読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-2
kiji
0
0
1277501
0
昭和疾風録 興行と芸能
2
0
0
0
0
0
0
エンタメ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
三章 写真で辿る戦後芸能

『昭和疾風録 興行と芸能』
[著]なべおさみ [発行]イースト・プレス


読了目安時間:1時間49分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ



終戦翌年に劇場オープン



 まったく電気が通っていない村もたくさんあったのが、戦争に敗れた昭和二十年(一九四五年)の日本の現実でした。水道など無い生活が日本中にありました。村と言われる場所には、電気や水道やガスといった文明は行き渡っていないのが普通でした。


 比較的文明の恩恵を受けていた市街地や都市の住民も、一転して焼け出されてしまいました。全国の都会は被災し、完膚なき迄に破壊され尽くしました。それでも焼け焦げの木材などで雨露を凌ぐバラックを建て、踏ん張りました。


 さて、焼け出された人々が一番苦しんだのは衣食住の中の食でした。文明を享受していた人々の弱さです。


 ランプや井戸水で生活していた人々には、戦争の大打撃は及びませんでした。元々、自給自足の生活の中で生きていた農村ですから、食の困窮はありませんでした。


 一方、都会人達もお金はありません。終戦と同時に、街々には焼け跡に市が立ちました。そこには食料や必需品が並んでおりました。家族を食べさせていくのには、配給という食糧供給システムだけでは足りないのが現実でした。


 闇市を避けた人々は、汽車に乗り、買い出しに田舎へと走ったのでした。そこでの特徴は「物々交換」という、非常に原始的な商法でした。

「お米を少し分けて頂けませんでしょうか。この腕時計は、大変高級なロンジンという製品です!」


 懇願された農家の主人が、相応の米や芋を渡してやる光景が日本中の田舎でありました。そうして背広や着物や書画骨董は、都会から田舎へと流れました。


 余談ながら、テレビ番組の『開運! なんでも鑑定団』の出張先で出てくる品の中には、こうした時代にその地に渡った都会の人々の物が多分に含まれているだろうと、私は思って観ています。



 さて、そんな終戦翌年の七月に、博多ではレヴュー舞台がオープンするのですから、全国的に見ても大変な偉業でありました。


 日本人が打ちのめされている姿は子供の私にも記憶されています。しかし、今思えば、へこたれた言葉など私の両親は勿論、近間の大人から聞いた覚えがありません。

「参ったな!」の声よりも、「どう生きるか!」を自分に問い掛けて、声を出さずに生きていたのでしょう。きっと父と母は話し合っていたでしょうが、父は母に弱音など吐くことなく、母は母で心配を掛けまいと懸命だったのに違いありません。


 そんな家庭が日本を再興させる縁の下を支えていたのです。


 そうして歯を食いしばって生きていた博多の一角に、レヴューを見せる劇場がオープンしたのです。


 終戦の翌年ですからね、凄いですよ。


水の江瀧子



 水の江瀧子は、戦前から戦後直ぐの時代を知る人々にとっては、その後の日活映画会社が復活して来てからのイメージとはとてつもなく違っています。もう、石原裕次郎を発見し育てたプロデューサーとしての印象しか残っていない。その昔の踊り子としての水の江瀧子を知る人は、今やほとんどいないでしょう(写真14




 水の江瀧子は、宝塚歌劇を意識して作られた松竹歌劇団の一期生です。東宝の宝塚に対して、松竹が東京で創成した女子レヴュー団です。


 女子レヴュー団は大正三年(一九一四年)、阪急電鉄の総帥小林一三が、阪急電車の需要を増す為に、鉄道沿線の住宅地と共に考え出した娯楽産業でした。若い女子ばかりのレヴューは評判を呼びました。全国的に各種の類似レヴュー団が誕生し、大正時代初頭のブームとなります。


 そんな中、白井松次郎と大谷竹次郎率いる松竹は、大正十一年(一九二二年)に大阪でレヴュー団を結成しました。「松竹歌劇団」で、「SKD」でした。やがて昭和三年(一九二八年)八月の末に、浅草松竹座の開劇に合わせて東京でも発足。この最初のスタートが、「ターキー」こと水の江瀧子でした。


