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漱石先生、探偵ぞなもし
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ルポ・エッセイ
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第一部 漱石文学を探偵する

『漱石先生、探偵ぞなもし』
[著]半藤一利 [発行]PHP研究所


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プロローグ 漱石文学は現代文学である



 ある時期には、たとえば小林秀雄や河上徹太郎たち文壇の主流から「大衆文学作家」と評価され、敬遠されていたことがあった夏目漱石が、いまは“文豪”と呼ばれ国民的作家になっている。そのわけにはいろいろな説もあろうが、漱石の小説のほとんどに、いわゆる文明批評と日本人論が()りこまれ、時代を鋭く見抜く先駆性が秘められているからと、勝手にそう思っている。


 わたくしは「歴史探偵」と自称しているほど歴史が好きなので、漱石の小説を単に文学としてではなく、広い意味で歴史的な観点から読める作品として読んできた。その過程で、漱石の(たく)(ばつ)した文明批評眼には、何度も舌を巻いた。そして脱帽していらい「漱石先生」と呼ぶことにしている。


 よく知られるように、東京帝国大学や旧制の第一高等学校などで、英文学や英語の(きよう)〓(べん)をとっていた夏目金之助先生が、ペンネームを漱石として、小説『吾輩は猫である』一章を書いて大そう人気を博し、作家への第一歩を踏みだしたのは明治三十八(一九〇五)年一月のこと。いまから数えて百十一年前ということになる。漱石三十八歳のときのスタートである。翌春には『坊っちやん』を二週間足らずで書きあげ、秋には『草枕』と()つぎ(ばや)にまことに異色の、独特の小説を書きあげ、作家の()()を完全に固めた。


 それにしても、漱石先生はなぜ、前途(あん)(のん)たる大学教授の地位と名誉を捨て、みずからがいうように「打死をする覚悟」で作家の道を選んだのであろうか。その疑問を解く〓は、そのスタートの時期にあると考える。


 漱石が小説を書きはじめた明治三十八年は、日露戦争で日本軍が、一月に天王山ともいうべき旅順要塞の二〇三高地を陥落させ、五月にバルチック艦隊を撃滅して、日本中が(せん)(しよう)に沸き返っていたときである。ということは、作家としてデビューした漱石は、否応なしにそうした戦勝国となって「浮かれ、のぼせだした」日本と、真っ正面から向き合って、創作活動をはじめなければならないことになる。


 ならば、日露戦争後の日本は、いったいどんな国になりつつあったのか。ここが問題なのであるが、一言でいってしまうと、立身出世主義の謳歌、それにともなう学歴偏重の傾向が強まり、さらに戦勝後の起業熱と投機熱でむれ返り、金権主義と享楽主義とが大手をふって(かつ)()する、つまり国全体が夜郎自大的な大国主義への道を歩みはじめていた。しかも構造的にはきびしい機能主義と合理化とが要求され、結果として人びとは激しい競争社会のなかに放りこまれる。そうした日露戦争後のこの国を覆った苛烈な風潮の影響で、日本人は戦争前までもってきた緊張感を失い、昔ながらの善良な、(うるわ)しい人間性をすり減らして、どんどん功利第一主義的になり悪くなっていく、そういう国へと変貌していった。


 作家として漱石は、そうした成金主義の日本の明日を心から憂えたのである。『三四郎』の冒頭の、東大に入学するために上京する三四郎と、車内で同席した男(広田先生)とのあまりにも有名な会話がある。

「……(三四郎は)『(しか)(これ)からは日本も段々発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『(ほろ)びるね』と云った……」


 この『三四郎』が書かれたのは明治四十一(一九〇八)年の夏、それから昭和二十(一九四五)年八月、太平洋戦争の敗北による大日本帝国の亡国まで、たった三十七年である。漱石の「亡びるね」の予言はあまりにも見事に当ってしまったことになる。


 さらに、翌四十二年に発表された『それから』でも、漱石は日本の危うさをこう指摘する。

「……日本は西洋から借金〔精神的文化的な〕でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を(もつ)て任じている。……あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国(だけ)()(ぐち)を張っちまった。……目の〓る程こき使われるから、〓って神経衰弱になっちまう。……日本国中()()を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。(ことごと)く暗黒だ……」(六章)


