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「民族」を知れば、世界史の流れが見通せる
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歴史
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第一部 古代

『「民族」を知れば、世界史の流れが見通せる』
[著]関眞興 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間31分
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オリエントエリア

前1200年頃

「海の民」の襲来

地中海世界の再編成


概論 現在の地中海は難民船であふれています。アフリカ諸国での混乱を嫌い、豊かさや安全を求めた人々が、続々とヨーロッパに渡っています。いっぽうのヨーロッパ諸国も人道的な立場を忘れているわけではないのですが、あまりに難民の数が多く、受け入れても、将来が保証できません。ここで話が一気に飛びますが、今から3200年ほど昔、地中海の東海岸でも、同じようなことが起きていました。現代と同一視することはできませんが、「海の民」(この言葉が生まれたのは19世紀の末になってからのことです)といわれる集団が地中海の沿岸地域を荒らしまわっていたのです。史料が断片的で、彼らのことは現在もよくわかっていないのですが、その動きの結果、東地中海周辺の歴史は大きく変わりました。



シュメール人の時代に農耕が始まり文明が確立する



 歴史時代は今から5000年ほど前のオリエント、つまりエジプトやメソポタミアで始まりました。両者の歴史の展開は異なっています。比較的強大なファラオ権力にまとめられたエジプトに対し、メソポタミアではシュメール人が都市国家を建設、アッカド人がそれをまとめ、紀元前(以下、前)2000年を過ぎて古バビロニア王国にハムラビ王(在位前18世紀頃)が出ます。1000年以上の時間をかけて、都市国家の群立状態から「大領域国家」が形成されるまでに至るのです。


 この地域で歴史発展の原点ともいえる農業が始まったのは、歴史時代に入るさらに5000年以上も昔になります。シュメール人の時代には治水や(かん)(がい)など農業インフラが整備され、それが地域の支配者を生み、(あわ)せて、職人や商人なども現れ、食堂や旅館もできてきて都市が出現します。そのような農耕社会の豊かさに周辺の遊牧民が注目し、都市に侵入すると、都市も対抗して団結。じょじょに領域国家に拡大していきます。


 遊牧民との戦いや都市国家間の対立のなかで、王や神官など支配者たちの使命は都市や国家を守ることにあります。この時代、戦争に負けることは奴隷身分に落とされることを意味しました。鉱業をはじめとしてさまざまな労働が強制され、よそへ売買されるのがふつうでした。


紀元前13世紀以前のオリエントで起こった民族移動



 この章の主役は、冒頭で述べた「海の民」です。といっても、初めて本格的な「移動」を行なったのが彼らというわけではありません。たとえばエジプトの場合、砂漠や海など天然の要害により、異民族の侵入は少なかったとされます。しかし、第2中間期の中頃(前17〜前16世紀)、アナトリア高原(小アジア)で起きていたヒッタイト(後述)の動きの余波で、シリア・パレスチナ方面から移住してきた人々がいました。ピラミッドに代表される古王国時代(27〜前22世紀)ほどの派手さはないものの、静かな安定期であった中王国時代(21〜前18世紀)が終わり、ファラオの権力が低下、地方の勢力が自立した頃です。移住してきたのは侵略者ではなく、平和的にやってきた奴隷や難民(移民)だったと考えられます。彼らは王や貴族の召し使いなどとしてエジプト社会に受け入れられていきました。ところがそのような人々のなかで、強力な弓をもち、戦車(チャリオット、二輪馬車)を巧みに(あやつ)る者が、エジプトの有力者の(よう)(へい)になりました。力を蓄えた西アジア系の人々が権力を握り、初の異民族王朝になるヒクソス王朝(1516王朝)が成立したと考えられています。


 ヒクソスの支配に対して、エジプト人は「彼らは武力による恐ろしい侵略者である」という記述を残しています。異民族支配は、エジプト人にとって屈辱の歴史ですし、それを倒して成立した新しい王朝をたたえるために相手を悪くいうのは、今も昔も変わりません。前16世紀後半に始まる第1820王朝は、新王国時代といわれる繁栄期になり、ヒクソスから学んだ新しい戦術によってエジプトが積極的な対外政策を展開します。


