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まるわかり中国の歴史
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歴史
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第4章 漢民族の明朝から満州族の清朝へ

『まるわかり中国の歴史』
[著]島崎晋 [発行]PHP研究所


読了目安時間:32分
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宦官跋扈する、らの権力皇帝をも上回った

●伏魔殿となった紫禁城と不可解な事件


 明の第三代皇帝である永楽帝(えいらくてい)の時代から清の滅亡時まで、都は一貫して北京に置かれていた。そして宮廷が置かれたのは紫禁城(しきんじよう)だった。紫禁城は権力の中枢だった。そしてその北部にあった後宮は伏魔殿といってよかった。

 明は後漢、唐と並んで宦官の禍に苦しめられた王朝である。とくに十七世紀はひどかった。三案と呼ばれる不可解な事件が続発し、そのどれにも宦官が関わっていたとされている。

 三案の第一は一六一五年におきたもので挺撃案と呼ばれる。張差(ちようさ)という暴漢が挺棒を持って東宮御所に侵入したのである。この背後には、後継者問題があったとされる。万暦帝(ばんれきてい)は悩みに悩んだすえ、長子の常洛(じようらく)を皇太子としたのだが、第三子の母で、帝の寵妃であった貴妃(ていきひ)はそれを非常に悔しく思っていた。ゆえにこの事件の黒幕は貴妃およびそれと結んだ宦官であると噂された。

 第二の案は一六二〇年におきた。紅丸案と呼ばれる。同年七月、万暦帝が崩御し、生来病弱であった皇太子の常洛(泰昌帝(たいしようてい))が即位したが、それからわずか一カ月後、鴻臚寺丞(こうろじじよう)李可灼(りかしやく)のすすめた紅丸を服用したあと、にわかに死亡したのである。宮中の多くの者が、暗殺ではないかと疑った。

 第三の案はそのすぐあとにおきた。移宮案と呼ばれる。泰昌帝の急死を受け、長子(天啓帝(てんけいてい))が即位したが、帝はまだ十六歳。そこで泰昌帝の寵愛していた李選侍(りせんじ)乾清宮(けんせいきゆう)で帝と起居をともにしていた。これを一部官僚が問題視して、二人を引き離すべく、彼女を仁寿殿(じんじゆでん)に移したという事件である。李選侍は宦官と結託して、権力を握ろうと企んでいたとされる。

 以上の三案の余韻静まらぬなか、宦官である魏忠賢(ぎちゆうけん)の専横時代が到来する。

●宦官・魏忠賢の専横


 魏忠賢は無頼の出身。賭博の負け金を払えず、追い詰められ自暴自棄になり、みずからすすんで宦官になった。

 最初はなかなか芽が出なかったが、司礼太監(しれいたいかん)(宦官の長)の王安(おうあん)に目をかけられていた魏朝(ぎちよう)および(かく)氏(天啓帝の乳母)と懇意になるにおよび、出世への糸口をつかんだ。魏忠賢は二人の力を借りて着々と権力への階段をのぼっていった。やがて魏朝を追い落として、皇帝公認のもと、客氏と疑似夫婦関係である対食(たいしよく)の関係を結び、さらには王安に無実の罪を着せて殺害。客氏と二人で後宮を完全に掌握するにいたった。魏忠賢の権力欲はこれにとどまらず、天啓帝が趣味の図画工作、乗馬、弓矢、闘鶏、漁色などに(ふけ)り、政務をいっさい顧みない暗君であったのにつけこんで、外廷にも支配を及ぼすようになった。

 東林党(とうりんとう)や趙選侍など魏忠賢と客氏に反対する者、および彼らの気に染まない者は容赦なく弾圧された。


36 1368〜98明の成立
モンゴル勢力を駆逐、再編された中国

〈その頃、日本では〉
一三六八年、足利義満が征夷大将軍となる。室町幕府が安定期に入る。

教がおこした紅巾の乱

 一三一〇年代から八〇年代にかけて、中国は史上最悪の自然災害に襲われた。各地で食を求める数十万人単位の流民や飢民の群れが彷徨(ほうこう)するという異様な光景が日常化し、人肉を喰らって飢えをしのいだという記録も数多く残されている。

 人びとが度重なる自然災害に苦しめられているところへ、元の朝廷による経済政策の失敗が追い打ちをかけた。人びとは絶望の淵に叩き込まれ、(わら)にもすがるような思いが彼らの心を覆い尽くした。

 いつ民衆の暴発がおきてもおかしくない状況下、先導役をつとめたのは(びやく)(れん)(きよう)*1という仏教系の秘密結社だった。一三五一年に彼らがおこした反乱は、その目印から、紅巾(こうきん)の乱と呼ばれている。これに呼応して多くの豪傑がたちあがった。


 群雄が競い合うなか、最後の勝利を手にしたのは朱元璋(しゆげんしよう)太祖(たいそ)洪武帝(こうぶてい))という男だった。一三六八年一月、朱元璋は応天府(南京)で即位。国号を明、年号を洪武としたが、このとき、一人の皇帝の治世期間はひとつの年号でとおす一世一元の制が定められた。

 新たなる王朝を創設した朱元璋はただちに北伐の軍をおこし、一三六八年八月にはモンゴルの勢力を北方に追いやり、大都を占領することに成功した。
宋以上の皇帝独裁体制

 当初、太祖は元の統治機構をそのまま使用していたが、やがて次々と手直しを加えていく。まず地方の軍政・民政を統轄していた行中書省(こうちゆうしよしよう)が廃止され、新たに承宣布政使司(しようせんぶせいしし)(行政全般)、提刑按察使司(ていけいあんさつしし)(監察)、都指揮使司(としきしし)(軍事)が設けられ、三権分立の体制がしかれた。

 ついで中央官僚機構の頂点にたつ中書省が廃止され、六部(りくぶ)が皇帝の直属となった。軍事を統轄した大都督府も中・前・後・左・右の五軍都督府に改組され、軍権が分散させられた。他にも独自の権限で逮捕・裁判・処刑のできる皇帝直属の特務組織、錦衣衛(きんいえい)*2が設置されるなど、皇帝の独裁権力を宋代以上に強めるための改変が数多くおこなわれた。

*1  宋・元・明・清にわたる民間宗教の一派。まもなく弥勒(みろく)がこの世に下生することで理想的政治が実現すると唱え、民衆の反体制的な運動の温床となった。明・清代には何度も摘発を受けた。

*2 錦衣衛 本来は禁衛軍のひとつ。鹵簿(ろぼ)儀仗(ぎじよう)、宮禁の守護にあたるほか、都の内外で犯人の逮捕や尋問もおこなった。
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