 さらに漱石は、外から西洋文明を導入して急速につくり上げた近代日本を「煙草を()っても(ろく)に味さえ分らない子供のくせに、煙草を喫ってさも旨そうな風をし」ているようなものと(かん)()した。「虚偽でもある、軽薄でもある」と糾弾し、「(それ)(あえ)てしなければ立ち行かない日本人は随分()(さん)な国民と云わなければならない」(明治四十四年八月の講演『現代日本の開化』)ともいい切るのである。


 どうであろうか。日露戦争後のこの国と、いまのわれわれの生きている平成の日本とが、その社会風潮の上でまことによく似ているのではあるまいか。学歴偏重の出世主義、金が最高とする金権主義、享楽主義、そしてこれらの流れからとり残された者たちのニヒリズムや悲観主義、若ものたちの就職難とリストラ、緊張感を失った人びと、エゴイズムの社会支配……漱石がその作品をとおして一途に訴えているのは、わかりやすくいえば、いまの日本のごく薄っぺらの繁栄のなかの人間の質の問題と同じである。物ではなく心の問題である。


 ありようは全速力で疾走をつづけてここまできた戦後七十年の日本。物質的には世界に(かん)たりと高慢な声を放ちつつ、いわば神経衰弱にかかって()(そく)(えん)(えん)、先行き不明の昨今の世情。「気の毒と言わんか憐れと言わんか」、漱石先生の言葉はそのまま現代日本に当てはまる。決して死語となってはいないのである。


 周囲の華やかさに惑わされ、無批判、無自覚のままきめられたレールの上を一直線に運ばれるばかりではなく、情報化や合理化、画一化、非人間化などによってもたらされる人間疎外や孤立化、いいかえれば、現代人が直面している不安や焦燥や幻滅の原因をさぐるヒントが、漱石先生を読むことでつかめるかもしれないのである。つまり百年以上も前に書かれた漱石文学は、現代の文学といえるのではあるまいか。



第一話 『吾輩は猫』と遊び戯れる


〓「山会」について



 大学の英文科の講師(いまの准教授)であった漱石が、突然、(はつ)(ぷん)して小説を書きだしたのか、そのことについて、簡単に書いておく。実は『吾輩は猫である』(以下『吾輩は猫』とする)一章は、(たか)(はま)(きよ)()の勧めで、根岸の旧子規庵でひらかれていた(やま)(かい)で朗読してもらうのが目的で書かれたものであったのである。虚子の『漱石氏と私』という回想録がそのことを明らかにしてくれている。


 明治三十七年十二月のある日、虚子は山会へゆく途中、千駄ヶ谷の漱石の家に寄ってみた。神経衰弱を癒すためにも、何か書くようにと前からしきりに勧めていた虚子は、まさかと思っていたのにさも約束を守るかのように漱石が、長い文章を書いていたので大いに喜んだ。さっそくそこで自分で朗読して、無駄と思われるところをいくつか指摘した。漱石はかなり不服そうであったけれど、虚子の言をいれて削除したり修正したりした。タイトルは「猫伝」とするか、冒頭の「吾輩は猫である」という一行を採るか、漱石が決めかねているのを、これも虚子が「これはもう後者のほうが断然いい」ときめて、漱石を納得させる。虚子はその原稿をもって根岸の山会に出席(漱石は欠席)、仲間の前で読みあげた。

「一同に『〓()(かく)変っている』という点に於て讃辞を呈せしめた」


 と虚子が書くように、それは大好評をもって迎えられたのである。虚子はさっそく自分の編集している「ホトトギス」三十八年一月号にこれを掲載することにした。お蔭で雑誌はよく売れて、そしてこの小説が、文豪誕生へのきっかけともなるほどの大評判になったのである。


 では、この山会とは、そもそも何であるか、ということになる。これも簡単に書けば、いまは亡き正岡子規が、明治三十年一月に松山で創刊した俳句雑誌「ホトトギス」に、東京へ移ってからは短文や日記や小説を載せるようになり、そのためもあって、三十三年九月から同人たちが文章を持ち寄って朗読し批評しあう会として、子規が発足させたものであった。淡淡たる写生文であっても文章にはかならず山がなければならない、実際に見聞したことに山がなければ、自分の頭で製造してでも山をつくらねばならない、というところから「山会」と会名がつけられた。月に一回ひらかれ、この席上で同人に認められた作品でなければ「ホトトギス」には掲載されないこととなっていた。