 エジプトで新王国が成立した頃、メソポタミアでは古バビロニア王国が弱体化し、北部にミタンニ王国、南部にカッシート朝ができています。両国共にくわしいことはわかりませんが、カッシート人はイラン方面からの移住者で、古バビロニアともしばしば対立し、ヒッタイトと結んでそれを滅ぼしました。そのため、ミタンニはシリアへ領土を広げました。前15〜前13世紀頃のオリエント世界では、エジプト、ヒッタイト、ミタンニがシリア地方を巡って対立することになります。シリア地方の歴史はこのような民族の移動のなかで形成されてきました。そして現在も複雑な民族構成で、周辺の大国との関係も緊張をはらんだものであることは変わりません。


エジプト、ラメセス2世の帝国主義



 メソポタミアとエジプトが中心に説明される古代オリエントの歴史で、アナトリア高原(小アジア)も重要な場所になってきます。前17〜前16世紀頃からヒッタイトが強大化してきます。ヒッタイトの起源ははっきりしません。しかし彼らは初めて「鉄器」を(ちゅう)(ぞう)し、鉄製武器で軍事大国化し、シリア地方に南下しました。新王国時代のエジプトがそれに対抗し、ミタンニは、この両者の間で難しい外交政策を強いられました。


 ヒッタイトとエジプトの戦いといえば、前1280年頃に行なわれたカデシュの戦いが有名です。当時のエジプトは第19王朝、ラメセス(ラムセス)2世(在位前1279頃〜前1213頃)の時代です。彼は、70年近くもファラオの地位にあり、アブ=シンベル神殿の建設者でもあります。彼の時代のエジプトは「帝国主義時代」ともいわれ、ヒクソスをシリア・パレスチナ方面へと追うなど積極的な対外拡大政策を行ないました。カデシュは、シリア北部の交通の(よう)(しょう)・交易の中心で、そこを確保することの意味は非常に大きなものがあります。


 ラメセス2世の時代、ヒッタイトにはムワタリ(在位前1315〜前1282頃)が君臨していました。このとき、ヒッタイトはエジプト軍に(にせ)の情報を流して、エジプト軍の不意を突いたため、エジプト軍は動揺しましたが、すぐに態勢を立て直しました。ここで重要になるのが、この戦争の勝者はどちらかという問題と、戦後の平和条約の締結です。両国共に「勝利」を記録していますが、エジプトがカデシュを奪えなかったことから「引き分け」たというのが実際のようです。平和条約では、この地域での平和の維持を確認し、両国のパワーバランスが図られました。余談ですが、史上初の平和条約ともいわれるこの条約を記した粘土板のレプリカが、国連ビルに展示されています。


 このように強勢を誇ったヒッタイトも、新王国時代のエジプトも、前1200年頃に大きな試練を受けます。エジプトの場合は後述しますが、「海の民」といわれる民族がこの地域を荒らしまわり、アナトリア高原やシリア・パレスチナなどは荒廃し、ヒッタイトが滅亡してしまうのです。



海洋性・開放性に富むエーゲ海の文明


「海の民」のことを語るときには、エーゲ海周辺の歴史状況も無視できません。エーゲ海はバルカン半島とアナトリア高原(小アジア)の西部海岸地帯、クレタ島に囲まれた海域です。前2000年頃からオリエント文明の影響を受け、この地域にも青銅器を伴う高度な文明が形成されました。この地域の文明の存在は、ホメロスの描く「トロイア戦争」の英雄たちの活躍にあこがれたシュリーマンが、アナトリア高原の北西部の遺跡を発掘したことにより知られるようになりました。ペロポネソス半島のミケーネやクレタ島のクノッソスの発掘も続き、エーゲ文明の全体像が明らかにされています。


 エーゲ海周辺はエジプトやシリアとの関係が深く、さまざまな交流があったと考えられますが、なかでもクレタ島で発掘される壁画や城壁のない宮殿などの遺跡から、この文明の海洋性・開放性が明らかにされています。ペロポネソス半島でも、南下してきたギリシア人によって、宮殿を中心にしたミケーネなどの都市が建設されます。前1200年頃、これらの文明が突如崩壊します。それを象徴するのが「トロイア戦争」ともいえます。そして、この地域に住んでいた住民も、「海の民」の仲間になっていったのではないかと考えられています。


