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なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心
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生き方・教養
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第三章 朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇

『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心』
[著]石平 [発行]PHP研究所


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大乱世──三国鼎立から五胡十六国の時代


 前章では、前漢時代に儒教が国家公認のイデオロギーとして支配的地位を確立した経緯を詳しく見た。前漢王朝・武帝の「独尊儒術」から後漢王朝崩壊までの約三百五十年間、儒教は隆盛を極めて、まさに我が世の春を謳歌していた。


 しかしその後は、儒教にとって不本意な時代が続いた。後漢時代の末期、西暦一八四年に起きた「黄巾の乱」によって、中国大陸は長期間の大乱世に突入したからだ。


 二二〇年に後漢が消滅してからは魏・呉・蜀の三国が鼎立する分裂と内戦の時代となったが、二六五年に西晋王朝が再び中国を統一して短い平和の世となった。しかしこの西晋王朝が成立して五十一年後の三一六年に内乱によって崩壊すると、中国大陸は再び分裂状態となって、いわゆる五胡十六国と南北朝の時代に入った。


 約二百八十年間も続いたこの「五胡十六国・南北朝」の時代、中国の北部は「五胡」と呼ばれる異民族によって占領され、彼らの建てた前秦、後秦、北魏、北斉、北周などの王朝(北朝)によって統治された。中国南部では東晋、宋、斉、梁、陳という五つの漢民族中心の王朝(南朝)が交代して天下の半分を支配した。北周を継いだ隋王朝が南朝の陳王朝を滅ぼして中国を再び統一したのは、紀元五八九年のことである。


 二二〇年の後漢消滅から隋王朝の中国統一までの三百六十数年間、西晋王朝の短い統一時代を挟んで、中国はずっと分裂と戦乱の時代だったのである。


 この時代、魏晋や南北朝の歴代王朝は一応、国家の政治的イデオロギーとして儒教を採用していた。しかし前漢と後漢のような安定した統一大帝国の不在は、儒教にとって大変不利な状況であった。儒教は結局、国家の御用教学であって、政治権力の庇護に依存しなければならない。魏晋南北朝という分裂と不安定の時代、国家の力が相対的に低下すると、儒教も勢力を失って衰退の道を辿った。


 たとえば儒教の本拠地である「太学」の場合、後漢時代には国家の庇護下、「生徒三万人」の大所帯に膨らんでいたが、魏晋南北朝になると、国家の力でそれほど大規模の太学を維持することは到底できなくなる。大半の王朝では「太学」が設置すらされず、あった場合にしても規模が極端に縮小されていた。国家の力が落ちれば自らも衰退するのは、御用教学である儒教の宿命だ。


 その一方、後漢末期以来の大乱世の中では、殺戮の戦乱と秩序の崩壊を体験した多くの知識人が儒教の唱える「王道」や「仁義」や「礼治」に懐疑の目を向けた。その代わりに、彼らは現実の政治から逃避し、秩序を蔑ろにして道徳を退け、礼儀にも拘らず性情の自然に身をまかせるようなライフスタイルを好むようになった。


 彼らの多くは、あるいは山林に隠居して自然とともに生きるような生活を送り、あるいは仲間を集めて「清談」を楽しみ、芸術と放蕩に興じるようになった。日本でも有名な魏晋の「竹林の七賢」はまさにその典型であるが、彼らの所為はまさに儒教からの離反であり、儒教の理念と伝統に対する破壊であった。


 このようにして、魏晋南北朝時代の儒教は国家の力の衰退に伴って往時の勢力を失い、担い手である知識人の多くからもそっぽを向かれて、内部からの崩壊の危機にさらされた。ただ、幸いだったのは、国家権力が依然として御用教学を必要としていたことである。そのため、魏晋南北朝時代を通して、儒教はかろうじて生き延びることができた。


心の救済への渇望と仏教の勢力拡大


 しかし、まさにこの時代において、儒教の存亡に関わるもう一つの歴史の大変化が起きた。外来宗教の仏教が中国に入ってきて、急速に勢力を拡大したことである。


 仏教が中国に伝来したのは、およそ後漢時代であるが、それが本格的に広がり始めたのは五胡十六国時代と南北朝時代である。紀元四世紀頃、西域僧の()()()(じゆう)などの尽力により仏典が大量に漢訳されたことは、仏教の中国普及を可能にした要因の一つであるが、仏教勢力の拡大を促す、いくつかの歴史的、社会的要因があった。


 その一つは、後漢末期から長く続いた殺戮と破壊の大乱世の中で、あまりにも多くの苦難を体験した人々が、心の救済を強く求めていたことである。中国伝統の儒教は、権力への奉仕こそを本領とする教学であって、大衆の救済には何の興味もないし、その役割を果たすことができない。そこで、苦しみからの解脱や死後の極楽の世界を説く仏教が現れると、それが人々の心を摑んで離さなかったのは、むしろ当然の成り行きであった。