 そして、この山会は、明治三十五年九月に子規が死んだあとも、こんどは虚子を中心につづけられた。ただし、翌年春、ロンドン留学から帰国後に千駄木町に住んだ当座の漱石が、この旧子規庵や虚子の家でひらかれていた山会に、ちょくちょく顔をだしていたかどうか、あまりはっきりしない。


 ところが三十八年の三月からは山会はときとして物書きの一員となった漱石宅に移ったようである。虚子はもちろんのこと、坂本四方太、寺田寅彦、野間(まさ)(つな)、野村伝四、中川芳太郎たちがきまって出席した。三十八年九月十一日の中川あての書簡では、漱石は鈴木三重吉にも文章会への出席を説いている。三十八年暮に漱石門をくぐった森田草平ももちろんただちに同人に加わった。


 こうなると台所をあずかる鏡子夫人としては、ワイワイ騒ぐ文学青年たちの楽しさとは別に、ほとほと困却したに相違ない。娘たちにとっても大迷惑であったことであろう。


 しかも、漱石先生も山会のホストとなってはみたものの、だんだん会にでることが面倒になっていったようなのである。朗読が性に合わなかったのか、虚子あてのつぎの手紙がそれを語る。

「小生近来は文章を読む事が((ママ))きた様だから自分に構わず開いて頂戴。(中略)一体文章は朗読するより黙読するものですね。僕は人のよむのを聞いて居ては到底是非の判断が下しにくい」(明治三十八年十一月二十六日)


 漱石は文章朗読会としての山会には、もうこの前後からちょっぴり消極的になっていた。それであるから、同年の十二月九日に虚子宅でひらかれた(かん)(じん)の山会には欠席なのである。そしてまた、中心となるべき虚子その人も、子規の山論にはもともと賛成でなく、自分の書くものには山のないことを常々いっていた。こうして山会はやがて自然に()(ぜつ)して、明治三十九年十月から、毎週木曜日を定められた面会日とする、という漱石邸の「木曜会」へと発展していったのである。どっちにしたって、家族の迷惑なことには変りなかったが……。


〓「頓と」について


「吾輩は猫である」と書きだされたいわゆる『吾輩は猫』は、つぎがこうつづいている。

〈名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ〉


 この「頓」にどこの出版社の文庫本も「とん」とルビをかならずふってある。まったく、ちっとも、といった意味の「とんと」はいまは死語になっているらしく、トント耳にすることはない。東京は下町生まれの〓(じじ)いである私は会話なんかでは「とんと知らねえな」とか「とんとお目にかかったこたあねえ」とか、よく使うが、文字で「頓と」と書いたことはない。多分、漱石は彼一流の()()で「頓と」とやったものではないかと疑っている。


 なぜなら、頓の字は誰もがよく知っているであろう言葉で「(とん)()」がある。つまり、そもそもの意味は(つまず)くから転じた、突然に、にわかに、急に、ということが第一。それに、手紙のおしまいの結びの言葉として昔はよく「(とん)(しゆ)」と書いたように、首を下げる、お辞儀をする、の意で使われた。「いやあ、社長にがみがみ言われて閉口頓首したよ」なんて、飲み屋なんかでサラリーマン諸君がぼやいているのをよくみかけたものである。そういえば『吾輩は猫』のなかの手紙にも「頓首九拝」という言葉があった。ように覚えている。


 いや、漱石は実際に数多く書いている書簡でもよく「頓首」を使っている。明治三十八年十二月三日の高浜虚子あての、ちょっと面白いのを例に引いてみる。

「(前略)僕(せん)だって赤坂へ出張して寒月君と芸者をあげました。芸者がすきになるには余程修業がいる。能よりもむずかしい。今度の文章会はひまがあれば行く。もし草稿が出来ん様なら御免を(こうむ)る。以上頓首」


 謹厳なる漱石先生の芸者遊びの一席である。酒が飲めなきゃお座敷遊びが面白いはずはない。能よりむずかしいなんて、笑わせるというしかない。


 が、頓の字で何といってもいちばん使われているのはトンマ、これも昔は当て字で頓馬と書いた。まぬけ、のろまなどと同義の語。『大言海』をみると「のろまの(てん)()」と語源を説明してくれているが、『皇都午睡』という江戸時代の本には「馬鹿者をとんちき」といい、この「とんちき」の「とん」と、「のろま」の「ま」がくっついて「とんま」という語ができたとあるそうな。