東部地中海の歴史を変えた「前1200年のカタストロフ」



 前1200年頃の地中海世界で起きた「海の民」の動きは激しく、「前1200年のカタストロフ」という言葉で紹介されます。しかし、その実態はよくわかっていません。ただ、彼らの動きと解釈できる記録が、エジプトのファラオの業績に残されています。


 前1207年とされる記録によれば、エジプトのファラオ、メルエンプタハの即位5年目に「海の民」がエジプトを襲撃したのです。このとき襲撃したのは、隣国のリビア人に加え、アカイワシャ(エクウェシュ)人、トゥルシア(テレシュ)人、ルッカ人、シェルデン人、シェケレシュ人となっています。これらが「海の民」とされますが、その正体に関し、言語学などを利用して多くの仮説が立てられています。


 その研究成果のいくつかを紹介します。まず、アカイワシャ人はギリシア人の別称、アカイア人のこととする説が有力です。トゥルシア人というのはイタリア半島のエトルリア人ではないかとも考えられています。ルッカ人はルキア人とも書き、アナトリア高原南西部にいた人々のこととされます。シェルデン人とシェケレシュ人はほとんどの学者の意見が一致し、それぞれサルデーニャ人とシチリア人を指すとされます。


 大雑把にいうならば、「海の民」とはイタリア半島とバルカン半島を中心に、地中海の各地にいた民族が統合された集団と理解されるようです。史料に出てくる「民族」名を、言語学的に対応させて、推定している段階です。それにしても、大きな集団になって各地を荒らしまわり、ヒッタイトのような強大な国家までを弱体化させたというのは、「海の民」も後に引けない(せっ)()詰まった事情を抱えていたことが考えられます。


 前1200年前後、地震や(かん)(ばつ)などがエーゲ海周辺の諸民族を苦しめていたことが指摘されています。カデシュの戦いの後、ヒッタイトで起きた深刻な食料危機にエジプトが食料支援を送った記録が残されています。そのような社会的混乱によって人口の減少をきたし、ヒッタイトは国家機構を維持できなくなったとも考えられます。食料危機により生命の危険にさらされた人々は、大挙して蓄えの残っている都市などの略奪を始め、ある者は陸路を、ある者は海路によってアナトリア高原からシリア地方を荒らし、最終的にはエジプトに至ったと考えられます。


 異説もあります。前1177年頃、記録では2回目の「海の民」によるエジプト侵入が読み取れます。このときの侵入には、ペリシテ人がいたことが注目されます。「ペリシテ」は「パレスチナ」の元になります。彼らは今日のイスラエルに居住していたのですが、もともとはエーゲ海周辺にいたとされ、カデシュの戦いではエジプト側につき、ヒッタイトと戦いました。今度は「海の民」に加わり、エジプトを攻めたことになります。


 このときの侵入に対抗したのが、新王国の最後になる第20王朝の第2代ラメセス3世(在位前1198〜前1166)になります。彼の戦勝記念()に打ち負かした民族名が記されています。ところが、先のメルエンプタハの碑に記されているものと重なっていて、単にコピーしただけではないかと疑問を(てい)する学者もいます。もちろん、ペリシテ人など前の碑文にはない民族もあり、「海の民」の侵入は否定されるものではありません。


 この2回目の侵入に続いて、リビア人のエジプト侵入が起こります。リビア人にとっては、暴力的な侵入ではなく家族などを伴った平和的な移住のつもりだったようですが、ラメセス3世の対応は厳しく、多くのリビア人が殺され、また捕虜になりました。捕虜となったリビア人がエジプトに住みつき、しだいに軍事力を含めて力を蓄え、第2223のリビア人王朝をつくることになるのです。結局、「海の民」自身のことは今もよくわからないのですが、前1200年前後の彼らの動きが東部地中海の歴史を大きく変えたことは確かです。その結果、多くの民族が融合されていきました。


