『仕事ができて、小金もある。でも、恋愛だけは土俵にすら上がれてないんだ、私は。』
[著]桐谷ヨウ
[発行]ワニブックス
自分に自信がある人は、他人にやさしい
ここからは俺の個人的な物事に対する考え方を書いた文章になる。
これまで恋愛に関する考察を書き進めるなかでこぼれ落ちてしまった内容、だけど恋愛とは無関係ではない内容を書いていきたい。
何かを解釈するうえでのヒントになってくれれば嬉しい。
他人を自分の思い通りに動かしたい類の人たちがいる。
彼・彼女らは自分の考え方とズレがある他者にイラつき、ときには行動を矯正・強制しようとする。
これは職場のシチュエーションだと想像しやすいかもしれない。上司が部下に対して、その人の個性を活かす教育を施すのではなく、自分のコピーを作ろうとしている姿は見る機会が多いだろう。
その部下が持っている良さを、上司が評価しようとしないような状況。
飲みの場なんかでもよく見かける。意見が違うときに言葉を交わすことを楽しむのではなく、議論を吹っかけるような人。
その人の意見を咀嚼しようとするのではなく、自分の意見が正しいことを押し通そうとするような人。
他者への敬意とは何だろう?
俺は「自分の思い通りにはならない」ということをきっちり認めることから始まるように思う。
“自分の考え方と近い”から、“自分の延長線上で前を行っている”から、リスペクトがあるというのは分かりやすい敬意のかたちだ。
だけど、自分と「異質な対象であることをしっかり認める」ことも敬意の1つのかたちのように思えるのだ。
自分を多様性のなかにある1つとして受け入れてもらうためには、自分も相手を多様性の1つとして認めないことには始まらない。
また、異質なものに対して攻撃や排除を仕掛ける人は、自分の価値観の檻に閉じ込められていると言える。だから自分と違う価値観が目の前に現れたときに、自分の存在意義が不安になって、相手を否定しにかかるのだろう。そんな必要なんてないのに。
本当に自分に自信がある人は他者に対して寛容だ。
それは「人それぞれ、やりたいようにやればいい」ということを性根から理解しているからのように見える。
また、「人は皆、自分がやりたいようにしかやれない」という性質を理解しているからじゃないだろうか。
他者をコントロールしようとする人たちは「他人はままならない」という大原則をはき違えている人たちだ。同時にそれは、自分もまた、ままならない存在であることを理解できていないからだろう。
人間は理屈ではなく、感情で動く。
もちろん自制心を効かせていくのが、俺らを動物ではなく人間たらしめている所以なのだけど、自分と他者の感情に対して無自覚な人が多いなぁという印象を受ける。
本書でも人間関係を「同調(安心)」と「異化(刺激)」と喩えたが、たしかに差異をぶつけることは相手の刺激になり得る。
そして他者に対して何かを伝えたいという気持ちも分かる。
だけど、その際には繊細な伝え方(作法)が必要なのはまちがいないし、相手がそれを受け入れるかどうかもまたその人の気持ち次第ということを理解しておかなくてはいけない。
「今どう思うか分からないけど、ただ伝えてみるね」くらいのニュアンスで他人に対して接していける人のほうがカッコいいなと俺は思う。ヒステリックさはダダっ子じみた甘えの現れに過ぎない。
そして何よりも、自分自身に対して、他者をコントロールしようとしてしまう自分が、制御できていないということを自覚する必要があるんじゃないだろうか。