〈『私は徹頭徹尾反対です。……』と云ったが、あとが急に出て来ない。『……そんな頓珍漢な処分は大嫌いです』とつけたら、職員が一同笑い出した〉


 漱石『坊っちやん』の一節である。このトンチンカンも、もちろん当て字で、こっちは鍛冶屋の(あい)〓(づち)の音にもとづく。交互に〓を打っていっしょにはならないところから、この言葉ができたという。ヘエーと感心した。


 そのほか「(とん)()」「(とん)(さい)」とか「すっ(とん)(きよう)」とか「()(とん)(ちやく)」とか、頓のつく語にはどれもどこか愛嬌があり、何ともいえないユーモアがある。それで漱石は好んだのだな。


 どうも、のっけから探偵の調査報告みたいな話ではじまった。探偵嫌いの漱石先生が泉下で顔を(しか)めていることであろうが、このまま探偵をつづけていく。


〓タバコの話



 春風とともに、何となしに本居宣長の和歌を口ずさんだりする。


  敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花


 と同時に『吾輩は猫』の主人公の()(しや)()がプカプカするタバコのことが頭に浮かんでくる。はじめのほうで苦沙弥先生は煙草の「日の出」をふかしている。たとえば、

〈主人は黙って日の出を輪に吹いて吾輩にはそんな勇気はないといわんばかりの顔をしている〉(一章)


 といった風にである。これは天狗煙草の岩谷松平が製造販売していた煙草の名であった。これが物語の中程から後半になると、突然「朝日」に変る。

〈主人は無言のまま座に着いて寄木細工の巻煙草入れから『朝日』を一本出してすぱすぱ吸い始めたが……〉(六章)


 さらに最後の十一章になると、

〈煙草でもですね、朝日や、敷島をふかしていては幅が利かんです〉


 と九州佐賀出身の多々良三平が埃及(エジプト)煙草をすぱすぱやりだしている。

「そんな贅沢をする金があるのかい」と苦沙弥が聞く。すると、

〈金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います〉


 三平は胸を大きく張るのである。


 いまや信用どころか、わが日本国では煙草吸いは泰平の天下を乱す極悪人視されている。小さくなって吸わなければならない。気の毒の至りと申しあげるほかはないが、ここでは苦沙弥の()(こう)がなぜ変ったのか、その推理の方である。


 なんて威張るほどのことはない。実は、明治三十七(一九〇四)年七月一日、煙草専売法が施行され、私企業での煙草の製造および販売は全国的に許されなくなった。そのために「日の出」は店頭から消え、かわりに官製煙草として宣長の和歌に発する敷島・大和・朝日・山桜の四種類の口付き煙草が売りだされた。それで小説の主人公の吸う煙草が変ったのはやむなくなんで、まったく他愛のない答えとなる。


 ついでにご紹介しておけば、口付紙巻き二十本入りの当時のタバコの値段であるが、敷島が八銭、大和が七銭、朝日が六銭、山桜が五銭であったという。苦沙弥はどちらかといえば安いほうのをプカプカしていたことになる。であるから、三平に馬鹿にされたのであろう。では、三平が吸っているエジプト・タバコは? 明治年代ではなく、大正十五年の定価表しか探せなかったが、これがなんといちばん高いのが「ハイ・ライフ」で一本二十三銭なり、いちばん安い「アイシス」でも一本が四銭もしている。三平が胸を張って威張るのもムベなるかな、というほかはない。


 それにつけて想いだす。神風特別攻撃隊の第一陣もまた、敷島・朝日・大和・山桜の四隊であったことを。新しく命名というときまってこの歌がでてくる。「人とはば」のあたりに「大和心」なんていう教訓めいたうるささがあって、世評ほどいい歌とは思えないが、日本人の心にはこの歌がなぜかピタリとくるらしい。でも、十死零生で飛び立った特攻隊の若ものたちの無念を思えば、春風に吹かれていい心持になってこの宣長の歌を詠ずるなんて、あるいは許されざることなのかもしれない。