混乱を味方に付けた史上初の「世界帝国」アッシリア


「海の民」が、大移動の後にどのようになったか、くわしいことはわかりません。戦闘中に殺された者のほか、捕虜となり、奴隷にされてエジプトあるいは近隣の地で労働を強制された者も多かったでしょう。また、エジプト以外の地で勝利者となり、現地の人々と混血した場合も考えられます。そして、多数派が少数派を差別・(べっ)()するということも行なわれたはずです。しかし、長い時間をかけるうちに同化が進み、差別が消滅していく場合も多かったと思われます。切実な例として、国家規模が大きくなると軍隊も巨大化し、捕虜が兵士として採用されるのはままあることでした。

「海の民」による混乱をしのいだ後のエジプトですが、全体としての衰退傾向は避けられませんでした。とくに西方からリビア人の移住が進み、リビア人の王朝ができただけではなく、前7世紀にはアッシリアの支配下に編入されます。


 そのアッシリアの本来の居住地はメソポタミアの北部、(かい)(ばつ)の高いところであり、灌漑農法は不可能で商業活動に従事していましたが、その活動も古バビロニア王国やミタンニ王国に抑えられていました。ところが「海の民」の移動の結果、古バビロニアなどの勢力が弱体化したことに加え、アッシリア内の旧来の支配層に代わった新興勢力が台頭し、国力の強化を図ったことで、前7世紀にはエジプトまでも支配下に入れ、オリエントの主要部分をほぼ制圧、史上初の「世界帝国」ともいわれる強大な国家を建設するに至ります。


 次の章でくわしく説明しますが、「海の民」の動きの後、シリア・パレスチナ地方で起きた変化が一番大きかったといえるかもしれません。シリア西部の海岸地帯ではフェニキア人の活動が始まります。彼らはティルスやシドンなどの(かい)(こう)都市を拠点に、地中海全域に発展していきます。北アフリカに建設されたカルタゴは、彼らフェニキア人の都市になります(Chapter2参照)。このフェニキア人と並び、シリア東部に居住したのがアラム人です。彼らも商業民として内陸アジア貿易で活動しました。


「移住」「移動」という人間の本質が見える時代



 古代オリエントの歴史は時間の長さに対して史料も少なく、まとめてしまうと一見、(たん)(たん)と過ぎていった感があります。しかし、そこで起きていた人々の動きは、今日の世界と変わらないものがあります。定住生活に慣れた人間にとっては理解しづらいところもありますが、人間の活動の本質は「移住」「移動」にあるのかもしれません。


 現代のように、情報が豊富かつ瞬時に手に入り、たとえば日本からアメリカであっても十数時間で行けるような世界ならともかく、確かな情報も得られないような場所に長い時間をかけて移住する気持ちとはどんなものだったのでしょう。しかし、人類はそれをくり返してきました。そして、そのくり返しのなかで高度な文明を築き上げてきたのです。そう考えると、「移動」こそが社会発展のエネルギーなのかもしれません。


地中海エリア

13〜前4世紀頃

フェニキア人の躍進

古代地中海の商業戦争


概論 中東に「レバノン」という国家があります。「歴史的なシリア」(シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン一帯)の一角で、エジプト、メソポタミア(イラク)、小アジア(アナトリア)に囲まれ、さまざまな民族が行き()い、現在も複雑な民族・宗教構成になっています。まず注目されるのがフェニキア人で、併せてアラム人やイスラエル人(ヘブライ人=ユダヤ人)が中心になって歴史が展開します。しかし、彼らはそれぞれ「大領域国家」を建設したわけではありません。フェニキア人の場合、ティルスやシドンという(こう)()を拠点に、地中海全域に大ネットワークをつくり上げました。広域ネットワークを築くことは、文化の発展にも大きな貢献をします。地中海を舞台にしたフェニキア文字、ギリシア文字、ラテン文字の(けい)()を見ればそれは明らかです。


海洋商人フェニキア人が、地中海沿岸を席巻


「海の民」による古代オリエント世界の大混乱と再編成の後、地中海東海岸地帯(レバント地方)で活躍を始めたのがフェニキア人です。

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