読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-2
kiji
0
0
1276970
0
わらべ歌に隠された古代史の闇
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第2章 鳥巫女とカゴメ歌の秘密

『わらべ歌に隠された古代史の闇』
[著]関裕二 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間2分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


カゴメ歌発祥の地を探る


 文献上カゴメ歌は江戸時代にまで遡るのは確かにしても、それ以前となると、皆目見当がつかない。しかし、これを神あそびであったと仮定すると、その起源が予想以上に古かったことも考えられる。ただ、あらかじめお断りしておくが、カゴメ歌の正体を明解に突き止められるとは思っていない。何かしらの仮説を提起できれば、との思いで話を進めている。


 だいたい、カゴメ歌の謎解きなど、とっかかりが少なすぎて、困難な作業になることは、はじめからわかっていた。多くの人びとに声をかけ、情報を集めたが、核心に迫るようなヒントは、なかなか得られず、今度ばかりは往生してしまったものであった。


 そんな中で、唯一、ヒントらしいヒントといえば、カゴメ歌には発祥の地と称される場所があったことである。

『新講 わらべ唄風土記』(浅野健二・柳原書店)など、地方別に集めたわらべ唄に関する著書には、カゴメ歌を、千葉県野田市の歌であると記している。問題は、その根拠を明記した史料がまったくなかったことだった。


 それにしても、なぜそろいもそろって、みな、千葉県野田市を発祥の地に比定するのだろう。


 筆者は、『竹取物語』とカゴメ歌の近さを気に留めていたから、カゴメ歌は、おそらく関西で発生したものと勘ぐっていた。そして、野田発祥説を聞いても、根拠の説明がどこにもないことに不審を感じていた。したがって、野田発祥説に無関心なまま、時間を過ごしてしまった。


 しかし、ある時、ひとつのことに思い当たった。ひょっとして、カゴメ歌は、江戸時代のコマーシャルソングだったのではないか。江戸時代にこの歌がどこかの地方に存在していたとしても、この歌を利用し、関東地区、あるいは全国に広め歩いた人びとがいたのではないか、と思い始めたのである。


 千葉県野田市といっても、おそらく関西の方にはピンとこないであろうが、江戸時代以降、急激に発展した醬油の町なのである。


 まず第一に、この地の東西を、利根川と江戸川という二大河川が通っているが、幕府が江戸に開かれて以来、にわかに脚光を浴びることになった。治水面ではもちろんのことだが、河川を利用した流通を考えた場合、野田の重要性が高まったのである。


 そして第二は、この流通の利便さを生かして、一大醬油生産拠点が出現したことなのである。農村から大豆を仕入れ、できあがった商品・醬油を大市場江戸に売りさばくのに、野田は最適の地だった。そしてこの醬油製造業者が、今日のキッコーマンへと続いているのである。


 筆者は、野田=醬油に気づいたとき、キッコーマン(亀甲萬)の亀甲という商標と、カゴメ歌がつながっていたのではないかと疑ったのである。改めて述べるが、カゴメ紋は正六角形、亀甲紋の連続模様である。


 すなわち、醬油を売るために、コマーシャルソングとしてカゴメ歌を利用し、だからこそ、カゴメ歌=野田という定説が生まれたのだろうと、タカをくくったのである。


 ところが、野田市役所の社会教育課に問い合わせたところ、私見が(じや)(すい)であったことを思い知らされた。電話口に出られた飯塚博和氏は、カゴメ歌=キッコーマン流布説を、きっぱりと否定されたのである。カゴメ歌野田発祥説には、もっと別の根拠がある、というのである。

千葉県野田市に残された彫刻「籠の中の鳥」の謎


 後日、飯塚氏は、カゴメ歌を特集した『野田市報』を送ってくださった。そのコピーには、柳田国男らの民俗学上のカゴメ歌解釈などを紹介した後に、カゴメ歌=野田発祥説のひとつの根拠として、興味深い記事が載っていたのである。