〓知られざる一句



 これまでの岩波の全集にもないし、文庫『漱石俳句集』にも載っていない漱石の句を紹介したい。『吾輩は猫』二章のごくはじめにある。

〈やがて下女が第二の絵端書を持って来た。見ると活版で舶来の猫が四五疋ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をして居る、その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを躍って居る。其上に日本の墨で『吾輩は猫である』と黒々とかいて、右の(わき)に書を読むや躍るや猫の春(ひと)()という俳句さえ(したた)められてある〉


 この「書を読むや躍るや猫の春一日」の一句である。明治三十八年一月号の「ホトトギス」は発売が前年の十二月末であるから、翌くる正月にはいくつもの年賀状を利用して『吾輩は猫』にたいしての讃辞が送られてきても不思議はない。そしていい気分で漱石が二章を書きだしたのが、荒正人『漱石研究年表』(集英社)によれば一月三日ごろと推定されているから、この句もあるいは実際に門下生かだれかの絵葉書にあったものじゃあるまいか、と見る向きも多いことであろう。しかし、わたくしはやっぱりこれは漱石の句であると断定しておきたい。小説のほうは──、

〈……誰が見たって一見して意味がわかる筈であるのに、〓()(かつ)な主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を(ひね)って、はて今年は猫の年かなと独言をいった。吾輩が是程有名になったのを未だ気が着かずに居ると見える〉


 とつづき、そこへ第三の「恭賀新年」とかかれた葉書がくる。その(はし)っこのほうに「乍恐縮(きようしゆくながら)かの猫へも宜しく御伝声奉願上候(ねがいあげたてまつりそうろう)」とあるのをみて、ようやく苦沙弥先生は気づいてフンといいながら猫の顔を見るのである。


 まったく苦沙弥をとおして表現されている江戸ッ子漱石の照れようは度を越している、と少々冷やかしたくなってくる。大好評にすこぶる御機嫌であることを隠して、およそ我不関焉(われかんせず)といったそぶりをきめこむのは江戸ッ子の通弊である。さもやっと気づいたように「吾輩」の顔をみてフンというあたり、猫に「腹の中は毒のない善人」であり、「単純で正直な男」とひそかに笑われていてもしょうがないということになる。


 それにほんとうに門下生かだれかの句であったとしたら、これは失敬きわまりない話となる。苦沙弥の言葉を通して意味が通じない駄句であると(こう)()に宣伝されたと同じ仕儀になる。


 それにつけても、ここではっきりいえるのは、初めて書いた小説の大好評にたいし漱石先生の喜びようは、どっこいなみなみならぬものがあったということである。二章をすぐに書きだしたことでも明らかであるし、この句の「躍るや」の一語でもわかる。秘してこそ花で一応は押し殺してはいるが、「書を読むや躍るや」の気持でウキウキしていた。しかも、この句と前後して熊本の白扇会の求めに応じて一月六日につくった連句があって、ものの見事に照合し合っている。すなわち「猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが、猫が下駄はいて〓ついて、しぼりの浴衣で来るものか」と、躍っているのはまさしく御本人であり、そんなであるから「吾輩」が呆れるほど三椀の〓をぺろりと平らげる食欲の旺盛さも示しえたのである。


 作家はほめられると力がついて一段と飛躍する、と昔からいわれているが、これは真理と思うほかはない。


 それにしても猫が踊るのは見たこともないが……。ほんとうに踊るのかいな。


〓「行徳の俎」とは?



 むかし大学のボートの選手をしていた当時、隅田川から鐘ヶ渕の水門をくぐって荒川放水路に入り、それをずっと下って船堀川をへて(ぎよう)(とく)付近にでて、江戸川を松戸まで漕ぎ上る、という小遠漕をこころみたことがしばしばある。いまでこそ地下鉄東西線がたちまちに運んでくれるが、そのころの「青べか」の町浦安や行徳は、漕げども漕げどもの、(えん)()のかなたにあった。調べてみれば、行徳は南北朝時代にみえる古い地名で、()(とり)神宮に関係深く、江戸期には成田不動尊や()()国府(こうの)(だい)への定期船が通う水路の、および時代小説によくでてくる行徳街道の要衝でもあったから、ずらりと旅宿や茶屋がならんでいたという。芭蕉も「鹿島紀行」で、水路をとって行徳で上陸、佐倉街道を進んでいる。


