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大名屋敷「謎」の生活
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歴史
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(一)参勤交代と大名屋敷 ―― 江戸に繁栄を“集中”させたもの

『大名屋敷「謎」の生活』
[著]安藤優一郎 [発行]PHP研究所


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江戸は「日本最大の城下町」──全国から集まる大名たちの“巨大な屋敷”



 江戸城(現・(こう)(きよ)と東京駅に(はさ)まれた格好で広がる千代田区丸の内は高層ビルが(りん)(りつ)する都心の一等地だが、江戸時代は大名屋敷が集中していたことから“大名小路(こうじ)とも呼ばれた。


 丸の内(かい)(わい)を描いた尾張(おわり)()版の江戸(きり)()()のタイトルも『()曲輪(くるわ)(うち)大名小路絵図』となっている。切絵図には、密集する大名屋敷に挟まるように「大名小路」という文字も見える。


 この大名小路は江戸の観光名所の一つで、地方から出てきた農民が各大名の建物を見物して回った人気観光地だった。当然、故郷の殿(との)(さま)の屋敷を見物することもあっただろう。


 さて、大名が幕府から屋敷を()()されたといっても、実は土地のみだったことはあまり意識されていないかもしれない。ここで言う屋敷とは建物ではなく、土地を指す言葉だった。家臣とともに住む建物は“自費”で建設することになっていた。


 将軍のお(ひざ)(もと)たる江戸は参勤交代制により、全国から諸大名が集まってくる日本最大の城下町である。そのため、諸大名は自分のメンツにかけて、下賜された地所に(ぜい)()らした(そう)(れい)な建物を建てた。現在、江戸東京博物館で復元展示されている福井藩(まつ)(だいら)家の屋敷は、そんな巨大な大名屋敷の一例である。


 他の大名には負けたくないという競争心理が働くのだ。お殿様たちのプライドが火花を散らした結果、江戸の観光名所たるにふさわしい()(よう)を誇る屋敷街が丸の内をはじめ、現在の(かすみ)(せき)、永田町、大手町などに誕生していく。


 現在、上野の東京国立博物館の(となり)に巨大な門が移築されている。この門は、かつての鳥取藩主・池田家屋敷の(おもて)(もん)だ。江戸城の日比谷(ぼり)の近く、現在の帝国劇場の辺りにあった屋敷である。まさしく大名小路沿()いの屋敷だ。こうした巨大な門が、少なくとも大名の数だけ江戸の町にはあった。




 鳥取藩と言えば、因幡(いなば)一国を支配していたことで“(くに)(もち)大名”に分類された有力大名であり、(こく)(だか)も三十万石を超えた。そんな国持大名としての威厳と格式を見る者に感じさせる門である。江戸の人々もそう感じたに違いない。


 まさに、江戸の大名屋敷街を今に伝える貴重な遺産なのである。


上屋敷・中屋敷・下屋敷の違いとは?──大名どうしで“売買”されることも



 江戸城周辺に立ち並んでいた大名屋敷は、いわゆる(かみ)屋敷である。


 上屋敷とは大名とその正室が住む屋敷のことだが、大名は上屋敷以外にも屋敷を幕府から下賜されていた。


 ()()松山藩主・(ひさ)(まつ)松平家の家臣で、明治に入って教育(かん)()となった内藤(めい)(せつ)という人物がいる。同郷の後輩・(まさ)(おか)()()を俳句の師匠と(あお)いだが、(はい)()『ホトトギス』で、江戸屋敷(づめ)藩士の生活を回顧した。後に柴田(しよう)(きよく)編『幕末の武家』に(さい)(ろく)されたが、江戸の大名屋敷について次のように証言する。



 お屋敷には通例、上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つがある。上屋敷、中屋敷の二つは幕府から賜わるので、お城の周囲に接近してあったもので、中屋敷より上屋敷の方が更にお城に接している。上屋敷、中屋敷は共に一つずつであるが、下屋敷は大名によってはたくさん持っていて、相対で売買などもして、大名自身の所有であった。下屋敷は火災などがあった時分に立退いたり、季節に従って遊びなどする所で、たいがい郊外か、市中でも場末にあったのである。上屋敷は大名の当主の住居で、中屋敷には世子すなわち若殿が住んでいて、且つそれに属する家族も別かれて住まっていた。そうして、それに附属している家来は都合によって、上、中の両屋敷に打ちまじって住んでいるので、日々上より中、中より上へ通うて勤めていた(内藤鳴雪「勤番者」柴田宵曲編『幕末の武家』青蛙房、一九六五年)



 大名の屋敷には、上屋敷・(なか)屋敷・(しも)屋敷の区別があるが、鳴雪の証言も踏まえて整理すると以下のとおりになるだろう。


 上屋敷は殿様が住む屋敷だが、中屋敷は(いん)(きよ)した殿様や()()ぎの若殿が住む屋敷である。上屋敷よりも、江戸城からは遠い距離にあった。隠居すると、あるいは世継ぎの場合は、()(じよう)することはあまりないため、上屋敷よりも江戸城から遠い場所で(はい)(りよう)するわけだ。


 下屋敷は、上屋敷や中屋敷が火事などの災害に()った時、避難所として用いられた屋敷である。江戸での生活に必要な物資を保管する屋敷でもあった。別荘として用いられることもあった。その場合は「巨大な庭園」が造成され、同僚とも言うべき大名を招いて(かん)(たい)する“接待所”として用いられた。


