終戦までの誇り高き日韓友情の真実
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「親日派」朝鮮人 消された歴史 終戦までの誇り高き日韓友情の真実
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歴史
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第三章 靖国神社に祀られた朝鮮人

『「親日派」朝鮮人 消された歴史 終戦までの誇り高き日韓友情の真実』
[著]拳骨拓史 [発行]PHP研究所


読了目安時間:40分
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 東京の九段下にある靖国神社で祀られている英霊は、二四六万六五八四柱。そのうち大東亜戦争で散華された英霊は二一三万三九一五柱である。そのなかで、日本統治下において軍務に従事し亡くなった朝鮮半島出身者の()(たま)は、約二万一〇〇〇柱にも及ぶ。第二章で紹介した朝鮮人特攻隊員の犠牲者は、全体の〇・一%にも満たない数になる。




 最初に靖国神社に合祀された朝鮮人は崔鍚忠という人物であった。外務省警官となり間島総領事館の巡査部長として着任し、匪賊討伐隊とともに出動中、昭和八年(一九三三)八月十五日に戦死している(「招魂社に合祀 唯一の朝鮮人」『朝日新聞』一九三四年三月二十五日)。


 また昭和十三年(一九三八)に朝鮮で初めて実施された志願兵制であったが、最初の戦死者となったのが、陸軍一等兵の李仁鍚であった。


 志願兵は配給も最優先、役場でも特別扱い、警察も一目置くといった具合で、朝鮮でも英雄扱いであったという。


 李仁鍚は沃川農業実習学校(現在は廃校)で学び、卒業後は同校の講師をしていた。しかし第一期の志願兵制度の募集が始まるとこれに応募し、見事合格。翌年には中国の山西地方の前線に配属され、晋南にいる中国国民党軍の残敵掃討作戦に従事した。一度は敵が布陣する高地を占領するも逆襲を受け、激戦が展開されることになった。


 李仁鍚も勇戦するが、敵の手榴弾による爆傷を左大腿部に受けた。この負傷で出血多量となり動くことが出来ず、戦友の手を握りながら戦死したのであった。


 李仁鍚の母親は日本の風習に倣い、弾除けのお守りとして「千人針」をつくって我が子に贈ろうとしていた。しかし千人針をつくるには、千人の女が一針ずつ、赤い糸で布きれに縫いだまを作らなければならず、住んでいる田舎ではとてもつくれないので、一六キロも離れた町まであるいて、街路で一針を求めた。


 しかし出来上がった千人針は短くて帯にも出来ないということで、母親は翌日、再度町に出かけて紡績工場の女工さんを訪ねて、千人針をつくった。しかし今度は針数が三〇〇〇を超えており、多い分は良いのではないかという声もあったが、我が子を思う母の気持ちは抑えきれず、老いの身をおして三度、山坂を超えて、ついに千人針は完成した。


 苦労してできあがった千人針を、ようやく愛する息子に贈ろうとした直後、戦死の報告が届いたのだという。母親の心中はいかばかりであったろうか。


 この戦死は朝鮮半島初の軍人の戦死者であり、郡守、警察署長など地元の有志たちが李仁鍚の自宅を訪問した。両親は取り乱したりすることもなく「出征の時から今日あるを覚悟していました」と述べ、丁寧に応対をされたという。李仁鍚一等兵は上等兵へと進級し、功七級金鵄勲章を授与された。朝鮮人に金鵄勲章が授与されたのは、これが初の事例となった。


 その後は朝鮮総督・南次郎や拓務相・金光庸夫などが訪問し、見舞い品などを持参したという。


 総合雑誌『三千里』を経営していた金東煥は「勧君就天命」にて、次のようにいう。


李仁鍚君が我々に教えてくれたではないか

彼も兵士となって生死を国に捧げなかったのなら

今ごろは忠清道の山奥の名もない農夫となって

麻衣に粟飯で一生埋もれて暮らしたであろう

何故に知事郡守がその墓の前で頭を下げるのか

何故に供物や勲章がその祭壇に供えられるのか



 昭和十六年十月十四日、李仁鍚の遺族は、はるばる日本に渡り靖国神社をお参りしていた。その際のインタビュー記事がある。

「村を出るときも村中の人が送ってくださった。李家の名誉だ、国の名誉だ、朝鮮の名誉だとまで言ってくださった。こんな名誉なことござりませぬ。たいした手柄もたてんのにこんなにまでしてもらうて(中略)でも伜はなあ、死ぬとき『天皇陛下萬歳』ちゅうて死んだそうじゃ」「わしはなあ、伜の名前がこうして残っている以上、伜はいつまでも生きていると思っている」(「朝鮮の名誉 志願兵・李上等兵の遺族」『読売新聞』一九四一年十月十六日)