 また、江戸湾口に近いところから、そのいっぽうで漁村でもあり、魚介類の江戸への供給地で、かつ有名な塩の生産地。ここから船橋あたりまで塩田がひろがり、年産三万六千石に達して江戸の消費を全部ここでまかなっていた。行徳塩といえば、大正六年の津波で無茶苦茶になるまで、明治の江戸ッ子にもなじみの名であったのである。


 ボートを漕いでいって、その行徳辺で岸につけ小休止したとき、土地の古老から、馬琴やら芭蕉やらといっしょに、むかしは笹屋という有名なうどん屋があった話も聞いた。

「いまはなくなっちまったからしょうがないが、芭蕉や馬琴のあとは、なんたって夏目漱石よ」


 とその人はいった。そう、行徳といえば、漱石先生がどうしても登場する。

『吾輩は猫』の二章に、年賀にきた迷亭が、

〈……気にも留めない様子で『どうせ僕などは行徳の(まないた)という格だからなあ』と笑う。『まずそんな所だろう』と主人がいう。実は行徳の俎という語を主人は解さないのであるが、……〉


 という正月らしいのんびりと目出たい一節があって行徳がでてくる。


 苦沙弥と違って少しくまともな寒月が(しん)(そつ)に聞く。「行徳の俎とは何の事ですか」。とたんに苦沙弥は床の間に視線をやって、

〈あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て挿したのだが、よく持つじゃないか〉


 と、例によってとぼけて話をそらし、ストーリーはどんどんさきに進んでいってしまう。それこそ行徳の俎は烟霞のかなたへいってしまう。でもやっぱり寒月君ではないけれど、すっとぼけた漱石先生に「行徳の俎の真意は何の事ですか」と探偵としてはだんぜん追究したくなる。


 岩波の全集の注にはこうある。

「(行徳では)馬鹿貝がよく取れるので、その俎は馬鹿貝ですれているという意。馬鹿で人ずれのしていることを言う隠語」


 以下、右にならえでいくつもの文庫の注もほぼ同様になっている。つまり、それらを(そう)(ごう)すると行徳の俎という言葉が実際に使われていたようになってしまう。が、そんな事実はないというのである。そこからわたくしの雑な類推になるのであるけれど、その出所は森田草平のつぎの説にあるのではないか。

「……つまり馬鹿で擦れている人間のことを、高座で落語家が『深川のはんだい』といったものらしい。()(あん)ずるに、先生はその意味だけを記憶していて、行徳も馬鹿貝の産地だから『行徳の俎』と間違えられたものではあるまいか。しかし確証がないから、(しか)とは申し上げ兼ねる」(全集・昭和十年版月報)


 さらにさぐれば、この森田説は、漱石の謡曲の先生(ほう)(しよう)新の、つぎの思い出の談話をうけて付記したものと判明する。

「ある時(漱石が)『深川の俎板ということを知ってるか』といわれるから『存じません』と申上げると、『あれはばかすれてるということだ』と仰しゃっていました」


 宝生新によると、「深川の俎板」と漱石が間違いなくいったようで、それを草平が「高座で落語家が『深川のはんだい』といったものらしい」と自己流に正している。つまりは、漱石の落語好きに乗っかっての説なんである。じゃあ深川のはんだいなんて高座言葉があるのか、となって、わたくしは機会あるごとに何人かの知り合いの落語家に聞いてみたが、だれも知らないという。もちろん深川の俎も知らなかった。


 ということで、そこから考えられるのは、あるいは明治三十年代には一般に通じていた深川の俎という言葉があり、それをわざわざ漱石先生がとっ違えて行徳の俎といった、要すれば漱石の造語なんではあるまいか。そうすると、行徳でも馬鹿貝がとれるからというあまり根拠のない推量だけで、「ばかですれてる」という意味だけですましてしまうのは、はたしてどんなものか。漱石が行徳の地名をわざわざ持ちだしたネライも少しは考えてみてもいいのではないか、と長いこと按じていたのである。


 ところが、である。最近、別の必要あって中央公論社刊『久保田万太郎全集』第十三巻の随筆〓を読んでいたら、江戸ッ子久保万先生もこの問題にひっかかり、二回にわたって短いエッセイを書いているのにぶっつかって、思わず「わが意を得たり」と小膝を叩いてニッコリしてしまったのである。昭和十年から十二年にかけて書いた『さんうてい夜話』にある。

