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わらべ歌に隠された古代史の闇
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歴史
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第3章 ヤマトタケル・邪馬台国とつながるカゴメ歌の謎

『わらべ歌に隠された古代史の闇』
[著]関裕二 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間29分
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出雲の風葬にはカゴメ歌の真相が隠されている


 浦島太郎を詠った先述の『万葉集』の最後には、浦島を指して「なんと愚かなことをしたのだろう」と、あきれた調子で嘆く場面がある。


 浦島はタブーを犯したから結局結婚は破綻し、バチが当たって老人と化したとよくいわれる。浦島ばかりではない。(しお)(つつの)()()が導いた(やま)(さち)(ひこ)も、豊玉姫と結ばれながら、海神(わたつみのかみ)の宮から帰って浦島同様にタブーを犯し、豊玉姫の恨みを買った。


 ここで思い出されるのは、カゴメ歌の一節である。鶴と亀がすべったとあるのは、あるいは、鶴と亀が何かのタブーを犯してバチが当たったとは考えられぬだろうか。塩土老翁が衣を奪って妻にした相手は、()()(ない)(くう)(あま)(てらす)(おおみ)(かみ)に神聖な食事を供する巫女でもある。この巫女に手を出したのが塩土老翁で、しかも浦島であったとすれば、その罪は大きく、この伝承がのちにカゴメ歌になっても、なんの不思議もない。


 ただし、現段階では、これはまだ推理の域を出ていない。


 では、カゴメ歌の真相に近づく手段はどこにあるのだろうか。やはり、筆者はカゴと鳥と巫女がセットになった信仰が、出雲の風葬を連想させるところに、深い興味を覚えるのである。


 というのも、カゴメ歌とかかわりのありそうな浦島・(とよ)(うけの)(おお)(かみ)・塩土老翁といった人びとが、どうしたわけか出雲と深いつながりを見せること、さらに、出雲大社の神紋が正六角形=亀甲であること、すなわち、この神紋がカゴメ歌と同一の原理(改めていうが、カゴメは正六角形の連続模様である)から派生したこと、亀甲は「亀」であり、「カゴ」であることも無視できない。この神紋も、あるいは、風葬の強烈な記憶と信仰心から生まれたものではあるまいか。死して魂があの世に往くときに通ってゆく隙間が「カゴメ」であり、カゴメはこの世とあの世の境で、鳥は魂の運び手である。出雲系神社のもうひとつの雄・(くま)()(たい)(しや)の神紋が(からす)であるのは(白鳥ではないが、烏は生き物の死骸をよく食べる)じつに暗示的である。


 そして興味深いのは、この「出雲」が、何者かの手によって、その実態を抹殺されてしまったことにある。カゴメ歌とはまったくかかわりがないと思われる出雲に注目するのは、このためである。神話の世界に出雲が封じ込められてしまったのはなぜなのだろう。


 そこでしばらく、カゴメ歌や浦島、豊受大神がかかわる出雲について考えておきたい。

覆された古代史における出雲の常識


 かつて、出雲は実在しなかったとするのが史学界の常識だった。八世紀の朝廷が歴史を記す上で、天皇家と対極の概念を創作し、それが「悪しき出雲神」だったという考えである。


 ところが、考古学の進展によって、このような通説は覆されてしまった。出雲は実在しただけではなく、想像を上回る力を持ち、ヤマト建国に大きな影響を及ぼしていたのではないかと考えられるようになったのである。


 ここで改めて、歴史のおさらいをしておこう。


 大陸から人びとが日本列島にやってきたのは、いまから三万~四万年前。旧石器時代の始まりである。その後、日本列島で最古の土器が作られ始めたのが、いまから一万五千年前で、これが縄文時代の始まりだった。紀元前五〇〇から四〇〇年(それ以上遡る可能性が高まりつつあるが)頃になると、稲作技術と金属器を携えた人々が渡来した。これが弥生時代の始まりで、()()(たい)(こく)()()()は弥生時代後期の人である。