 下屋敷は()(すえ)あるいは江戸郊外など江戸城からは遠い場所で下賜されたが、複数拝領することも見られた。大名どうしで下屋敷を売買していたと鳴雪は証言するが、別に下屋敷とは限らない。上屋敷や中屋敷も(あい)(たい)(がえ)という形で売買した。


 双方の大名が屋敷を交換(相対替)したいと幕府に申し出て許可されることで、事実上の売買が成立していたのである。


タダで土地が貰える「拝領屋敷」と、大名が買って年貢も納める「抱屋敷」



 諸大名は上・中・下屋敷の最低三つの屋敷を下賜され、これを拝領屋敷と呼んでいたが、さらなる拝領を幕府に願うのが常であった。地所は大きければ大きいほど、大きな建物が建てられるわけであり、避難所・倉庫・別荘としての拡張も可能だ。使い道はいくらでもあった。


 しかし、拝領つまりは無料で土地が(もら)えるわけなので、当然ながら競争は激しい。なかなか拝領できなかったのが実情で、結局のところ江戸の町や近郊の農村で土地を購入することになる。購入した土地は(かかえ)屋敷と呼ばれた。


 もともと町人や農民が所持する地所であるため、拝領屋敷とは違って(ねん)()などを納入することが義務付けられた。大名が農民に代わって、年貢を幕府の(だい)(かん)など農民たちの“御領主様”に納めたのだ。


 奇妙な感じもするが、抱屋敷を所持している以上、当の大名は幕府あるいは他の大名・旗本に年貢を納めなければならなかったのである。


 そんな負担を課せられたにも(かかわ)らず、大名は江戸近郊の農地を次々と買い集めていく──。安政三年(一八五六)の数字によれば、大名が購入した屋敷の総面積は約百七十万(つぼ)にも及んだ。


 冒頭で触れたとおり、江戸の大名屋敷の総面積は七百四十八万坪余だが、これは拝領屋敷と抱屋敷を合わせた数字だった。江戸の大名屋敷の二割強は(ばい)(とく)された地所なのであり、もともとは農地であることが多かった。


大名屋敷の内部は“軍事機密”で謎だらけ──事実上の「男性だけの世界」



 大名屋敷のうち拝領屋敷(上・中・下屋敷)は巨大な門のほか、周囲が長大な(へい)(めぐ)らされていたが、その内部はいったいどうなっていたのか。


 大名屋敷のみならず江戸城内部にしても、今では徳川家や各大名家などに残された絵図により内部の様子が分かるが、当時は江戸城にせよ江戸屋敷にせよ、その内部は“軍事機密”に(ぞく)した。トップシークレットであり、外部に()れてはならない。だから、市販された切絵図に描かれるはずもなかった。


 上屋敷の場合で見ると、大名と妻子そして(おく)(じよ)(ちゆう)たちが住む()殿(てん)は、屋敷の中央部に置かれた。御殿の周囲は藩士が居住する長屋で囲まれ、藩士たちは身をもって大名を守る(たて)となった。屋敷が攻撃を受けた時は、長屋を楯に防戦するのである。


 江戸の大名屋敷には(ほり)こそなかったが、いざという時は大名や家臣たちが立て()もる軍事施設に変身する。それが現実のものとなったのが、第五章「寂れていく『江戸の大名屋敷』」で取り上げる慶応三年(一八六七)十二月に起きた徳川家の命を受けた(しよう)(ない)藩などによる薩摩藩()()屋敷の焼き討ちだ。この時から事実上、()(しん)戦争の火ぶたは切って落とされる。


 御殿は大名のプライベートな生活空間と、藩士も出入りした空間から構成されたが、藩士が大名の生活空間に入ることは原則としてなかった。外部の者にとり屋敷内部は“謎の空間”だったが、その屋敷に住む家臣にしても御殿は“謎の空間”に他ならない。殿様と家臣は同じ屋敷で住みながら、互いの空間は(かく)(ぜつ)していた。


 その生活空間のなかに、次章「江戸の高級サロンだった大名庭園」で取り上げる巨大な庭園が造成された。将軍と大名による限定された(しや)(こう)()だった。


 大名屋敷には、どれほどの人数が住んでいたのか。


 これも同じく軍事機密であり、トップシークレットだった。外部に漏れてはならず、正確な数字は分からない事例が大半だ。断片的に数字が残るのみというのが実情である。


 その数少ない事例のうち、()()藩山内家の事例を見てみる。


 (じよう)(きよう)元年(一六八四)というから五代将軍・徳川(つな)(よし)の治世だが、この年、江戸屋敷に住む家臣の数は計三千百九十五人だった。土佐藩は()()(ばし)に上屋敷、(しば)に中屋敷、品川に下屋敷があったが、上屋敷(千六百八十三人)と中屋敷(千二百九十五人)に家臣は集中していた。ちなみに、上屋敷の坪数は七千五十二坪、中屋敷の坪数は八千四百二十九坪である。


 男女別で見ると、圧倒的に男性が多かった。三千百九十五人のうち三千四十九人が男性で、女性百四十六人は屋敷に住み込みで勤務する奥女中だ。女性と言っても江戸城大奥のように殿様の御殿に勤める奥女中なので、屋敷内部は事実上、男性だけの世界だった。


 江戸は“男性都市”という言い方をされることが多いが、江戸城の周りに広がる三百(しよ)(こう)の江戸屋敷は、それ以上の“男性社会”なのである。

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