 それは、野田市最古の神社、愛宕(あたご)神社の「籠の中の鳥」という彫刻の話であった。

『写楽絵考』(大和書房)、『アンコール史跡考』(中公文庫)などで知られる作家・(そう)()(しん)()氏が『とも』(ふるさと工房)に寄せた随筆で、そこには、「籠の中の鳥」の彫刻の籠が破られ、そのかたわらに、ヤマトタケルがたたずんでいたことに、独自の推理を働かせたのだった。


 まず宗谷氏は、愛宕神社の「籠の中の鳥」の見事さに驚かされている。「籠の中の鳥」は、鳥を刻んだ上に、竹カゴの彫刻を貼り付けたものと思い込んでいたら、実は、竹カゴをまず彫り、カゴメのすき間からノミを入れて、鳥を彫り、「カゴ伏せの鳥」を刻んでいたのだ。


 宗谷氏はこれを「離れ業」と表現して、次のように述べている。


「ところが、名人芸というべき〈カゴの鳥〉のカゴが、一部こわされているんですよ。心ないヤカラがいるんですね」


 教えてくれたのは甥のヨッちゃんである。



 宗谷氏はこの事実に、カゴメ歌発祥伝説と何か関係があるのではないかと考えた。


 カゴの目が破られていたことが、「いついつ出やる」という歌詞を暗示しているのではないか、とするのである。


 そこで宗谷氏は、百年以上前の彫刻の割には保存状態がよく、ほとんど破損がないにもかかわらず、なぜカゴメ歌のカゴだけが壊されているのかを不審に思った。そして、その可能性を、まず三つに絞ったのである。

(1)単なるイタズラによるもの

(2)清掃のとき誤ってこわした

(3)なにかの目的があって故意にこわした



 宗谷氏が消去法でもっとも有力と考えたのは、(3)であった。


 彫刻がかなり高いところにあって、ハシゴを使わなければとうてい手の届かない場所であることから、イタズラとは考えづらく、また、清掃で壊れるほど「ヤワ」な彫刻ではないからである。したがって、何かの目的を持って、カゴは意図的に破られたのではないか、としたのである。


 では、その目的とは──宗谷氏は、郷土史家の佐藤真氏の次のような指摘に注目したのだった。



 神社奉納の唐丸籠(絵馬を含む)の中には〈破れ唐丸〉と(しよう)し〈罪や悪から逃れる願いやその他をこめた〉民俗行事として、制作過程で既に籠の網目を一部破損させているものがある(後略)



 つまり、佐藤氏は、愛宕神社のカゴも、この破れ(とう)(まる)だったのではないかと推理し、さらに、次のように述べている。


〈破れ唐丸〉にかぎれば、鳥は罪または罪人である。とすれば、カゴを破る目的は、つぎの二つの場合が考えられる。

(1)社会的罪悪──自分もしくは家族、縁者などに犯罪者がいて、それを助けるための祈り(呪術)だった。

(2)良心的呵責など。社会的な犯罪でなくても良心の呵責に耐えかねるとき、苦悩にさいなまれているみずからの心を解放させるための祈り(呪術)


 これは、個人的な罪却感と、犯罪にかぎった民間信仰、または呪術であるが、〈鳥〉には、古来から別の、大きな信仰の流れがあったのだ。


 ヤマトタケルの彫刻から、ふと連想したのは、タケルの死後、その霊魂が白鳥化して遺体からぬけだし、宙天高く飛び去ったという『古事記』の説話だった。




 おそらくその源流は、メソポタミアの、人は死ぬと鳥になって空へいくという考えかたにあると思われる。つまり、〈鳥〉はこの場合霊魂を意味しているが、霊魂はヤマトタケルのような善霊のみを意味せず、ときとすると悪鬼悪霊の場合も考えられる。