 李仁鍚が戦死してから数年間は、全国から自宅へと巡礼に来る人が後を絶たなかった。しかし終戦を迎えると遺族を取り巻く環境は一変した。一九四九年、韓国は「反民族行為特別調査委員会」を制定させた。これは日本統治時代に日本へ協力した人々を、反民族行為者だと処罰するため設置された特別委員会であった(後述)。


 委員会は李仁鍚が戦死したことで裕福になっているのではないかと、遺族を厳しく取り調べたのである。結果は無罪となるが、現在でも日本の英雄となった李仁鍚の遺族に対する風当たりは強い。



 志願兵ではなく軍属(軍に雇われた民間人。戦闘に直接関与しない雑役を担当)として戦死した朝鮮人もあった。


 昭和九年(一九三四)三月十五日、連山関守備隊は匪賊八〇名と交戦して撃滅させたが、朝鮮人通訳の金宣行は部隊の先頭に立って活躍し、匪賊が潜伏する民家に突入して一斉射撃をうけて戦死を遂げた。


 金は絶命の際、手にしていた地図を引き出し、「匪賊に取られると日本軍に不利だから」と託してからこと切れたという。


 また崔昌徳という朝鮮人通訳がいた。


 昭和十二年(一九三七)に通訳として南京攻略戦や徐州会戦などにも従軍し、兵士たちから「勇敢な通訳だ」と評されていた人物である。


 昭和十三年(一九三八)九月二十四日、武漢作戦に従軍中、怪しい中国人を見つけたため、崔昌徳が中国語で「お前はどこの者か」と尋ねると、「私はこの村の村民です。怪しいものではありません。ウソだと思うなら、私の家まで来てください」と答えた。


 便衣隊(住民と区別できない服装で敵地に入り、謀略・ゲリラ活動をおこなう部隊)が多いエリアであることもあり、崔昌徳は正体を確認するために自宅まで行くことにした。


 村人は崔昌徳を案内すべく先頭に立ち、雑草の茂った道を案内した。草原を抜けるとその先に村の家が見え、やがて小川のほとりまで来たときである。


 雑草の茂みに隠れていた便衣兵が崔昌徳へ手榴弾を投げつけた。崔昌徳は爆発によって瞬時に血まみれとなって、その場に倒れ込んだ。


 爆音を聞いて日本軍の工兵たちが駆けつけたとき、便衣兵たちは既に逃走していた。崔昌徳は虫の息ではあるものの、「残念だ」と言って起き上がろうとしていた。


 すぐさま崔昌徳を野戦病院まで搬送したが、傷は深く崔昌徳自身も死を悟っていた。

「お願いがあります。私は日本人と同じように戦死することを喜んでおります。私の故郷には年老いた父母がおります。私は父母に贈るため、金を貯めていました。私が死んだら、所持金を父母に送ってください」


 その後、崔昌徳は病床から身体を起こし、「君が代」を歌い始めたのである。


君が代は

千代に八千代に

さざれ石の

いわおとなりて

苔のむすまで



 そして二度目の「君が代」を歌う途中で、崔昌徳は力尽き、二四歳の若い命を散らしたのであった。


 崔昌徳は生前、「もしも自分が敵弾に倒れたときは、明確に半島出身青年が国に殉じたと発表していただきたい。私は必ずそれに恥じない最期を遂げてみせる」と語っていたが、言葉に違わぬ最期を見せた。


 崔昌徳の死は「朗々君が代奉唱し戦死した半島青年 血涙しぼる殉国の華」(『読売新聞』一九三八年十月十五日)、「半島生れの通訳 崔君の勇敢な働き」(『朝日新聞』一九三八年十一月六日)として取り上げられ、日本人に等しく尊敬されることになった。

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