 卑弥呼の死は三世紀半ば。このころ、大和(やまと)盆地には、(まき)(むく)遺跡という巨大な都市が生まれ、前方後円墳が出現していた。ヤマトが建国されたのである。


 なぜ前方後円墳が、ヤマト建国を意味しているのかというと、この新たな埋葬文化が、()()や出雲、畿内の様式が取り入れられ、さらに最後に北部九州の豪奢な副葬品という風習が持ち込まれ完成したからで、もうひとつ、四世紀に日本列島の各地に一気に伝播していったことが、大きな意味を持っている。てんでんばらばらだった宗教観が、ヤマトの王家と同じ様式に統一されたからである。


 これがヤマト建国であり、この中で、「出雲」が大きな役割を果たしていたことがはっきりとしてきたのだ。


 では「あるはずがない」といわれていた出雲が、なぜ注目されるようになったというのだろう。一九八四年十月、島根県出雲市()(かわ)町の(こう)(じん)(だに)遺跡で、想像を絶する大量の(せい)(どう)()が発見され、史学界を震撼させたことに端を発している。たった一ヵ所の遺跡から発見された銅剣が、全国で見つかっている数を上まわっていたのである。


 さらに、一九九六年には近くの()()(いわ)(くら)遺跡で大量の(どう)(たく)が見つかり、「出雲はそこにあった」と考えられるようになったのである。

前方後円墳が明かすヤマト建国に見る出雲の役割

『日本書紀』は、初代(じん)()天皇が武力でヤマトの土着勢力を屈服させたように記しているが、実際には、いくつかの地域が寄り集まって、「(おお)(きみ)(天皇)」を共立していたと考えられる。そのなかでも、出雲の果たした役割は大きかった。


 すでに触れたように、前方後円墳を構成する要素となったのは、四つの地域で、吉備、出雲、ヤマトがまず前方後円墳の原型を造り、最後に北部九州の埋葬文化が融合した。


 吉備の特徴は、(とく)(しゆ)()(だい)(がた)()()(とく)(しゆ)(つぼ)(がた)()()を使って、墓の上で亡くなった首長の霊を祀り、共飲共食の儀礼を行うところにある。


 畿内の「ヤマト以前」の埋葬文化は意外に貧弱で、(ほう)(けい)(しゆう)(こう)()という他の地域と比べて規模の小さい墓を造営していた。その浅い溝が、前方後円墳の(ほり)になったのではないかとする推論がある。


 北部九州の埋葬文化の特徴は、副葬品が豪奢ということだった。弥生時代にもっとも繁栄した名残といえよう。この文化が、ヤマトに持ち込まれたのである。


 最後に残ったのは出雲である。


 出雲では弥生時代中期末から後期にかけて、()(すみ)(とつ)(しゆつ)(がた)(ふん)(きゆう)()が現れた。方形の墳丘墓の四隅に(しや)()(せん)(ばち)のような出っ張りのあるもので、これが(こし)(北陸)に伝わり肥大化し、前方後円墳の「方」の部分に採用されたのではないかとする考えがある。また、墳丘墓の斜面には(はり)(いし)がびっしりと張り巡らされていたが、これが前方後円墳の(ふき)(いし)になったとする指摘もある。


 このように、前方後円墳の成立過程に注目すれば、ヤマト建国に果たした出雲の大きさは明らかで、とすれば、実在した出雲は、いったいどこに消えてしまったのかという、素朴な疑問につながってくるのである。

出雲につながる物部氏の出自


 出雲とはいったい何なのだろう。


 出雲は神話の世界で悪役に仕立てあげられ、またすでに滅び去ったかのように『日本書紀』は記すが、ヤマト最大の聖地()()(やま)には(おお)(もの)(ぬしの)(かみ)(おお)(くに)(ぬしの)(かみ)という正真正銘の出雲神が居座っている。これは謎めく。そればかりか、地元では、天皇家よりも出雲が先だったと語り継がれている。


 実は、このことは、『日本書紀』もある程度認めていて、神話の時代、大物主神は、すでにヤマトに移り、三輪山で祀られていたとしている。


 興味深いのは、初期天皇家の(せい)()の顔ぶれである。

『日本書紀』や『古事記』によれば、神武天皇以下、初期天皇家の正妃が、出雲神の娘であったとしている。もっとも、初代神武天皇とこれに続く八代の天皇家は架空で、第十代()(じん)天皇から真実の歴史が始まり、また、神武と崇神は同一人物であったものを、わざとふたりに分けたというのがほぼ定説になっているから、神武天皇らの正妃が出雲系であったことに、大きな注意は払われてこなかった。




