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昭和疾風録 興行と芸能
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エンタメ
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一章 戦後と興行

『昭和疾風録 興行と芸能』
[著]なべおさみ [発行]イースト・プレス


読了目安時間:43分
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戦争が終わった



 昭和二十年(一九四五年)八月十五日。天皇陛下の玉音放送があった。


 私は六歳で、疎開先の茨城・水戸近くの旧(こい)(ぶち)(むら)にいて、野の一角に急造された開拓地の我が家の庭先で聴いていた。長く延長したコードで繋がれたのは、いつもは高い棚に置かれていた「マツダ三球スーパーラジオ」だった。我が家に電気が通って直ぐのことでした。玉音放送よりも、カーバイトランプから電球に変わったことのほうが、私には驚きでした。


 近隣の人が何人も来ていて、知らされていた玉音放送に耳を向け、(かた)()を呑んでいました。結局、戦争に負けたということでした。


 子供心に、日本が負けたから残念だとか、これからの日本がどうなるかなんて気持ちは、嘘にも起こらなかったですね。そんな少年の一日が、八月十五日という日でありました。


 ラジオを囲んで地面に突っ伏して、全員が泣き崩れるなんて光景は、その場の人々にも無かった気がします。戦争に厭き厭きしていたのです。


 それよりも、与えられた(ちゅう)(ぶる)の自転車と取っ組んでいた最中だったから、早くこの場を逃れてどこか手頃な坂道で遊びたかった。


 それが終戦の日の実感でした。



 それからの記憶に、戦争に敗れた敗戦国の憂鬱など微塵も無い。それは私の楽天的な性格からなのかもしれないが、私の両親の影響だと思っている。

「まったく。嫌になっちゃうなぁ!」


 等と言う言葉を、父や母の口から聞いたことがなかった。今考えると、みんな生きるのに必死で、愚痴など言っている暇が無かったのかもしれない。それに、耐えるのに当然と思わざるを得ないほど、どこを見たって無い無い尽くしの世の中だった。


 吉幾三の歌じゃないが、それに似ていて、

「〽ああ、電気も無え、水道も無え、お米が無え、肉なんて無え、魚も無え、何にも無え」


 そんな時代だった。


 疎開先は藁葺きの掘っ建て小屋だったし、とにかく終戦翌年の春、学校に入ったのだが、教科書すら無かった。

「サクラ サイタ」


 これは残っていたが、

「ヘイタイサン アシナミソロエテ イチ ニ サン」


 ここは墨で塗り潰されていて真っ黒だった。


 そんな教科書を、三人に一冊のみ与えられたのだから、三日に一回しか家へは持って帰れなかった。私が「こくご」が好きなのは、三日に一回、必死に教科書を暗記したお蔭だと思っている。無いということは有るということよりも、ずっと人間には必要な条件だと後々判らされた。無いは必要の母なのだった。


凄いアイデア



 古池慶輔さんが戦前から経営していた柳橋劇場も、空襲で焼けました。


 ビルであった為、躯体だけが残った劇場の残骸の内部から、抜け落ちた天井の上に続く青空を見上げながら、古池さんも人の子、途方にくれたそうです。二十万円の火災保険に入っていたのに、下りたのは五千円だったのです。焼け跡にへたり込みました。


 博多だけではありません。日本中の主要都市が焼け野原でした。


 少ない情報とはいえ、疎開先の片田舎にいた子供の私でも、その惨状は心に焼き付いています。そして小学四年生、昭和二十四年(一九四九年)に見た、東京・銀座の赤茶けた焼き尽くされた戦後のあの印象は、生涯不滅で心にあるのです。


