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「民族」を知れば、世界史の流れが見通せる
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歴史
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第二部 中近世

『「民族」を知れば、世界史の流れが見通せる』
[著]関眞興 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間44分
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アラビアエリア

6世紀〜10世紀頃

アラブ人が築いた

イスラム・ネットワーク


概論 今日、中東・イスラム世界は混乱の極みそのものです。第二次世界大戦後の中東世界における混乱の直接的原因は、ユダヤ人のイスラエル建国に求められます。しかし、それですべてが説明されるわけでもありません。中東の地はほとんどがオスマン帝国の支配下にあり、明確な国境もない状態でした。この地域では民族意識というより、部族的伝統や宗派的対立が際立っていたともいえます。もちろん、それぞれの地域のもつ歴史的伝統も出てきます。7世紀に成立して以降、イスラム教はアラブを中心に北アフリカや中東の地に「一体感」をもたらしました。しかし、イスラム勢力内でも対立が生まれています。これは宗派の違いだけで説明のつくものではなさそうです。商人の活躍といった経済的観点から見直してみるのも有効かもしれません。


部族が争うジャーヒリーヤ(無明)時代



 アラビア半島の歴史において、ムハンマド(570頃〜632)がイスラム教を広める以前を「ジャーヒリーヤ(()(みょう))」時代と呼んでいます。この地域を支配する政治権力は存在せず、イエメンなど経済的に繁栄していた一部地域をのぞき、部族の対立が続いている状況でした。多神教世界であり、キリスト教を信仰するアラブ人もいたほどです。


 古代オリエントの高度な文明のそばに位置しながら、アラビア半島は、そのような発展とは無縁の世界でした。古代の高度な文明の発祥地とは対照的に、雨が少なく河川がありません。例外はアラビア半島の南西部のイエメンで、適度な雨が降り、ダムもつくられ、農業が行なわれ、紅海の商業ネットワークの拠点になっていました。


 アラビア半島の砂漠にはオアシスが点在します。その規模は、数百人の人口しか養えない程度の小さいものから、数千人、数万人の生活が可能なほどに大規模なものまでさまざまです。また、中央アジアで見られるようなカナート(地下に掘った水路)を利用する(かん)(がい)農業も行なわれていました。雨のほとんど降らない砂漠でも冬には多少の雨があり、そのときに牧草が成長するため、井戸水を利用すれば牧畜も可能で、乳製品の生産もされていました。まったくの不毛の大地というわけではありません。


 前12世紀以降、アラム人の活動が活発化しました(Chapter2参照)が、その影響はアラビア半島にもおよび、前1000年紀になると、砂漠での交易には、少ない水で大量の荷物が運べるラクダが適していることがわかってきました。そのため、ラクダの飼育が始まり、それを商人に貸したり、みずから隊商を組織したりする者も出てきます。


 このように、7世紀にムハンマドが出てくるまでのアラビア半島では、生活のための商品を(たずさ)えた商人たちがオアシスを中心にした都市間を行き来し、隊商のネットワークが形成されていました。ムハンマドがアラビア半島を統一する過程で、メディナにいたユダヤ人が重要な役割を果たしましたが、彼らもこの隊商のネットワークを利用してメディナに至ったと考えられます。


 ユダヤ教やキリスト教はイエメンにも伝わっていました。イエメンの場合、紅海の対岸に位置するキリスト教国エチオピアからの圧力を排除するため、王がユダヤ教に改宗し、国内のキリスト教徒を弾圧していました。これを知ったローマの皇帝がエチオピア王に圧力をかけ、エチオピアにイエメンを攻撃させ、王を殺害するという事態も起こっています。このような宗教事情は、当時の人々が自由に活動していた証拠ともいえます。ムハンマドもそのような社会で、一神教の影響を受けたのは否定できません。




 ムハンマドによるアラブの統一



 メッカに生まれたムハンマドは、成長すると共に商業活動に従事するようになります。シリア方面にも(おもむ)き、そこでキリスト教やユダヤ教に触れ、影響を受けました。結婚し、生活が安定したところで(めい)(そう)生活に入り、アッラーの声を聴いたとして610年頃からイスラム教の布教を始めます。


 しかし、メッカの有力者たちは伝統の多神教(部族の神々)の信仰を捨てず、布教には耳を傾けないばかりかイスラム教徒を迫害したのです。いったんメッカを逃れた(ヒジュラ、(せい)(せん)といいます)ムハンマドとその信者たちは、メディナに移り、そこで得た信者の協力で10年近い対立ののち、勝利をつかみます。メッカの住民もイスラム教を信仰するようになり、実質的にムハンマドはアラビア半島を統一しました。