 昭和五年(一九三〇年)、彼女は突如異彩を放ちます。なんと女歌劇の女性として初めて、男性風に断髪し「男装の麗人」と異名をとり人気が沸騰するのです。


 この写真に登場している彼女は、細身の均整のとれた、実に美しい姿態です。彼女の髪は女性そのものですが、断髪当時は宝塚にも男役の断髪が流行し、大変な人気を誇ったのでした。


 しかし、時代は刻刻と戦争が近づいておりました。

「こんな非常時に、若い女子が足を上げたり下げたりするとはけしからん! それを観ている国民も又けしからん!」


 軍部の圧力は日を追って強まりました。レヴュー界空前の人気を独占していたターキーも、昭和十二年(一九三七年)、浅草に国際劇場が開場して人々が喜んでいても、時代の流れには勝てません。


 昭和十四年(一九三九年)、SKD休止。


 昭和十六年(一九四一年)、第二次大戦始まる。


 昭和十八年(一九四三年)、ターキー退団。


 この少し前、大戦の始まる中で、軍部の圧迫がありながらも、ターキーは「劇団たんぽぽ」を旗上げしました。


 これは恋人の勧めで結成したのです。ターキーの恋人は、松竹の宣伝部の男でした。名を兼松廉吉といいました。この人は戦後直ぐに鶴田浩二を売り出し、マネージャーとして顔を売ってゆくのです。


 ただ、ターキーは結婚を考えていたのに、兼松には奥さんがおりました。


 それなのにターキーともあろう方が、彼の言うままに行動していたのには、彼女を知る者達は驚いて見ているばかりでした。


 立ちいたらぬ踊り子生活から脱する為、恋人の言うままに「劇団たんぽぽ」を立ち上げました。兼松は松竹を辞めて、ターキーのマネージャーとして独立します。


 劇団は、音楽喜劇で編成され、団員には堺駿二、有島一郎、田崎潤といった、腕のある男性陣が加わりました。


 そして、恐らくこの一座は昭和二十三年(一九四八年)の解散まで、それぞれの活動の合間をぬって、巡業に出たのでしょう。


 その売り込みを、兼松マネージャーは、永田貞雄に託したのです。三人の輪に入ったマネージャーだったのですが……。


 昭和二十一年(一九四六年)に博多へ巡業に来ているのは、終戦前にも来ていたということです。それだけの関係が出来上がっていた訳です。


 古池社長は三十八歳。


 ターキーは三十一歳。


 勿論、兼松マネージャーも一緒です。この時から八年後、彼は自殺してしまいます。


 ターキーと鶴田浩二という二大人気者を有するマネージャーとしての所作が、少々驕りを見せすぎていた為、周囲から疎まれてしまったが故の、八方塞がりによるものだと言われています。色々問題を起こしていたのです。人と人との問題だったのでしょう。


 さて、恋人の支えを失ったターキーはこの後、日活映画のプロデューサーとして再度脚光を浴び、更に後には、ロス疑惑の三浦和義事件で渦中の人となるのです。


高峰三枝子



 終戦翌年にもかかわらず、次から次へとスターが博多に来ています。


 さて、写真を見てみましょう。昭和二十一年(一九四六年)の七月に、古池社長の劇場「柳楯映画劇場」へ高峰三枝子が登場した時のものです(写真15




 彼女はこの年、二十八歳。女盛りです。匂うばかりの美しさです。本当に日本にもこうした美しい女性が居るのだろうかと、九州男児は肝を潰した筈です。


 私なんかこの時から二十五年も経った昭和四十六年(一九七一年)に、フジテレビの連ドラ『てるてる坊主』で共演出来ました。御歳が五十三歳でしたが、いやぁ美しかったです! 高峰さんが母で、私が息子の役でした。