 その一方、五胡十六国と南北朝の北朝を立てたのが、「五胡」と呼ばれる少数民族であったことは前述のとおりであるが、それもまた仏教の中国普及を促進したもう一つの要因である。彼ら少数民族は、そもそも中国伝統の儒教とは無縁な民族であるから、王朝維持のために儒教を利用することがあっても、それに心を寄せることはない。その代わりに、五胡十六国と北朝の皇帝の多くは仏教に強く惹かれて帰依し、仏教の振興に力を入れていた。


 その時代、たとえば五胡十六国の中の後趙の開祖皇帝の(せき)(ろく)や、華北の統一に一時成功した前秦皇帝の()(けん)などが、仏教を尊信する皇帝として知られた。華北を完全に統一して五胡十六国時代に終止符を打った北魏王朝となると、その歴代皇帝のほとんどが「崇仏皇帝」であった。約百五十年間も続いた北魏王朝は、まさに仏教帝国の様相を呈していた。


 北朝の仏教好きは、どういうわけか漢民族中心の南朝に「伝染」してきた。東晋の孝武帝、宋の文帝、梁の武帝、陳の武帝など、仏法崇敬の皇帝が相次いで出現した。梁の武帝に至っては、「(さん)(ぽう)(やつこ)」と自称するほどの献身的な仏法崇敬者であった。彼の治世下では、梁の首都である建康(今の南京)は、「(なん)(ちよう)()(ひやく)(はつ)(しん)()」の仏都として繁栄を極めていた。


 南北朝が終わって隋唐の時代になっても、仏教の隆盛は相変わらずである。中国大陸を再び統一した隋王朝の時代、開国皇帝の文帝は天下の諸州百十一所に仏舎利塔を建てさせて仏教の普及をはかった。唐王朝の時代には、第三代皇帝の高宗が諸州に国立の寺院を置き、則天武后が長安および諸州に(だい)(うん)(きよう)()を建てさせ、玄宗は諸州に一つずつ開元寺を置いたのである。


 こうした中で、中国仏教独創のさまざまな宗派が生まれてきて、民間での仏教の浸透はよりいっそう広がった。隋の時代には()()という高僧が出て天台宗を開いたが、唐王朝の時代になると、華厳宗が法蔵によって、浄土宗が善導によって、律宗が道宣によって、そして禅宗が()(のう)などによって打ち立てられた。


 中国仏教史上もっとも華やかな時代が出現したのである。


道教の隆盛と唐王朝の「三教」並立


 仏教の台頭と共に、中国伝統の道教もこの時代において勢力を大いに拡大した。道教というのは神仙思想や不老長生の民間信仰を基盤にして生まれた中国土着の宗教であって、その起源は後漢時代の()()(べい)(どう)に遡るが、南北朝時代、伝来してきた仏教の影響を受けて、道教はその教学の理論体系と神々の体系を整え、仏教と並立するほどの一大宗教に成長した。


 そして唐王朝となると、道教は歴史的飛躍を遂げるチャンスに恵まれた。南北朝時代の教学の体系化において、道教は「無為自然」を主張する伝統の道家思想を自らの教義に取り入れた。それと同時に、道家の始祖である老子を神格化した上で、道教の開祖に仕立てた。そして、歴史上の人物である老子の本名が「李耳」であることが、後世の道教に大変な幸運をもたらした。というのは、隋王朝に次いで天下を統一して安定した大帝国を築いた唐王朝の皇帝一族の姓が、まさに「李」だったからである。


 それが大きな理由の一つとなって、唐王朝は開国皇帝の高祖の時代から仏教を崇拝すると同時に、道教を大いに崇信した。高祖はまず老子を帝室の祖として崇拝し、老子廟を建てた。次の太宗は貞観十一年に詔書を出して宮中の席次においては道教の道士を先にして仏教の僧侶を後にすることを決めた。


 そして玄宗の時代になると、玄宗自身が本格的な道教崇信者となって老子に「大聖祖玄元皇帝」の号を奉り、『老子道徳経』を全国の家々に一冊ずつ配って全ての人民にそれを読ませた。それと同時に玄宗は、長安と諸州に「崇玄学」という名の道教の学校を設け、博士・助教各一人を置き、定員百名の学生に『道徳経』『荘子』『列子』などの道教の経典を学ばせた。


 この上で、玄宗はさらに、科挙制度の中に「道挙」を設けて、「崇玄学」の卒業生たちを対象に国家的試験を行い、合格者は官吏に任命した。隋王朝で科挙制度が創設されて以来初めて、道教を学んだ者が儒教の徒と並んで科挙試験に参加して官僚になることができたのである。


 前述のように、唐王朝では高祖から玄宗までは天下諸州に仏教の寺院を建てて「崇仏」の政策を実施しているが、どうやらそれ以上に、唐王朝の道教に対する崇信と保護は熱心であった。


 その一方で、前章で記したように、唐王朝は儒教を基本とする科挙制度を整備して、『五経正義』という儒教の国定教科書を制定している。

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