 本書はイスラム教の教義の説明が本題ではないので、イスラム教徒の義務の「六信五行」の「五行」だけを紹介しておきます。信仰告白(アッラーに絶対()()することの表明)、礼拝(1日5回)、()(しゃ)財産の一定率の支払い)、巡礼(目的地はメッカ)、断食がそれになります。近年のイスラム世界では、ジハード(聖戦、アッラーのための戦い)ばかりが問題になっている感があります。しかし、アラブ人はジハードによって団結し、支配領域を広げ、さらにイスラム教の信者を増やしていったのです。


 今日、アラブ人といえば北アフリカから中東にかけてのイスラム教徒を指しますが、もともとはアラビア半島の住民のことでした。ちなみに「アラブ」とは「荒野の住民」の意味で、メソポタミアの人々が、アラビア半島の住民をそのように呼んでいたのです。しかし、アラブによる征服と共に、イスラム教に改宗する人々が出てきます。経典の『コーラン』はアラビア語で読まなければならないため、アラビア語を話すようになっていきます。アラビア語を話すイスラム教徒が「アラブ人」になり、アラブ人という概念が拡大しました。ただし、アラブ人のなかにもキリスト教徒やユダヤ教徒がいますし、イスラム教徒になっても自分たちの伝統の言語を話すイラン人やトルコ人のような民族もいます。


 ユダヤ教やキリスト教、イスラム教はすべて一神教です。イスラム教は最後に出てきたものであり、ユダヤ教やキリスト教の影響を受けています。ムハンマドは、イスラム教と先行する二つの宗教の違い、つまりイスラム教の正当性を示さなければなりませんでした。そこで彼は最初の人類アダムから20代目、方舟で生き延びたノアから10代目のアブラハムに注目します。アブラハムはユダヤ人の祖であるとともに、アラブ人の祖ということにもなりました。ムハンマドは、アブラハムの(しん)()な信仰を受け継いでいるとしてイスラム教の立場を正当化したのです。


たび重なる暗殺により、泥沼化した正統カリフ争い



 ムハンマドの死は、アラブ人社会に大きな衝撃を与えました。神のような存在が姿を消したため、(ぼう)(ぜん)自失の状態に陥ります。そのとき、ムハンマドの妻の一人アーイシャの父親アブー=バクルが初代のカリフに選ばれます。カリフとは「(最後にして最高の預言者である)ムハンマドの代理人」という資格です。アブー=バクルは、ムハンマドの死後、各地に出てきた自称預言者の討伐、つまりジハードを行ないながらアラビア半島を再統一したのです。結果、半島の人々はアブー=バクルの権威を認めました。


 アブー=バクルは戦いのため「軍隊」を編成しましたが、戦いが終わっても、その軍隊を解散することの危険性を感じていたようです。軍人たちは、軍隊にいれば給料が出るし、略奪も認められます。そこでアブー=バクルは周辺国に挑戦し続けたのです。アラビア半島の周辺では、東ローマ帝国を頂点に敵には困りません。


 アラブ=イスラムの軍団は東ローマ帝国やササン朝ペルシア帝国と戦いながら、領土を広げていきました。彼らは格段優れた兵器をもっていたわけではありません。ただ、戦場には彼らが生活の舞台にしていた「砂漠」の近くを選びました。そこなら簡単に逃げられるからです。その結果、ムハンマド没後1世紀を経ず、東は中央アジアから西はイベリア半島に至る広大な領土を実現したのです。


 この間、カリフの位はアブー=バクルからウマル、ウスマン、アリーと続きました。形式的には選挙で選ばれたため正統カリフ時代といいます。しかし、継承ではさまざまな(おも)(わく)も絡んで対立が深まり、ウマルからアリーまで3人のカリフが、すべて暗殺されています。3代目のウスマンはウマイヤ家の人間でしたが、ウマイヤ家のムアーウィアはシリア地方の総督にもなり、ムハンマドの娘婿(むこ)アリーと対立していたのです。661年、アリーに代わってカリフになったムアーウィアはカリフの位を世襲化し、ウマイヤ朝を開きます。アリーの信奉者たちがシーア派と呼ばれ、対する多数派がスンナ派になります。


 ウマイヤ朝の下でも征服事業は進められました。(いな)、進めざるをえなかったのです。戦争が増えると、軍隊の規模は大きくなります。アラブ人だけでは兵員を補充できなくなり、非イスラム教徒からも軍人を(つの)ると、彼らもイスラム教に改宗しました。さらに版図が広大になると軍事上の拠点(ミスル)がつくられ、そこには職人や商人たちも集まるようになり、イスラム改宗者も増えていきました。