 現実には、私は結婚したばかりでしたね。私が家を持とうとしているのを知って、持ち家の一つを私に譲ってくれようとしました。

「戦後、私が再出発して盛り返していったのはこの家でしたよ。縁起がいいからこちらに住みなさい!」


 想像以上の安さでした。

「どうしてそんなに安くして下さるの?」


 聞いた女房に対し、ケロッとして言い放って、ケラケラと笑った姿が忘れられません。

「あら。あなたは女房でしょうが、私はこの子の母ですからね!」


 そんな江戸っ子気質の、あっけらかんとした姉御肌のスターでした。


 私が高峰三枝子さんと同世代だったら、絶対に女房にしようと努力したでしょうね。うちの女房と同じぐらいに美人でした。


 彼女は昭和二十一年(一九四六年)には、松竹で三本の映画を撮っています。『グランド・ショウ一九四六年』と『待ちぼうけの女』『お夏清十郎』です。


 松竹映画の脇役・小林十九二が写っておりますから、これは舞台挨拶かもしれません。今で言う、プロモーションだったかもしれません。楽団と共に歌うショウ構成だったかも、はっきりしていません。とにかく高峰三枝子さんは歌う映画スターの草分けの人ですから、巡業に出ていたかもしれませんね。


 終戦翌年の七月の時点で、高峰三枝子を劇場出演させている古池さんは流石です。



 同年八月にも松竹は、飯田蝶子、吉川満子といった女優を送り込んでいますね。


 十一月にはエノケン、榎本健一です。この時代は戦前の売れ方がそのまま継続していた訳ですから、「日本一の喜劇王!」とか「喜劇の王様エノケン来る!」とか言われたのでしょうね(写真16




 今の人々にエノケンは未知の世界の人かも知れませんが、昭和二十一年(一九四六年)時点のエノケンは文句なく日本一の喜劇の王様でした。昭和二十年代前半迄は、文句の無いキングでしたね。その王様本人が博多へ来て、劇場に出るとなると、町の人々は目と耳を疑ったでしょうね。


 と言うのは、日本には古来、偽者とか偽物の文化が入り混じる社会が存在したからです。人気が出れば、必ずといっていい程反目のまやかしが出現したのです。


 そして社会は、「偽者が出たから、あいつは大したもんだ!」と認めたものでした。


 特にエンターテインメントの世界では、これが顕著でした。例えば美空ひばりが笠置シヅ子の物真似で売り出し、天才少女歌手として全国に認知されていきました。


 でも、これは物真似ですからいいのですが、困るのは全国を興行して歩いていた偽者です。

「ブギの女王 笠置シズ子来る!」


 こう宣伝され戦後の一番人気歌手、「東京ブギウギ」の服部良一メロディーに引かれて、田舎の客は皆、騙されていました。

「笠置シヅ子じゃないぞ!」


 と文句を言っても、

「いえ。良く見て下さい! うちは、笠置シ子です!」


 ズとヅの違いです。こんないいかげんな興行師や興行社は日本全国至る所に存在していました。


 ギャラの持ち逃げや、約束を守ってもらえない興行旅はたくさんありました。本物の笠置シヅ子が博多の古池さんの劇場に来るのは、昭和二十七年(一九五二年)まで待たねばなりませんが(写真17、笠置シヅ子を真似して売れた美空ひばりは、それ迄に何回も来ています。




 さて、エノケンの偽者は、

「天下一の喜劇王 来る! 爆笑 エノケソ! 登場!」


 これも笑える。エノケンではない、良く見ればエノケだから。


 美空ひばりも、こうしたガセネタの多かった戦後の第一の物でした。

「天才少女 御当地 初登場! あの 美空ひはり 来る!」


 だものね。私も子供ながら知っている事実だ。二歳年長のひばりさんを少女時代から見て生きて来たから、この辺りは実感として幾つもインチキ興行を知っている。

「ひばりがひはりでは、点で違う!」


 そんな洒落で事済んでいた時代が、昭和という時代の戦後です。


 そうしたインチキな興行を考える者、そうしたタレントを作り出す者、それを小屋に掛ける者、判っていても観に行く者、それが昭和三十年代迄は存在していましたね。


藤山一郎



 写真を見て下さい。藤山一郎を迎えた時のものです。前列古池社長と並ぶ藤山一郎は、戦前からのスターです(写真18




 昭和六年(一九三一年)、「酒は涙か溜息か」は空前のヒットとなりました。この歌は古賀政男の作曲です。無名の二人が世に出て行ったこの曲は、なんと百万枚の大ヒットを記録したのです。日本中に蓄音機が二十万台しかない時代の百万枚ですよ!


