『未来世療法 運命は変えられる』
[著]ブライアン・L・ワイス
[訳]山川紘矢
[訳] 山川亜希子
[発行]PHP研究所
まだ子供だった頃、私は父と一緒に土曜日の朝には礼拝堂に行って、年とった男たちが祈りを唱和しながら、身体を前後にゆすっているのを見ていたものです。一日中、朝も日暮れ時も夜も、いつも同じ祈りなのだよ、と父が教えてくれました。私は祈りの言葉、ヘブライ語がわかりませんでしたが、もっと基本的に、祈る理由が理解できませんでした。「こんなことは無意味だ」と、私は思いました。「こんなに長い年月がたった今では、言葉の意味だって変わってしまっているだろう。それにもう、今では身体を前後にゆらし、おじぎをするのも、体操以上のものではないだろう」
キャサリンに出会ってから、私はわかりました。彼らは変性意識状態になっていたのです。私が患者を催眠状態にするのと同じでした。言葉の内容が何であるかは、問題ではないと思います。儀式それ自体が大切なのです。彼らは神とつながっていたのです。そしてどの宗教かにかかわらず、どんな宗教の儀式も、彼らをより霊的にするのです。その人がユダヤ教であろうとキリスト教かイスラム教であろうと、目的は同じです。至高の霊的存在に近づくこと、そうすることによって、純粋な霊性そのものに近づくのです。
私にとって、霊的であるとは、思いやりが深く、愛情深く、親切であるということです。これは、何も見返りを期待せずに、愛に満ちた心で人々に手を差しのべることを意味しています。また、自分よりも偉大なる何か、私たちが努力して発見しなければならない未知の次元に存在する力を認める、ということでもあります。そして、学ばなければならない高次のレッスンが存在し、それを学んだあとにはさらに高次のレッスンがあることを、理解することでもあります。
私は宗教的な人々が暴力的な行為を行ない、戦争行為へと他の人々をけしかけるのを見てきました。「殺せ」と彼らは言います。「お前たちが攻撃する者たちは、我々とは信条を共有していないから敵なのだ」。この人々は、存在するものはすべて一つの宇宙、一つの魂だけであるというレッスンを、まだ学んでいないのです。私には、彼らの態度はどの宗教を信奉していようと、非霊的です。実は、これこそ、宗教と霊性との違いを画しているのです。霊的であるためには、宗教は必要ありません。無神論者であっても、親切で思いやりの心を持つことはできます。たとえば、神が命じたからではなく、そうすると気分が良いし、人間がお互いに対して行なうべきことであり、より高い次元へ進む道であると思うから、ボランティアの仕事をすることもできます。
私の神の概念とは、私たちの身体の一つひとつの細胞に宿っている愛に溢れた賢いエネルギーのことです。私は神を雲の上にすわって審判を下しているひげをはやした男性という、標準的な姿としては見ていません(心理分析の用語では、これは投影、神の人格化です)。霊性に関する重要な問いは、あなたがどの神に従うかではなく、あなたはあなたの魂に忠実ですか、というものです。あなたは霊的な生活をしていますか? あなたはここ、地球上で親切な人ですか? いるだけで喜びを感じますか? 害を及ぼしていませんか? そして他の人々に善を行なっていますか?
これは人生の真髄であり、上に進む旅に欠かせないものです。しかも複雑ではありません。しかし、私たちの多くはまだ、霊性に関するこのようなレッスンを習得してはいません。私たちは利己的で物質的で、共感と思いやりに欠けています。良いことをしたいという衝動は、肉体的に快適でいたいという欲望に丸め込まれています。そして、善意と利己主義が私たちの中で戦う時、私たちは混乱し、不幸になります。
これが、デイビッドの姿でした。
デイビッドの家族は、古いニューイングランドの血を引く名門でした。彼は私に会うために、わざわざボストンからやって来ました。彼は私がしている仕事の話を聞き、私の退行CDがリラックスするために役立つことを発見しました。ただし、まだ過去世を体験したことはありませんでした。その上、従来の心理療法を試しましたが、あまり効果はありませんでした。
「一週間、滞在する予定です」と彼は言いました。「その間に、何かうまくやれるでしょうか?」
「やってみましょう」。彼の非の打ちどころがないズボンの仕立てと、シャツについたポロのポニーのマークに目をとめながら、私は答えました。「三回、セッションを予定できます。でも、なぜここにいらしたのか話していただかないと、何もできません」
驚いたことに、この質問に彼はとまどっていました。
「よくわかりません」とやっと彼は言いました。「私は……私は不幸です」
「仕事の上で? それとも個人的に?」
「両方とも……いや、そのどちらでもありません」
「どっちなのですか?」
「問題は、私は不幸であるべきではない、ということです」
「不幸は『べき』という問題ではありませんよ。