 この間、新しい問題が出てきます。アラブ人は支配階級であり、税でも大きな特権を認められていました。しかし、征服地の非アラブ・非イスラムは収穫の半分にもなるほどの税がかけられただけでなく、困窮した農民はアラブ人によって土地を奪われていきました。彼らは農村では生活できなくなり、都市に移住します。政府はそれを禁止するものの、数が圧倒的で、認めざるをえなくなり、かつ彼らもイスラムに改宗すると年金の支払いも約束せざるをえなくなりました。戦争を続けなければならなくなった大きな原因はここにあります。


 しかしながら、アラブ特権階級への不満は大きくなるばかりでした。そのような勢力の支持を集め、750年にクーデターが起こるとウマイヤ朝は崩壊しました。こうして成立したのがアッバース朝です。



アッバース革命により、アラブ帝国はイスラム帝国に



 アッバース朝の成立はイスラム世界の大きな変化を意味しました。ウマイヤ家が崩壊したことは「アラブ人」の特権の消失を意味しました。先に書いたように、「アラブ人」という概念は拡大しています。アラビア語を話す人々は基本的にアラブ人といわれるようになります。ただし、イスラム教徒のなかにもトルコ語やペルシア語を捨てなかった人々もいて、アッバース革命ではイラン人が重要な役割を演じました。都がウマイヤ朝時代のダマスクスから新しく建設されたバグダードに(うつ)されたのもその一例です。イスラム教徒なら、民族を超えて平等が実現したことになります。アッバース朝の成立が「革命」といわれるのはそのためです。この結果、正統カリフ時代からウマイヤ朝時代を「アラブ帝国」といい、アッバース朝は「イスラム帝国」と評価されるようになります。


 アッバース朝時代に統治機構が整備されます。領土は、東は中央アジアから西はイベリア半島にまで広がり、それを支配するためにかつてペルシア帝国でつくられた中央集権的な官僚機構が採用されました。また、その官僚機構を有効に利用するための道路の整備が行なわれます。都のバグダードから各地への幹線道路はもちろん、支線も整備されました。それらの道路網は、政治・経済的に利用されただけでなく、イスラム教徒の「五行」の一つ「巡礼」のための道でもあったのはいうまでもありません。


 ハールーン=アッラシード(在位786〜809)の時代、アッバース朝は最盛期を迎えたといわれます。実際、バグダードの繁栄は、当時の世界では、東ローマ帝国のコンスタンティノープル、唐帝国の長安と並ぶものでした。ヨーロッパではカール大帝によってフランク王国が大統一されましたが、その後分裂し、安定にはまだ200年以上の時間がかかります。ヨーロッパはイスラム文化から多くのものを学びます。


 繁栄を誇ったアッバース朝も、その体制は(ばん)(じゃく)とはいえませんでした。アッバース家は、ウマイヤ朝の打倒のためシーア派やアラブの反ウマイヤ勢力を利用しました。しかし、やがてその協力者たちに対して、アッバース家は強圧的な対応をするようになります。弾圧された彼らの存在は、アッバース朝の火種になっていきました。9世紀の後半、メソポタミアの下流域で農場での労働が強制されていた黒人奴隷(ザンジュ)が反乱を起こしましたが、これには反アッバース分子も参加していたと考えられています。


 10世紀になるとアッバース家のカリフの権威の弱体化は、さらに深刻になります。いっぽうで国内の有力者は職業軍人((よう)(へい))を雇い、自立化傾向を強めていきます。946年、カスピ海の南西山岳地帯にいたダイラム人のブワイフ家の有力者がバグダードに入城しました。アッバース家は彼に「大将軍(アミール=アル=ウラマー)」の称号を与え、実質的に政治権限をゆずりました。成立したブワイフ朝はシーア派を信奉していたのですが、バグダード市民は圧倒的にスンナ派が多く、無用な混乱を避けるため、カリフの位までは奪えませんでした。しかし、第4代カリフのアリーをたたえるなどシーア派に関連する行事が多くなり、スンナ派との衝突も増え、バグダードは衰微し始めます。


 アッバース朝が栄え、やがて弱体化するなかで、ウマイヤ家が756年にイベリア半島に建てた後ウマイヤ朝など、独自の王朝がつぎつぎに成立します。10世紀にはエジプトでファーティマ朝が成立し、分裂傾向が進みます。ファーティマ朝はシーア派であり、アッバース朝に対抗して「カリフ」の称号を使用し始めます。それを見た後ウマイヤ朝でも、みずからの正統性を強調するため「カリフ」を使い始め、イスラム世界に3人のカリフが(てい)(りつ)することになります。以後、バグダードに代わって、エジプトのカイロが政治的にも経済的にも発展していきます。