 このコンビで「丘を越えて」も連続ヒット。そして二人はスターダムに伸し上がったのです。


 藤山一郎と言えば、日本人の好む名曲ランク第一位の「青い山脈」ですね。でも、それは昭和二十四年(一九四九年)です。


 この写真の時は、インドネシアで戦争の捕虜となっていて、やっと昭和二十一年(一九四六年)七月に復員船で帰国したばかりでした。七月二十五日に広島の大竹港に、改装された航空母艦・(かつら)()に乗って辿り着いたのです。


 八月二十四日にはNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出ています。


 格調の高さから“国民的歌手”と称された人だけに、NHKだけでなく国民が放っておかない歌手だったのですね。その方が、南方の激戦地で捕らわれた後、生き延びて帰って来たのです。


 さあ、帰っては来たが、生きて行かねばなりません。食べる道は歌です。


 その道を付けたのは永田貞雄でした。

「藤山が帰って来た! 使ってやってくれ!」


 そう一報をした相手が神戸です。今度は田岡一雄から博多に声が掛かります。

「藤山が帰って来たで! 又、稼がせてやってくれまへんか?」

「何を仰いますか! 喜んで!」


 山口組三代目を継いだのが六月でした。七月から劇場を再開している古池には、藤山一郎の帰還は我が事のように嬉しいのでした。



 丘を越えて

〽丘を越えて 行こうよ

真澄の空は 朗らかに晴れて

楽しい心 鳴るは胸の血潮よ

讃えよ わが()()

いざ行け 遥か希望の 丘を越えて

作詞 島田芳文

作曲 古賀政男



 昭和六年(一九三一年)にヒットした歌をもって、藤山一郎は全国の旅に巡演して行く勇気を、博多に求めたのだ。


 戦地の慰問で歌ったこの歌を、兵隊さんはどう聴いただろうかと、今、書きながら私は思う。

〽丘を越えて 行こうよ

(そう! 丘は戦争だ! 終わったら、戦争が終わったら)

〽遥か希望の 丘を越えて

(そこは祖国だ。日本の大地だ!)



 希望こそが、生きる者の最大の力の源泉なのだ。藤山一郎の歌声を、パレンバンの島やジャワの南方戦地で耳にし、目にして、どれだけ勇気付けられたことでしょう。


 そして戦後、祖国に命からがら辿り着くや否や、敗戦国民の慰めにと巡演して行った藤山一郎という人に、今更ながら驚きと共に敬意を覚えるのです。


 いやぁ立派な人です。


 そして、それを一声で具現化してみせることが出来た人脈が見事です。


 いくら藤山さんが、「歌いに出たい、全国に行きたい!」と望んでも、あの終戦のどさくさの中ですからね、おいそれとルートが見つからないってものです。受け入れ先もままならぬ状況でしたでしょう。


 特に興行の世界は、いかがわしい興行師が(ちょう)(りょう)(ばっ)()していました。極端な話、八十パーセントがいいかげんなビジネスだったようです。二千社もあった興行社のほとんどが、看板を掲げているだけのやくざ者の世界でありました。


 そんな中で、戦前から興行という商売を真っ当な稼業として事に当たっていた田岡一雄という人には、改めて尊敬を感じざるを得ません。


 藤山一郎さんは、日本の歌手の中で、最も孤高の人と言われたそうです。本来はクラシックの世界の逸材とされていた方が、歌謡曲の世界を志向して行って音楽界を驚かせたものでした。


 そうした常識人の中の常識人の藤山一郎さんが心を寄せて、己の仕事を仕切らせたことこそが、このラインの素晴らしさを物語っているのです。


 東京にて永田貞雄。そこから


 神戸にて田岡一雄。そして、


 博多にて古池慶輔。そこから、


 九州巡演の旅へ。でしょう。


「古池親分?」

「藤山先生を、わしのとこで、三日博多に出さす。その後、博多のキャバレーで、小倉、門司、と山本社長に渡そう。一日、移動で、熊本、また一日休んで移動で鹿児島やなぁ。お前、三日預けようか?」


