『教養としての平成お笑い史』
[著]ラリー遠田
[発行]ディスカヴァー・トゥエンティワン
「バツイチですわ。あとでカミさんはバツを2つ付けて出てくると思います」
額に書いた「×」の印を見せながら、明石家さんまは報道陣を前にそう言った。
1992年9月9日、新宿・河田町のフジテレビにてさんまと大竹しのぶの離婚会見が開かれた。さんまと大竹が同じ会見場に1人ずつ現れて話をする異例の会見だった。
芸人たる者、いついかなるときにも人を笑わせなくてはいけないと考えているさんまは、額にバツを書いて「バツイチ」というギャグを仕込んでいたのだが、報道陣の誰にも気付かれなかったため、自らそれに言及した。残念ながら期待していたほどの笑いは起こらなかった。
この会見の後に『笑っていいとも!』(フジテレビ系)でタモリがこのことに触れて、「あれは自分から言っちゃダメだよ」とダメ出しをしていたことを私は覚えている。
「夏物語で出会って、秋物語で恋をし、そして今は冬物語ですわ」「子はかすがいの甘納豆にならなかったんですよ」など、この会見でさんまが繰り出したギャグはいずれも不発気味に終わっている。離婚会見とは笑いが求められる場所ではないからだ。だが、さんまは最後まで芸人としてのファイティングポーズを崩さなかった。
この離婚はさんまにとって重要な転機となった。なぜなら、世間では「さんまは結婚してからつまらなくなった」と言われていたからだ。
離婚は一個人の人生においては悲劇的なことかもしれないが、芸人・さんまにとっては起死回生のチャンスだった。
現在に至るまで約40年にわたってテレビの第一線を走り続けてきたさんまにとって、結婚していた期間が唯一の低迷期だった。この離婚は彼に何をもたらしたのだろうか。
1975年、兵庫・西宮にある家賃7500円のオンボロアパートで、落語家を志す1人の青年が小さなテレビを見つめていた。修業時代の明石家さんまである。
電球を買う金すらない極貧ぶりで、夜になるとテレビの青白い光だけが頼りだった。それでも落語の修業のためにテレビだけは手放さず、1人で家にいるときは演芸番組やドラマを見続けた。
そんな生活の中で心の支えになったのが、NHKの朝の連続テレビ小説『水色の時』だった。当時17歳だった大竹しのぶが主役を務めていた。