「森田さんの注釈(さきの月報の文章)をこんど読んで、わたくしは、あわてて、徳川夢声君に〓き、柳家小さん君に質した。……夢声君も、小さん君も、知らないといった。……そういう(しや)()(深川の俎あるいははんだい)、楽屋での話の中でもつかいませんと小さん君はいった」(……は中略にあらず、念のため)


 久保万先生は浅草生まれ、わたくしは向島生まれ、疑問に思ってやることは同ンなじなんであるな、と得意がってもはじまらない。要は、そこに書かれている浅草の某氏から万太郎が教わったという新解釈が、とてつもなく気に入ったことを、ぜひとも記しておきたいのである。

「(その人は)『行徳の俎』とは『年中(しよ)ッぱい』という意味の『塩ッぱいとは職人の言葉で銭がない、仕事がない、不景気なということ、行徳はその昔、塩の産地故の洒落である』といってよこされた」


 ところで、久保万先生はなぜか「そうした意味では『猫』の本文の役には立たないが」といともあっさりこの説を捨ててしまっている。浅草ッ子らしくしつこくはない。が、漱石先生が塩の産地の古くからの地名をわざわざ持ちだしたのには、その意も深く静かに(せん)(こう)させているんだと、浅草よりも行徳により近い向島ッ子はついつい(たん)()のひとつも切りたくなる。


 行徳の俎は年じゅう塩ッぱい、わが身分もそれと同じで塩ッぱい毎日、いとも不景気なんですなと正月早々迷亭は嘆じたのである。わたくしはそう思う。そう思わなくてどうして冒頭に長々と、年産三万六千石の塩をつくった行徳のことをきちんと調べて、それを得々として書くものか。じつは行徳の俎のナゾを明かすための布石であったのである。


〓金田鼻子にはじまって



 学者や研究家が指摘しているし、注意深く読んだ人ならだれでも気づくことであるが、『吾輩は猫』は第一章と第二章はどちらかといえば読み切りの短〓で、第三章から新しい人物も登場させ、話の筋がつぎに発展できるように仕組まれて、長〓小説らしくなっている。「此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠(なまこ)の様な文章である」と漱石自身は単行本の上巻の「自序」でいっているが、第一章につづく第二章の好評に大そう気をよくして、この小説を書きつづけるためには、筋が一本通った話をこしらえたるほうがよいと、いくらか考え直したことはたしかである。


 その陣容立て直しのための愉快きわまる新登場人物が、つまりは隣家の実業家にして大金持の奥方ドノである。本名はもちろんあるのであるが、漱石は猫の観察眼に托して、訪れてきた金田夫人に鼻子と名をつけてさんざんにからかいこき下ろす。いうなれば、日露戦争後のにわか金持ち、戦争成金にたいする批判と嫌悪の情の表明なのであるが、これでもかこれでもかというくらい漱石は手きびしくやっている。少し長く引用する。

〈鼻だけはむやみに大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社の石燈籠を移した時の如く、独りで幅を利かしているが、何となく落ち付かない。その鼻はいわゆる〓(かぎ)鼻で、ひと(たび)は精一杯高くなって見たが、これでは(あんま)りだと中途から謙〓して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を(のぞ)き込んでいる。かく著るしい鼻だから、この女が物をいうときは口が物を言うといわんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶつもりである〉


 手前はまだ名前をつけてもらっていないくせに吾輩は、人にあだ名をつけて得意になっている。それだけでも滑稽きわまるが、さらに金田鼻子が帰ったあと、迷亭が「年来美学上の見地からこの鼻について研究した事が御座居ますから、その一斑を()(れき)して、ご両君の清聴を(わずら)わし()いと思います」とやらかして、長広舌の一席をはじめる。それをまた吾輩は詳細に読者に知らせている。この大演説は長すぎるので略するが、真面目くさっての迷亭の研究をかいつまんでいえば、鼻汁をかむとき鼻をつまんで刺激するので、それをくり返しているうちに皮も肉も堅くなり、ついには骨となったという。それでもなお人間は鼻をかむことをつづけたので、左右が削りとられて細く高く盛り上がってくる。この迷亭が説くところの進化論の大原理によって、鼻が発達し顔の中で高く盛り上がって偉らそうに鎮座ましますようになった、ということになる。さらに、迷亭の演説は(とう)(とう)と鼻と顔のバランスに及び、最後に鼻の形は遺伝するから、鼻子夫人の娘の鼻もいまは正常でも、潜伏期が終るとかならずや膨脹するに違いないと断言する。


