『新!働く理由』
[著]戸田智弘
[発行]ディスカヴァー・トゥエンティワン
われわれは、自分の才能を開花させるか、多忙にまぎらすか、
自分とはかけ離れた何か―大義、指導者、集団、財産などと
自己を同一化するかによって、価値の感覚を獲得する。
三つの方法のうち、最も困難なのは自己実現であり、
他の二つの道が多かれ少なかれ閉ざされたときにのみ、この道は選択される。
才能のある人間は、創造的な仕事に従事するよう激励され、
刺激されねばならない。彼らのうめき声や悲嘆の声は、
時代を超えてこだまする。
社会哲学者 エリック・フォッファー
『魂の錬金術』(作品社)
「自分にはどんな才能があるのだろう……」。誰しも若い頃に一度や二度は自問自答したことがあるのではないか。
才能とは広がりを持った言葉である。「生まれつきの能力」という意味でも使うし、「物事を成し遂げられる優れた能力」という意味でも使う。つまり、素質という意味でも使うし、その時点での能力という意味でも使うのだ。以下で私は、才能という言葉を後者の意味で使っていく。
ここに20歳の若者がいるとしよう。このとき、その人の能力は遺伝によるものなのか、生育環境によるものなのか。学問的には片方だけでなく両方が関係するというのが定説である。ただし、その比率がいかほどなのかは能力の種類によって異なるようだ。一卵性双生児や二卵性双生児の研究によって「論理的推論能力や数学的思考力、音楽的才能、運動能力などは、それなりに高い割合で遺伝に依存する……いっぽう、同調性や執着性、社交性、不安気質などは遺伝に依存する割合は低く、育った環境の影響が大きい」(東京大学教養学部×博報堂ブランドデザイン『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』アスキー新書)とされている。
私たちは「才能が花ひらく」という表現を使う。才能を素質(生まれつきの能力)ではなく、ある時点での優れた能力という意味で使うとすれば「才能が花ひらく」ではなく「“才能の芽”が花ひらく」というのが正確な表現になるだろう。そうすると、次のような式で表せる。
素質に生育環境が足し合わされて才能の芽となるということだ。才能の芽とは可能性と言い換えてもいい。あの若者は才能を持っている―この言葉は正確に言うと、あの若者は才能の芽、すなわち可能性を持っているということだ。
私は思う。若い時はやりたいことがたくさんある。