 だが、『日本書紀』は出雲神を指して「悪しき鬼」とまで言い切っているのである。その出雲神の娘を、なぜ天皇家の輝ける始祖に結びつける「設定」を必要としたのか、釈然としないものがある。創作であったならば、もっとましな細工ができそうなものではあるまいか。


 そこで注目してみたいのは、物部(もののべ)氏だ。『日本書紀』は、神武天皇が九州から東に向かう前に、ヤマトにはニギハヤヒなる人物がいて、すでに君臨していたとする。ニギハヤヒは物部氏の始祖で、(じん)()東征に協力し、王権を(ぜん)(じよう)している。

『日本書紀』は、このニギハヤヒを(あま)()(かみ)といい、天皇家と遠い姻戚関係にあったことをほのめかすが、かといって血のつながりを明確に示せなかった。しかし、意外な形でヤマトの王家と物部氏の関係を知ることができる。

『日本書紀』は、「(いつ)(しよ)()はく」という形で、初期天皇家の正妃が、()(きの)(あがた)(ぬし)から出された、ともいう。この磯城県主が曲者で、『日本書紀』はその素性をヤマト土着の首長と位置づけるが、『(しん)(せん)(しよう)()(ろく)』や『(せん)(だい)()()(ほん)()』には、磯城県主が物部氏の祖・ニギハヤヒから出ていると明記している。すなわち、磯城県主は、物部同族であった疑いが強く、それにもかかわらず、『日本書紀』は、両者の関係に沈黙を守っていたことになる。


 伊勢神宮や(だい)(じよう)(さい)にも、物部氏は強くかかわり、吉野裕子氏は、伊勢祭祀も物部氏の祭祀を踏襲したもの、と指摘している。物部氏はヤマト建国にまつわる大きな秘密を握っているのではあるまいか。

『古代日本正史』(同志社)(はら)()(つね)()氏は、神社伝承を整理し直し、物部と出雲は重なり、つながると指摘している。


 この考えは斬新だったが、すべてを受け入れることはできない。「出雲」は歴史隠滅のカラクリのひとつで、裏側に複雑な仕掛けが用意されているからだ。そもそも「神話の出雲」の真相を、誰も説明してこなかったことこそ大問題である。現実の古代出雲と神話の出雲を同一にあつかってよいのかどうかも深く考えられてこなかったように思う。


 奈良県桜井市の(まき)(むく)遺跡の発見によって三世紀のヤマト建国の過程が、明確になってきた。纒向には吉備と出雲、それから東海や近江、北陸などの土器が集まっていて、彼らの力が融合し、さらに、最後に北部九州がヤマトに集まり、ヤマトは建国されていたのである。


 その中でも、吉備の貢献度がもっとも高く、出雲も無視できない勢力であったことがはっきりとしてきた。


 そうなると、かつての「出雲などどこにもなかった」という考え方を改めなければならなくなってきたことはいうまでもない。出雲はヤマト建国に参画していたが、『日本書紀』は、その実態を、神話の世界に封印してしまっていたのだ。


 ただ、問題はそれだけでは済まされない。『日本書紀』がヤマト建国の過程を神話の世界に葬ってしまったとしても、天皇家と出雲の対立という単純な構造に押し込み、吉備や東海、近江、北陸の活躍を抹殺していたことにもなるからである。


 そうなると、神話にいうところの「出雲」とは、ヤマト建国に参加したいくつかの地域の総称であって、地図上の旧出雲国を指しているのではないことに気づかされる。


 そして、原田氏の指摘どおり、「物部」が神話の出雲と多くの接点を持っていたとしても、具体的な出身地がどこだったのか、という疑念が湧いてくる。それは、「旧出雲国」だったのか、それともそれ以外の土地だったのだろうか。