 古池御大からの電話で、大村の百田興行師は小躍りしたろう。

「よっしゃ! ありがたいことです! しっかり預かりまっせ!」


 力道山だけでなく二所ノ関一門の巡業で昔から世話になっている興行師だけに、九州興行界の総帥的役割の古池社長には、恐れ多くて「社長」などとは呼べなかったのだ。

「古池親分!」


 そう呼んで憚らなかった。それで、家族が嫌がったものだった呼び名が行き渡ってしまった。


 近隣の本物のやくざが何かと古池社長の世話になり、

「古池親分すみません!」

「親分よろしくお願いします!」


 そう言っている者が本物のやくざの親分だったりするから、古池慶輔はやくざでもないのに「古池親分」と通称されるようになってしまったのです。



 それにしても、もう一度写真を見て下さい。


 古池社長や皆さんの恰好から、夏だとお判り頂けましょう。


 白の夏服姿の藤山一郎、三十五歳。


 古池慶輔、三十八歳。


 よーく見て下さい。前列左の背広の方は、古池慶輔のシンク・タンク、吉次鹿蔵さん。そして、そして、その左の着物姿の人こそ、誰あろう、田岡一雄その人なのです。


 そうです。この人の凄さは、自分が扱う「荷物」に付いて歩いたのです。何度も言いますが、終戦の次の年ですからね。左側に立つ半袖姿の人達はバンドマンでしょう。それ等を連れて神戸芸能の責任者として一緒に来ている姿です。


 博多の人々も、


〽丘を越えて 行こうよ

(そうさ! この苦しさを乗り越えよう!)

〽真澄の空は 朗らかに晴れて 楽しい心

(そうさ! 負けてなんかいられるか!)

〽いざ行け 遥か希望の 丘を越えて

(そうさ! 胸を張って、生きんばい!)



 眼を輝かせて希望を取り戻してみせる庶民を見ながら、ステージと客席の両方を見つめている田岡一雄の胸に、本当に実感していただろう思いは、これだ。

「興行っていいなあ! 大勢の人に夢や希望を与える仕事や!」


美ち奴と女剣劇



 この年九月には、()(やっこ)と中野弘子の組み合わせが来ています(写真19




 浅草の芸者さんに美人で歌の上手い娘がいると、評判になっておりました。レコード会社の知るところとなり、見聞のお座敷で歌って驚かせ、たちまちレコードが出されました。

「うちの女房にゃ髭がある」が大ヒットです。


 私なんかでも学校に上がる前に歌っていましたからね。これはサトウハチローの作詞、古賀政男の作曲です。サトウハチローは浅草の主みたいな変人で、豊かな詩心に溢れた詩人でした。きっと美ち奴さんと知り合いだったんでしょうね。

「ああ、それなのに」で不動の地位を築きましたが、調べれば調べる程、哀しい運命の美人です。


〽ああ それなのに それなのに

ねえ おこるのは おこるのは

あたりまえでしょう



 昭和十二年(一九三七年)の歌なのに、昭和十四年(一九三九年)生まれの私が疎開先の茨城県の片田舎で歌っていましたからね。テレビが流行する昭和三十年代迄の世間は、歌の流行はヒットすれば十年は通用するようになっていました。ですから昭和十二年(一九三七年)のヒット曲は、昭和二十二年(一九四七年)でも立派に通用したのですよ。


 まさに、博多の舞台は、レコード界から消えていた美ち奴を、大拍手で迎えたでしょう。それはどんなに彼女を励ましたことか!


 何故かと言うと、美ち奴は、実に男運が悪いのです。好きになる男は、実に格好良い者ばかりです。ですが、どれほど愛しあっても最後はあっさり美ち奴を棄てて、他の女と結婚してしまう。


 北海道から十五歳で上京し、浅草で芸者になった美女は、純真すぎたのでしょうね。


 それに成功して両親を故郷から浅草へ呼び寄せて住まわせ、親孝行出来たと喜んだのが昭和十八年(一九四三年)です。東京大空襲は昭和二十年(一九四五年)。両親はこの時亡くなっています。


 打ちのめされている彼女を支えていたのは、中野弘子という当時大流行の女剣劇役者でした。

「軍国の母」という、戦時歌謡の大ヒット第一号を発しながら、美ち奴は表舞台から姿を消していました。それは、軍部の度重なる統制で発禁になるレコードに嫌気が差していた時、浅草の人気を独占していた女剣劇の中野弘子に惚れ込んだのです。数々の映画に出て演技を学んでいた美ち奴は、彼女の舞台に出演し共演し続けたのです。


 そして二人は拠点を京都に移しています。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:46161文字/本文:54327文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次