 ところが、この三章を書く時点での漱石の鼻にかんする研究(ホラ話?)はこれまでであったのであろう。それがどうやら残念に思えたのではないか、とわたくしは推理する。三章が「ホトトギス」に発表されたのが四月号、それから二カ月たった六月号に四章が掲載されるが、ここでまたしても鼻論を漱石先生は大いに展開しているのである。こんどは迷亭ではなく苦沙弥が鈴木藤十郎君を相手に思う存分に“学”のほどを示している。それを猫はニャンともいわずに聴いている。多分に漱石先生は西洋の古典をこの二カ月の間に書棚から引っぱりだして、鼻の研究に精出したものと思われる。

〈君シャーレマンの鼻の(かつ)(こう)を知ってるか〉とか、〈エルリントンは部下のものから鼻々と異名をつけられていた。君知ってるか〉とか、やっている。


 さらにはスターンの小説『トリストラム・シャンデー』のなかの「鼻論」まで漱石は探しだしてきている。正直にいってこっちは「知ってるか」といわれたってシャレていうわけでなくほんとうに無学で、要するに(ちん)(ぷん)(かん)(ぷん)。「何をいってやがる、そんなの知っていたら英文学者になっていらあ」と啖呵をきって尻をまくりたくなるばかり。


 それでも、なかにたった一つだけ、知っているのがあった。

〈君パスカルの事を知ってるか〉


 の、そのパスカルである。

「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変っていただろう」(パスカル『パンセ』田辺保訳)


 このクレオパトラの鼻の話にかんする名言なら、わたくしもその昔に中学校で習ったかして覚えている。ところが、『吾輩は猫』では少々わが記憶と違ったことを漱石先生は書いている。これには読むたびにいつも少々面〓っている。

〈もしクレオパトラの鼻が少し短かかったならば世界の表面に大変化を(きた)したろうと〉


 わが記憶の「低かったら」と、漱石の書く「短かかったら」。裏返していえば、「高い」と「長い」で、クレオパトラの鼻はいったいどっちであったのか、疑問とせざるを得ない。実際は、『パンセ』では、“S'il e〓t 〓t〓 plus court”で、どうも『吾輩は猫』のほうの「短かかったら」が正しいらしいのであるが、わが頭脳に刻みこまれた印象からすれば、クレオパトラの鼻はやや短いよりも、少々高慢ちきにツンと高いほうがよろしいのではないかと思えるのであるが。


 それにしても第三章をひらくとすぐに、漱石先生はやたらに鼻という言葉を持ちだしていることに気づかせられる。金田鼻子夫人を登場させるための伏線には違いないだろうが、この鼻についてのこだわりはやっぱりおかしくなる。まず苦沙弥が亡き友への弔文の草稿を首をひねりつつ、〈天然()()は空間を研究し、『論語』を読み、焼芋を食い、鼻汁(はな)を垂らす人である〉と案じるところからはじまって、〈今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く〉、かと思えば、〈抜き取った鼻毛を天下の奇観の如く眺めて〉、さらには〈平気な顔で鼻毛を一本々々丁寧に原稿紙の上に植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てた如くに立つ〉といった調子なのである。


 かくて第三章だけでみても、鼻のついた語の登場度数を算したら、鼻子三十三回、鼻毛八回、鼻汁五回などなど総計百六回に及んでいる。よくも数えたり、お主はよっぽど暇なんだねえ、と笑われそうであるが、ついでに漢和辞典で鼻のつく字を検してみると、〓(きゆう)(鼻がつまる)、(かん)(いびき)、〓(てい)(くしゃみ)、〓(てい)(鼻汁)、〓(じく)(鼻血)、〓(きゆう)(寝息)、〓(ほう)(にきび)などが見つかって、何となくいつかどこかで使ってみたくなってきた。


 さはさりながら、なぜにかくまで漱石が鼻に執したか? とわざわざ設問するまでもなく、それはかれが幼少のころに(ほう)(そう)(天然痘)を患ってその痕跡が鼻にあばたとなって残っていたからにほかならない。写真などでは修整してあるのでよく見えないが、おシャレな漱石はかなり気にして、しょっ中鼻のあばたをなでさすっていたらしい。

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