 子供とはいえ思いました。


 戦争ぐらい無駄で無残な人間の行為はありません。人間の努力を人間が破壊していくのですからね。


 その現実を見ていただけの経験ですが、実際に生き抜いていた大人達の辛苦は、克服するのにもの凄い努力とエネルギーがいったでしょうね。


 古池さんは、青天井を見つめて思い立つのです。何もかもが不足していて当然の終戦時、不足していない物が九州にはありました。


 竹です。この人の凄さです。

「竹で屋根を掛けてやれ!」


 近間の竹藪が頭に浮かびました。

「小竹町から持って来よう!」


 頭にジャワやスマトラの小屋の風景が浮かんでいました。九州の竹は(モウ)(ソウ)(チク)です。太くて長い。これを二つに割って屋根を葺けば、雨も大丈夫だ。


 幸い、友人の家には竹林がありました。閃きと行動が同時の人間でした。男、古池慶輔、三十七歳の再出発でした。


「おい。GHQが、映画館の再生にはどんどん金を回してやれとのお達しだぞ!」


 そう情報をもたらしてくれたのは、福岡証券金融社社長の吉次鹿蔵氏だった。


 真面目一辺倒の吉次さんは、やんちゃな古池の調教師でもあり操縦者でもあった。


 この人と、「部落解放の父」と仰がれていた(まつ)(もと)()(いち)(ろう)先生のお蔭で、古池は人生の大難関を何回か乗り越えて来られたと言っていい。ともすれば「夜の市長」と噂を飛ばされる程、この後の終戦の混乱期を波乱万丈に生きる男だが、人生を踏み外さなかったのも二人の見守り故だった。

「私が予算を取ってやるから、一気に建ててしまえ!」


 我が意を得たりとはこのことだと、古池社長は存分に持てる力を発揮して、周囲が手つかずにいる内にみるみる竹の屋根を普請していった。鉄材も木材も不足している中で竹を使うとは、この人ならではのアイデアだった。


 その間に、火を被った映写機の洗い出しや修復も突貫で出来上がっていった。


マッカーサーと映画館



 そんな中で、昭和二十年(一九四五年)も師走の風が吹く頃となって、吉次鹿蔵社長から朗報が飛び込んで来ました。吉次さんは古池さんの隠れ頭脳なのでした。

「喜べ! GHQが動くぞ! SSSのダイク大佐からの情報だ! 映画館建設資金は簡単にオーケーが下りる!」

「SSS?」

「それは、スペシャル・スタッフ・セクションと言ってな。マッカーサー直属の幕僚部なのさ。その中の“民間情報教育局”の親分がダイク大佐なのさ!」

「大工が親分だ? じゃ棟梁だな!」


 そう。このダイク大佐に命令が下り、日本の映画館の再建に優先を尽くせと為ったのです。


 これは、本国政府の司令でもありました。「日本的な封建制度の駆逐には、ハリウッドを使え。デモクラシーを民衆に浸透させ伝播させるには、アメリカ映画を観させて洗脳させるのが大いによろしい。急務とせよ」


 マッカーサー元帥は夫人と共に駐在しておりました。一番恐れていたのがテロでした。

「四カ月間しか戦う能力なし」


 そうアメリカ政府がはじき出していた日本の国力は、日本軍と四年も戦い続けていた元帥が一番良く知っていたのです。

「恐ろしい国民だ! 国民力の国だ!」


 そう思うのは、自分自身が激戦の南方の地から逃れてオーストラリア落ちの屈辱を味わっているからこその実感なのだった。

「何時襲ってくるか知れやしない! 特攻隊精神ってやつで!」


 ですから、日比谷のGHQでの実務を終えると、寄り道など絶対しないマッカーサー元帥でした。ただただ一直線に宿舎帰りを励行していたのです。


 その翌年の四月三十日、マッカーサー暗殺計画を企て五月一日に実行しようとしていた男が逮捕されている。手段に使おうとしていたのは、手榴弾と拳銃であった。


 マッカーサーは用心していたから、自分の宿舎をGHQと近間の赤坂にあった米国大使館内に置いていた。そこなら警備は万全だったからだ。


 仕事を離れると、遊びに出ない元帥は宿舎内に備えていた映写室をシアターとして、映画館にみたて、夫人と共に映画を楽しんでいたのだ。



 その辺は昭和五十二年(一九七七年)に製作されたハリウッド映画『マッカーサー』でみて取れます。グレゴリー・ペックが人間マッカーサーを演じて素晴らしい。宿舎で映画を観ている場面が登場し、スクリーンで上映している映画は西部劇です。そこへ側近の者が現れてそっと耳打ちします。慌てて出て行くのですが、それが朝鮮戦争の勃発だと知れます。


 ならばそれは昭和二十五年(一九五〇年)の六月二十五日で、日曜日だと判ります。


 私の趣味はマッカーサーの観ていた映画にありました。


 話は古池さんから脱線していますが、ごめんなさい。

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