 拙著『物部氏の正体』(東京書籍)の中で、「物部は吉備(岡山県と広島県東部)」と推理した。理由は、いくつか挙げることができる。


 まず第一に、天皇家は物部氏の作り上げた祭祀形態のいくつかを継承しているが、それは、ヤマト建国時にヤマトの宗教観の基礎を築いたのが「吉備」だったからだろう。


 第二に、物部氏は河内に拠点を持っていたが、三世紀の河内には、吉備系の土器が集中していたのである。


 第三に、『日本書紀』に従えば、ヤマト建国後、出雲はさかんに意地悪を受けているが、このとき差し向けられたのは、「吉備」か「物部」のどちらかだった。それはなぜかといえば、両者が同一だったからだろう。


 このように、「物部」は「神話の出雲」だったとしても、彼らの出身地は、「吉備」であったと考えられる。

朝廷が物部氏の正体を抹殺した動機


 問題は、ここまで必死になって物部の出自を隠す必要性がどこにあったのか、ということであろう。八世紀に記された『日本書紀』の編者にとって、物部氏の正体を抹殺する動機が何であったか、である。

『日本書紀』は、天皇家を天から舞い降りた唯一絶対の存在と記し、ヤマトを武力制圧したかのように記して、ヤマト政権発足の当初から、巨大な権力を得ていたと自画自賛している。しかし実際には、前方後円墳が異なる四つの地域の習合文化であったように、ヤマトの王権は列島に散らばった多くの首長たちの手で担ぎ上げられたのであり、『日本書紀』がいうほどの力を持っていたとは思えない。

()()()(じん)(でん)は、三世紀の卑弥呼が、複数の首長によって共立されたとしていて、このヤマト朝廷成立直前の日本の様子を記した文献の一節が、ヤマトを考える上でも有効であるように思えてならない。ヤマトの大王(天皇)を支えていたのは、物部氏を中心とする豪族であり、その証拠にヤマトの都で、天皇家は強大な豪族に包囲されるように暮らし、自ら堅固な城を持つことはできなかった。


 ヤマト建国直前の列島は、中世戦国時代を彷彿させるほどの混乱状態で、高台に無数の防御施設が造られていたのだから、ヤマトに乗り込んだ征服王が天皇の祖であるとすると、どうしても落ち着きが悪い。この防衛本能の欠除した様子を説明するには、どうしても、共立というキーワードを用いなければならないのである。


 つまり、発足当初のヤマト政権は、豪族らの手による合議制だった疑いが強く、また、このシステムが四世紀以降の日本に活気をもたらした気配がある。


 ところが、五世紀、ヤマトの繁栄と半島の混乱が、日本の歴史に微妙な影を落としていく。(こう)()()の南下に危惧の念を抱いた半島南部の百済(くだら)()()は、日本に援軍を望むようになる。ヤマトは積極的に軍事介入をしていったから、これが中国大陸(南朝)からも認められ、大王(天皇)は、次第に国際的評価を上げていった。そして、()()(おう)の最後の()(ゆう)(りやく)天皇の時代、実権を握りたいという天皇家の執念が、一気に噴出するのである。


 有力なヤマトの豪族を後ろ盾にする皇位継承候補を次々と暗殺し、雄略天皇は即位する。そしてこの人物は、ヤマトをそれまでの「豪族層の馴れ合い社会」から、中央集権国家に作り替えようとしたようなのだ。


 かつて筆者は、「独裁を目指す雄略的な天皇家」と、「合議制を守ろうとした蘇我氏」という図式を用意し、七世紀の政争の深層を読み解こうとした。しかしここに至り、考え方を修正しなければならなくなった。意外に思われるかもしれないが、雄略の打ち出した方針を継承したのが蘇我氏で、彼らは屯倉(みやけ)制の整備に尽力し、強い政府の樹立を目論んだ疑いが強い。七世紀の律令制度の整備も、蘇我氏が先頭に立って推進していた疑いが強いからである。


 もっとも、蘇我氏が目指したものは、単純な「強い王家」ではなく、「強い政府」であり、天皇の権威の元での合議制を模索した気配がある。そして物部氏も、一度は蘇我と対立しながら、最終的に、蘇我の改革事業を後押しすることとなる。

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