宗教対立の奥底に潜む経済利権



 ムハンマドからハールーン=アッラシードまでほぼ200年、この間、イスラム教は、西はイベリア半島から東は中央アジアにまで拡大しました。ウマイヤ朝の時代、その版図すべてに「アラブ人」が支配者として君臨しました。今日、そのイスラム世界はさらに拡大しています。しかし、イスラム教を信仰する民族は多彩です。スンナ派とシーア派から始まり、体制派と反体制派、過激派と穏健派など、さまざまな対立も深刻です。


 ムハンマドはそんなことは望んでいなかったはずですが、ここまで多様化すると収拾は不可能なのかもしれません。事態が混乱しているとき、物事が複雑化したときには、原点に戻れという教訓があります。今こそ、それを実践するべきときなのでしょうが、対立と混乱を積み重ねた歴史の記憶は簡単には消せません。また、(あみ)の目のように張り巡らされた商業ルートを眺めていると、教義上の対立は口実で、じつは経済的利権を巡る対立なのかもしれない、とも思えてしまいます。


中央アジアエリア

4〜16世紀

ユーラシアを席巻した

トルコ系民族


概論 今日「トルコ人の国家」といえば、アナトリアにある「トルコ共和国」(最大の都市はイスタンブル、首都はアンカラ)を思い浮かべる方が多いことと思われます。しかしながら、トルコ「系」民族が建てた国家や関係する地域は、中央ユーラシアを中心に広く分布しています。西方では「トルコ共和国」ですが、東方では中国の「(しん)(きょう)ウイグル自治区」があり、その間の中央アジアにはソ連崩壊後、カザフスタンなどのトルコ系国家が誕生しました。その多くがイスラム教徒であり、これらトルコ人が一致団結したら、(あなど)りがたい勢力になりかねません。中国政府がウイグル人の政治的動きに神経をとがらせる理由はそこにあります。トルコ人は、どのような経緯でここまで広い範囲に移動したのでしょう。


緊張と友好をくり返す遊牧民と中国



 トルコ系民族の原住地は、モンゴル高原を中心に東はシベリア、西は中央アジアに広がっていたと考えられています。地域・時代によっていろいろな名称(民族名・国家名)が出てきますが、共通しているのは「トルコ語を話す」ことです。人種的にはモンゴロイドに区分され、9世紀以降、西方に進出・拡大していきます。その過程でコーカソイドとの混血も進み、冒頭で触れたトルコ共和国のトルコ人は、コーカソイドと変わりません。


 現代のトルコ系民族は、ユーラシア大陸の中央部を中心に広く分布しています。文献史料に登場するのは、中国の春秋戦国時代(前770〜前221)の記録にある「(てき)」が最初とされます。時代が下って秦、漢帝国時代(前221〜後220)、中国を圧迫した(きょう)()の北方の、モンゴル高原からバイカル湖の辺りに「(てい)(れい)」がいました。これはトルコ(テュルク)を漢字表記したものとされます。トルコ人の出現です。


 くわしい説明に入る前に、ここからの前提知識として、遊牧民と農耕民の生活形態を簡単に紹介しておきます。穀物と毛皮などの交換を(じく)に、両者は友好的に共存している場合もあります。しかし、天候不順で穀物や動物が不足、全滅したときなど、遊牧民は農耕地帯に侵入します。遊牧民は「騎馬遊牧民」とも呼ばれるように、馬に乗り、弓を利用する機動力、殺傷力に優れた戦術を得意とし、中国などの農耕民にとって大きな脅威となりました。このような技術は、西方のイラン系遊牧民スキタイが創始し、東方にも伝わったものとされます。中国で、古くから「長城」が建設されたのは、遊牧民への対抗策でした。長城の前では、騎馬遊牧民は馬を下りなければならず、機動力を生かせません。


 しかしながら、堅固な長城が建設されたのは、じつは秦と明の時代で、そのほかの時代は、積極的な長城建設は行なわれていません。ということは、遊牧民と中国の王朝の関係が、かならずしも悪くなかったという証拠になります。圧倒的に中国が劣勢だった時代もあるのですが、農耕民と遊牧民は、適当な交流をもったほうが相互に利益があったともいえるのです。


匈奴による帝国建設が、世界レベルの脅威となる



 この章で紹介するトルコ系民族は、北アジアや中央アジア、さらに西アジアの歴史で非常に重要な役割を果たしています。それと並んで、モンゴル人も重要な役割を演じています。しかし、教科書を含め、一般書ではトルコ人とモンゴル人の違いにはほとんど言及していません。両者共にモンゴル高原とその周辺で活躍する遊牧民で、時代が重なることもあり混乱します。


 素朴に、「言語」が違っていると理解するのが一番簡単なようです。また、人口はトルコ人のほうが多く、モンゴル人が少ない。それもあり、モンゴル系民族は居住地域が狭くなっています。ただ、チンギス=ハンに率いられ広大な帝国を建設した際には、トルコ人と同化する動きもありました。

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