項をひとつ挙げるとすれば、松陰が絶叫した「(そう)(もう)(くつ)()」を現実の路線に乗せたのが晋作の組織した奇兵隊である。


たおやかな松下村塾グループの頭領


 ところで吉田松陰の学統を陽明学に属すると解すむきもあるようだが、それは必ずしも正鵠を射ていない。松陰の矯激な行動がそのような連想を生むのだろうし、陽明学の吸収も見逃せない。しかし彼を陽明学者と単純に割り切るわけにはいかないのである。


 もともと松陰は山鹿流軍学師範である。いうまでもなく山鹿素行は、朱子学を排撃して古学を主張した。朱子学や陽明学と違った原始儒教の実践的立場での古学を高唱した人である。


 一方では早くから歌学を学び、『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』『万葉集』などを読み込んでいる。国学・神道・儒教と多様な教養をたくわえていた。


 松陰は六歳で山鹿流軍学師範を家職とする吉田家を継いで、徹底的に素行を学んだが、長ずるにつれて大きく視野を広げていった。軍学も山鹿流にとらわれず長沼流をマスターし、さらに海外への関心も高めてゆく。日本や中国の史書に目を通し、国学をやるという旺盛な知識欲を発揮した。


 嘉永三年(一八五〇)八月から十二月にかけ九州を遊歴したのは二十一歳のときだが、平戸の葉山佐内をおとずれた折、松陰が読んだ書籍からもそれがうかがえる。


 二十日間ばかりも滞在して松陰が次々に読破した本は、読書録によって明らかにされている。その中には王陽明の語録『伝習録』がふくまれ、またこの旅で長崎に立ち寄ったときには山鹿流軍学師範の『洗心洞(さつ)()』も読んだことが記録されている。


 松陰はそのことを佐内に手紙で報告し、大塩の著書を読む場合、はやる心を抑え、冷静に接すれば教えられるところは多い、と共感を述べている。


 しかし、松陰はのちに『己未文稿』の「語〓子遠〓」の中で「吾、専ら陽明学を修むるには非ず。()だ其の学の真、往々にして吾が真と会ふのみ」と、陽明学派に見られることを否定しているのである。


 つまり一つの学説ではあきたらないところを、他の学説で補うという弾力的な方法であり、松陰としては、独自の立場でそれを統合しようとしていたにちがいない。

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