 このように指摘したうえで、宗谷氏は、これら「鳥」をめぐる信仰が、


カゴのなかの鳥は

いついつ出やる



 という「かごめかごめ」の一節にもつながってくると考えたのである。


 カゴメ歌発祥の地とされる千葉県野田市に残された彫刻「籠の中の鳥」は、白鳥伝説とつながりがあるとする宗谷氏や佐藤氏の指摘は、実に興味深い。


 ヤマトタケルとの間になにかしらのつながりがあったとすれば、カゴメ歌は、想像以上に古い因縁をおびていた可能性が出てくるからである。もちろん、歌の発生がかなり後の世であったとしても、歌の背景には、古代から綿々と続く歴史の闇が横たわっているかもしれないのである。

神社に伝わるヤマトタケル伝承


 ただ問題は、なぜ千葉県の野田市に、ヤマトタケルが祀られているのか、ということであろう。

『古事記』によれば、ヤマトタケルはその暴虐な性格を父にうとまれ、西国征伐に遣わされたという。これがすでに触れたクマソタケル征伐で、この後ヤマトタケルは出雲に向かい、この地の首長、イズモタケルを卑怯な手口でだまし討ちにしてしまうのである。


 ヤマトにもどったヤマトタケルを待っていたのは、父景行天皇の冷たい仕打ちであった。休む間もなく、また、兵も授けられずに、東国征伐を命ぜられたのである。


 ヤマトタケルは東征の途路、(やまと)()(めの)(みこと)のいる伊勢の大神宮に立ち寄り、つい本音を漏らしている。


「父は私に死ねというのだろうか。西征を終えて帰ってきたばかりなのに、兵も賜らずにさらに東征に向かえとは、私の死を望んでいるからではありませんか」



 こう言って憂い泣くヤマトタケルに、倭比売命は、神宝(くさ)(なぎ)(つるぎ)()(ふくろ)を賜り、送り出したのである。


 さて、伊勢を出発したヤマトタケルは、()(わり)(やい)()(うら)()(すい)(どう)相模(さがみ)(こう)(しゆう)(しん)(しゆう)、尾張をめぐり、()(ぶき)(やま)の神を征伐しようとする。ところが、素手で立ち向かったために、ヤマトタケルは伊吹山の神の毒気に打ちのめされてしまう。


 失意のうちに、ヤマトタケルはヤマトを目指す。有名な、



 (やまと)は 国のまほろば たたなづく (あを)(かき) (やま)(ごも)れる 倭しうるはし



 というヤマトを偲んだ歌は、このとき詠われたものである。


 結局、ヤマトタケルはヤマトに帰ることができず、()(せの)(くに)(すず)鹿()()()()で永眠したのである。


 御陵が造られ、埋葬されたヤマトタケルであったが、()(ひろ)(しろ)()(どり)となって飛び去り、河内に着いたという。このため、この地に御陵を造り、(しら)(とり)()(ささぎ)と名付けたが、白鳥は再び天に飛んでいってしまったという。


 これが、『古事記』の記すヤマトタケル伝承のあらましである。


 死して白鳥と化し、天に昇っていったヤマトタケルであれば、カゴメの歌の籠の中の鳥とかすかな接点があったといえるかもしれない。そして、千葉県野田市の愛宕神社の彫刻も、白鳥のイメージを持つヤマトタケルであったからこそ、カゴの中の鳥と結びつけられた疑いが強い。ただ問題は、『古事記』に従う限り、ヤマトタケルと野田市の関係はまったくない、ということなのである。


 一方、『日本書紀』には、『古事記』とは異なるヤマトタケルの東国遠征の順路を記している。伊勢を下ったヤマトタケルは、駿(する)()、焼津、相模、上総(かずさ)()()常陸(ひたち)を経て、()()(甲州)()(さし)(こう)(ずけ)(しな)()()()、尾張、()()と、ほぼ東国全体を廻っていたとしている。


 これに従えば、ヤマトタケルが野田近辺にやってきても何の不思議もなく、また、ヤマトタケルの行動を神社伝承で追った()(ぐら)(かず)()氏は、『天翔る白鳥ヤマトタケル』(河出書房新社)の中で、ヤマトタケルが茨城県の(つく)()(さん)から成田方面に抜け、さらに船橋、東京を抜けていったと指摘している。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:25939文字/本文:30613文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次